初めて読んだ時から、心を捉えて離さなかった。思い出したように読み返しては、幽世との狭間の放課後に浸り直していた。
あの頃――つまり、“校舎”で日々を送っていた頃、放課後というのはどこか不気味な存在だった。不気味で、それでいて居心地が良くて、その日の己の気分によっていくらでも表情を変えた。「この瞬間が永遠であったらいいのに」「この瞬間はいつか終わる、永遠なんてない」――諦観じみた陶酔を、若き日の自分は懐いていた。
この作品を語るのに、個人の回想なんて必要としないことは重々承知の上なのだけれど、過ぎ去った瞬間を思い出させてくれるような、ふいにあの頃の匂いを嗅ぐような、その場に立っているような、そんな気分にさせてくれる作品は、それだけで素晴らしい価値を持っていると思う。この作品には間違いなくそれがあり、軽妙な文体、引用によってもたらされる奥行きと謎、それら自体が、放課後の学舎の陰のように、こちらを誘う手を伸ばしている。
きっといつかの放課後に、私の高校にも“犬”が彷徨っていた。思春期の感情が、愛や憎が、後悔や憧憬なんかが、長い年月をかけ、さながら怨念のように堆積するあの場所は、一種の異界であるのかもしれません。今や“放課後”は消え失せ、夕焼けも見なくなって久しいけれど、心の中に居座ったままの学舎は、私に時折夢を見せます。
その夢は、愛おしくて憎らしい。この作品を読み返した夜は、夢枕でまた、校舎を歩けるような気がします。素敵な作品をありがとう。
本作を最後まで読み終えた後、しばらく放心していました。
キャッチコピーの放課後幻想小説。
まさに終始自分を見失いそうな感覚を覚えながら読み進みました。
登場する文芸部はオタサーの条件を満たしつつも、どこか自分の中のテンプレのそれとは違和感を感じさせます。
また登場してくる演劇部、犬、教師。どれをとっても自分の世界と乖離した雰囲気を纏っており、霧の中で前後不覚に陥ります。
ふわふわとした自分を安定させようと主人公の青柳に縋ってみるものの、要所々でその手に掴んだ袖を掴み損ねてしまいます。
そして糸目の少女の語りが、本作に漂う幻想感を益々増幅させ、気がつくと自分が今どこを何のために歩いているのかさえも煙に巻かれていくようでした。
中国の『任氏伝』という伝奇小説が下地ということですが、みごと摩訶不思議な空間に迷い込んでしまいました。
頼りない足取りとなりながらも物語を後ろから見続けると、現実的なラストに連れて行かれます。
本作の空気と雰囲気に身を任せながら読んで欲しい一作です。
まさに狐に化かされた気分になります。
校舎をでかい犬がうろついています。
どうやらその犬は、普通の犬とは全く異なる存在である様子です。
その犬も、文芸部(オタサー)の人々も、校内に不気味な空気を振りまいています。
ホラーとは違うのですが、普通とは異なる雰囲気という意味では怪談のようにおかしな放課後です。
タイトルやタグにあるとおり、任氏伝という話が下地になっている物語のようです。
と言っても私はその任氏伝を知らずにこの作品を読みました。
おそらくは、知っていて読むと話をすんなり理解できるのだと思いますが、知らなくても全く問題ありませんでした。
なぜなら大事なことは全部、演劇部の変な人たちが教えてくれるからです。
教えてくれる大ヒントを頼りにすればこの物語の姿かたちが想像できるようになっていて、とても親切です。
ちなみに演劇部の人たちは、この作品の中にゆるい空気をもたらしてもくれます。
謎に包まれた不思議なお話というテンションで終始続くのではなくて、
適度に気の抜けた感じになる面白さもこの作品の魅力なのです。
舞台は山の中高校、多分長野です。男を誑かす狐のような先輩の足取りを追うべく、主人公の男子高校生が茜さす放課後の校舎を歩き回る本作。
主人公の青柳は、どこか達観しているというか、オタサーの騎士の中でも冷めている雰囲気があります。その性格が舞台の放課後の教室と夕暮れ時とに絶妙にマッチして、どことなく捻くれていた若い時代を彷彿させます。
しかし、高校時代ってみんな孤独を抱いていて、それでもどこかに帰属したいような、何か面白いことに巻き込まれたいような、心の奥底ではそんな風に思っていた過去の自分がふつふつと甦ってきまして……そういう若い時代のコンプレックスな感情と、謎の犬? の存在と、中国の伝記とでミックスされ、本作は独特な世界観に仕上がっています。
ともかく、登場人物の名前が抜群に長野です。
俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。