寄言狐媚者 天火有時來



 東校舎二階の23番教室は、蛍光灯が無ければもう夜のように暗かった。


 茅野かやの富士見ふじみかえでの机、と言った。しかし、よくよく考えてみれば、この高校は二年から文系・理系のコースで分かれて授業を受けるため、時限ごとに教室を移動する。知らなかったのだろうか、机の中に私物を入れることは無いはずだ。

 青柳は、念のため彼女のロッカーから調べることにした。


「……」


 しかし、ロッカーの中には何も入って無い、教科書さえも。

 念のため両隣も、遂には机の中も一つ一つ手を伸ばしてみる。蛍光灯を点ける選択肢は取れない。誰かに見つかったらドン引きの光景だろう。青柳は後ろが気になって仕方なくなった。

 教室の中ほどで耐え切れなくなり、後ろを向く。



 ゴオオォ


「せ、せん……」


 辰野たつのの手が青柳の首に掛けられる。あごに親指の爪が擦れて燃えるような感じがした。


「青柳っ!」


 ガシャア。調べていた机に押し付けられて倒れ込む。辰野が覆いかぶさるようにマウントを取る。そして辰野の両手に青柳の首はくるまれ、力が加わる。


「ううう」


 闇が眩しくなった。正確にはストロボをいたようで、視界に白みが広がっては消えていく。

 痺れる指先で辰野の手を掴む。ウェイトの差は三十キロはあろうか、ビクともしない。しようも無く、指先は空をまさぐり椅子の脚に辿り着く。

 力を入れる。


「あぐうっ」


 椅子の背もたれが辰野のこめかみを穿った。辰野が出血した場所を手で抑える隙に青柳はその下から脱出した。


「お前が……!」


 しかし青柳が立ち上がろうとした瞬間を狙い、辰野は飛び掛かる。巨体のカウンターを食らう形になり、彼は再び床に打ちつけられた。更に机や椅子が倒れる。

 辰野が吠えかかる。


「お前のせいで俺たちはっ!!」


 辰野はまたマウントを取ろうとしたが今度は青柳も呼吸ができる。全力で逃れようと腕を握り、相手の首筋にかじりつく。


「うがああぅ」


 オタクたちの唸りが教室に木霊こだまする。

 青柳は身を起こし、更に深く指を食い込ませた。辰野が頭を必死にねじり、カチカチとお互いのメガネが打ち鳴らされる。

 膠着こうちゃくは三十秒と続かず、二人の体力はあっという間に費やされた。


「ふぶうううっ!」


 最後の力を振り絞ろうとした時、辰野の頬をよぎり、血のしずくが青柳の目に入った。力が弱まり、血も涙も唾も垂れ流しの辰野が青柳を引き剥がす。

 青柳の首に再び手を掛けられ、辰野が歯を振り乱して笑う。



 バウッ! バウッ!


「え!?」


 唐突に現れた逸文いつぶんが戸口からひとっ飛びで青柳たちの元に駆け寄る。犬は細長い鼻先を辰野の脇腹に当てくすぐった。


「や、止めろ!」


 この隙を逃さず、青柳は辰野の胸を押しやり跳ね返す。後ろの机に押しやられ、前や横の机や椅子を巻き込み騒音となった。


「ハッ、ハッ、ハッ」


「離れろ! よせ!」


 犬は思いっきり転がった辰野をまさぐり鼻を押し付ける。そのうち、耳の長い毛が口に入って声を出すこともできなくなった。


 喧嘩の空気は終わった。少しすると犬は辰野から離れ、青柳の足元にやって来た。


「……俺たちだって楽しかっただけなんだ」


 不意に辰野が口を開いた。教室の汚い床に寝そべったまま、こちらに背を向けている。


「サッカー部とか付き合うとか、そんなんどうでもよかった。カエリンが来てから、まるで普通の運動部のヤツらみたいに女の子とお喋りできてバカにするんじゃ無くて笑ってもらえた」


 青柳はもう教室から出たかったが、辰野の声色がそれをさせなかった。


「それがいつからか変わっちまった。最近の放課後、本当に辛かった。みんなただ睨み合って言葉も無く、解決策も無く、ただ誰かが終わらせてくれるのを待つだけ。誰の気持ちも踏みにじられた……」


 鼻をすする音がして辰野が泣いていることがわかった。


「もうたくさんだ。俺たち、どうすりゃいいんだ」


「辰野先輩、でも、富士見先輩を見つけなきゃ、どうにも……」


「嘘をつくな」


「え?」


「放課後の始まり、部長はお前の後をついて行った。俺はその後を。他のヤツらも誰かの後をついて行った。そして誰も終われなくなった」


「僕は、いや、そんな……」


 青柳はうなじの辺りを撫でたが、少しも言葉が出てこない。


「お前はカエリンのお気に入りだったもんな。だから、俺たちも焦り出して……。なあ、おい」


「ぼ、僕は何も知りません……本当に何も……!」


「お前も、たかの声を聞いたんだろ?」


 バウッ!


 犬が吠え、青柳は走り出した。


 行き先は無い。部活動も店じまいになる時間帯の校舎をただ走る。途中ですれ違うのは文芸部の男たちだけだった。

 上諏訪かみすわ部長も川岸先輩も塩尻もみんな、虚ろな瞳で空き教室やトイレや廊下に立ち尽くしている。その誰もが青柳を見ると唇を形作る。

 『た』、次は『か』。

 青柳は悲鳴を上げた。





 その日の昼のことだった。青柳は弁当を一人で食べている。教室の自分の席はもう別グループの人間が座るようになっていた。部室は、富士見楓が居ないのをいいことに先輩たちが外まで聞こえる声で怒鳴り合っている。

 すると、メールが来る。富士見先輩からだった。



  青柳君へ

  お願いしたいことがあります。

  私の代わりに色々と処分して欲しいものがあります。

  部室のシュレッダーをくすねたので使ってください。

  その隠し場所も含めて、下のリストにまとめてあります。


  ごめんなさい、急に行きたくなって。

  でも君ならわかってくれると思います。

  それから、全部終わったら来てほしいところが――





「無かった!?」


 茅野かやのは大層驚いて、またも演劇部員の注目の的になった。

 教室はさすがに蛍光灯が点いて窓に自分や茅野の姿が映っている。そして犬も、青柳についてきたらしく、横で澄まし顔をしていた。


「前に、文化祭の前、あの人が部活に来るのが遅かった時、他に味方が居なくて、あの人の教室に行ったことがあって。あの人、何かを一心不乱に書いていて。机や足元にたくさん落ちてて、近づいても気付かない。拾ったら、全部遺書だったの」


 茅野は自分の肩を抱く。怯えていた。


「何枚も、何十枚も。死ぬ理由も宛先も、全部違って、ボクの名前もあって、ボクに謝るだけのも、恨み言をひたすらぶつけるだけのもあった。親にも、お前にも、ドナルド・トランプにも、世界中の人へも。あの人、狂っていた」


 だから辞めたの、怖くて。何かを察した様子で茅野は話してくれた。


「それじゃあ、先輩が何処に行ったかとか、知らないかな……」


 青柳は声が震えないように喋るのに気力の全てを尽くした。掻き毟るうなじから皮膚が剥げるのがわかった。

 茅野はしばらく黙ってようやく口を開いた。


「あ、でも、前に204教室の使ってないロッカーを秘密の隠し場所に使ってるって」


「そうなんだ、行ってみる」


 そこに入っていたサッカー部の本命宛の遺書のベスト集はもうとっくに処分した。だが、行き先があるならそれでよかった。


「再開してイイ?」


 糸目の少女が不安げに聞く。黒板の活動予定を見るに、もうそろそろ店じまいだ。


「あ、はい」


「ソ」


 少女が台本を振い、茅野がそそくさと舞台に戻って行った。平台ひらだいと言うのだろうか、扁平へんぺいな木製の台の傍に行く。他の役者たちはとっくに位置についている。


 ぼうっとその光景を眺めながら青柳は考える。204に行って、次はどうしよう、また岡谷のところに行こうか。

 突然視界に糸目が入ってくる。虹彩の色はヘーゼル。


「キミ、酷い顔シテル。傷もアル。すこし休んで行かナイ?」


「え、あ……」


 答える前に演出は椅子を一つ引っ張ってきた。見学シテッテ、と。正直疲れ切っていたので座り込んでしまった。糸目の少女はその右隣の床に胡坐をかいた。左隣は犬だ。


「高さに気を付ケテ」


 着ていた黒ジャージから袖を抜き、羽織りながら茅野は答える。


「過保護ですよ、たった十五センチでしょ」


 茅野の苦笑いは、糸目が台本を振り上げるとすぐに引き締まる。


「ホイじゃあ、行きマース、よーい、ハイ!」


 台本が降ろされる。稽古が始まる。


「いやー、田舎は空気が良いなあ」


「そうですね……」


 茅野が俯きがちに答える。

 衣装も小道具も無く、全員女の子なので舞台上で何が起きているのかは正直わからなかった。話も分からないし、と窓を見ると、富士見楓が青柳の後ろに立っていた。


 口元を抑える。声は漏れずにすみ、誰にも気づかれなかった。

 彼女は何かを喋っている。青柳はポケットをまさぐり、一枚の紙片を取り出した。



  青柳君へ


  こんなことになってごめんね。わたしは



 後は千切れてて読めない。

 窓に映っているのは先輩の逸文いつぶんだった。



「ところデ、ソレ……」


「えっ。ああ、こっち!?」


 こんな時に少女が声を掛けてきた。前屈して左を見ている。青柳が頭を撫でると犬は気持ちよさそうに目を閉じた。


「ワタシが本で断片をんだカラ、そこだけ見えるようになっちゃったノネ」


「じゃあ、コイツのことを?」


 少女は頷いた。


とうの昔、このオハナシを基に作られた詩。作者の出世作だったんだケド、散逸さんいつして今は浮き世をさまようダケ」


 青柳はほっと息を吐く。こいつも僕と同じなんだ。


「そうなんだ。それじゃあこの犬が何をしているのかは貴方にもわからないんですね」


「イヤ?」


 少女は首を横に振り、詩を暗唱した。


 ――玉爪ぎょくそう蒼鷹そうよう雲際うんさいえ、

   素牙そが黄犬こうけん草頭そうとうに飛びさる。


「黄色い犬は青い鷹と一対、これは鷹狩の場面。元のオハナシは残ってるカラネ」


 そして、少女はあらすじを語ってくれた。


 女は男の妾になった後、これまでの贖罪をするみたいに男に尽くした。家事をし、大金を稼ぎ、他の男に言い寄られても啖呵を切って友誼ゆうぎを結びと大活躍。その甲斐あってか男は出世して任地に赴くことになった。


 男は女に一緒に来て欲しいと頼む。しかし、女は拒んだ。「占いでそこに行くと悪いことが起きると出た」と。でも結局、男は友達まで使い説き伏せて同行させる。


 その旅の最中、狩りの練習をしていた犬が狐の臭いを嗅ぎつけ、女に襲い掛かり、


「死んだ……」


「ソウ。この犬は狐のニオイを追ってイル。チョド今やってルヨ」


 と、台本で示されると舞台の見方がわかった。先輩の逸文はまだ何かを喋っていて、微弱な原稿用紙の切れ端だけではさっぱり聞こえない。


 犬役の役者が、両手を組んで作った犬の口でユーモラスに茅野に噛みつき、離れる。亭主の役者は彼女を抱くが、茅野の体はするりと手から滑り落ち、ジャージだけが残った。


 茅野は静かに平台に登る。

 そこが死者の世界というわけだ。窓の逸文は彼女に遮られて見えなくなった。

 亭主が叫ぶ。


「そんな、どうして俺を置いていくんだ!」


「ごめんね、でも、私……」


 能面のように硬質な茅野能子の唇が、すぼまって再び開く。


 コーン、コーン


 野狐やこたちが吠えている。それは嘆きであり、役者たちが遠くへ呼びかける発声であり、茅野に『疲れるから早く終わらせろ』という思いが込められている。


「あなたに嫌われたくなくて」


 狐は、本当に忘れていたみたいな間をとってから最後の台詞を言った。


 そして青柳もまた、早く先輩の待つプールの女子更衣室に行かねばならないと思った。


 夏の終わりに先生が鍵を掛け忘れた、屋根に鷹が止まっていた、彼女のとっておきの隠れ家に。ひざまずいてドアの下の隙間を覗き込んだ時、転がっていた椅子の傍に、十五センチ宙に浮いていた彼女の爪先の傍に。この犬も連れてこう、きっとそこが行き先だから。

 紙片が手から落ちた。



 ハイ、おしまイ



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あるいは任氏という名の狐 あたし黒髪のようにとけそうな気がする @hailingwang

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