勿喜犬不捕 勿誇鵰不猜
こうなれば逃げるしかない。身を翻した
「あいだっ!」
慌てたせいで早々に足首を捻った。足首がぐるんと曲がって痛みが。転びはしなかったけど涙目で歩くのが精一杯だ。一段一段足を降ろすのが大義に思え、青柳は遅々として進まないのにますます涙が湧いてくる。こんな場合じゃないのに。
ゴオオゴオオオオ
ちょっと人間が出すとは思えない呼吸音が背後からする。
「青柳いぃ!!」
青柳の肩が掴まれ、思いっきり引っ張られた。辰野にとって誤算だったのは青柳が二足で十分立てる能力を失していたことで、後輩は手すりから手を離して身を持ち崩し、体重を掛けていた先輩もそれに続く。
ドーン、という重たい音を研究室の岡谷は気にも留めなかった。声から文芸部間のことだとわかったからだ。
「ぐふうぅ」
ミントと土の香り。
辰野の息が青柳の首筋に当たった。辰野の頬は土と砂がこびりついて汚かった。更に垂れてくるキシリトールガム配合の
「お前も……」
辰野が壁に肘をついて半身を起こして、喘ぐ。
「
無視して走った。
少しすると呼吸音でまた辰野が追いかけてきたのがわかる。どこか人気のあるところに行こうと思った。すると西校舎への渡り廊下が見え、そこを一直線に走る。
位置的に渡り廊下の窓から入る光は乏しく、中庭や外の市街は人影も無く既に夜に見えた。一人ぼっちになった空恐ろしさで、追いつかれることなく走る力が湧いてきた。
大きく差をつけて角を曲がりきり、誰か、声のする教室に匿ってもらおう。
ひときわ大きな声のする教室へ。
戸を開ける。
「あの男はなんなんだコーン?」
「逃げるんだコーン!」
逃げ込んだ先にはコーンという語尾の不気味な動きをする集団がいた。
室内の机は上にひっくり返った椅子をのせて全部廊下側に寄せられており、戸を開けて二三歩で足の踏み場も無くなった。窓側の空間には六、七人の黒ジャージ姿の女子が、大声を上げ大げさに動き、演技をしていた。
「どうしたノカ?」
一人だけ、ひっくり返った椅子の脚の間に座る少女が、首をいっぱい曲げて青柳を見た。語尾は無いが奇妙に訛っている。台本を片手に、部長か何かまとめ役をしているらしい。
「ココは演劇部の縄張リヨ? 忘れ物なノカ?」
「え、と、う」
「机ゴッチャだシ、探すんなら止めて手伝うケド」
「いや、あ、あの、続けてて、いただけますか」
言われるまでも無く演劇部員たちは稽古を続けていた。少女も前に向き直り、青柳はとりあえず机の上によじ登って窓側に行くことにした。戸の向こうから辰野特有の排気音が聞える。
不気味な集団はまるでダンスのように規則性のある動きをしている。全員ジャージで、新興宗教の儀式みたいだと青柳は思った。
よく見るとすばしこく駆けまわる中に、一方でもたもたと探し回るのが一人いた。
やがて探し回る役者の前に、駆けるコーン教団がスクラムを組んで立ちふさがる。コーン教団は手足を曲げたりそこに体をくぐらしたりして、まるで知恵の輪のような、歪んだ
「このおっ!」
探し回る一人は果敢にそのバスケットに挑み、一人また一人とちぎっては投げ捨てていく。教徒たちはコンコン鳴きながらユーモラスな動きで飛ばされていった。
探し回る一人は、最後に残った一人を見咎めてその両肩を掴む。
「君だよ、君を探していたんだ!」
掴まれた彼女はもがいて首を背け、イタズラのバレた幼児のように悪びれた。
「私のことは知っているんでしょう? コーンな身では……」
「知っていたからと言って、何だって言うんだ!?」
「恥ずかしいわ。自分のしたこと」
コーンのせいで二人の空気は間抜けそのものだったが、ちぎられたコーン教徒たちは固唾を呑んで見守っている。
青柳は見当を付けた。これは男女の場面らしい。
「中国の伝奇小説ヨ。狐が女に化けて男からかって遊んでたんだケド、ある日気合の入ったズーフィリアを化かしたのが運の尽き。
ワタシが台本にシタノ。少女が糸目をニンマリたわめてこちらを見ている。
「それでコンコン言っているんですか?」
青柳は少女の二つ横の机にしゃがんでいた。椅子の脚にもたれてようやく一息だ。
「ウン、仲間の狐タチ。原作には居ないんだけドネ。コロスみたいなもノヨ」
熱っぽい話を聞き流しながら、青柳は窓の外に目をやった。
高校自体が半分山の中にあるようなもので、
男と女は一層近づいている。
「どうして俺を捨てたんだ。こんなに君のことを思っているのに!」
「捨てただなんて、そんな、私、ただ」
男に詰め寄られ、逃げ場を失くした狐の女は、もう必死に言い訳を考えているように見えた。彼女は下を向いてそっと息を吸い、口をすぼめる。
「あなたに嫌われたくなくて……」
「コーン、コーン」
狐たちが遠吠えをして二人がさらに言葉を続けようとした時だった。
パン
少女が手を叩き、突然舞台上から緊張感が消え失せる。
「ハイ、そこマデ。少シ休憩!」
それで役者たちも役を忘れて起き上がったり、机や椅子に飲み物を取りに行ったりした。少女は椅子の間から飛び出し、青柳の前に立った。他の興味津々な演劇部員共々、ジロジロと見てニヤニヤしてから聞く。
「キミ、一年だシ、遅れてきた入部希望者カ?」
「もう十月でしょ」
と、部員の誰かが突っ込むが、その目には期待を含んでいる。面倒くさくなりそうだ、臆病な彼でも機先を制さねばならないと焦った。
「あ、あ、そういうわけじゃ……文芸部で、聞きたいことがあって……あ、僕は」
「青柳」
名前を呼んだのは少女では無かった。役者たちの中の一人で、青柳から少し離れたところにいる。
「
「ボクの黒歴史です」
茅野能子は自分のことをボクと呼び、声に親しみなどは含まれていなかった。
「あ……」
青柳は椅子の脚を強く握って、彼女に話しかけるべき内容を考えたが何も出てこなかった。もたついているうちに茅野からこちらの方に来た。
「今日、ずっと、
記憶の中に在る姿と違い、彼女は髪がうなじまで短くなって、神経質そうだった吊り目は更にキツくなったようだ。
「文芸部どもがみんな校舎をうろうろしている、ずっと、オマエも」
でも今の部活のせいか、粒だった発音で喋るようにもなっていた。
「それ、
「またあの人!?」
茅野の剣幕には演劇部員も驚いたらしく、全員の関心の的となったがまとめ役の少女が丸めた台本を一振りすると、見て見ぬふりになった。チームワークが良い。
「まだあの人に夢中なんだ、オマエラ」
「お、オレはそうでもないんだけど……」
これが本音なのか青柳にも実のところ分からない。少なくとも茅野は違うと考えたみたいで、表情に哀れみが混じった。
「噂だと随分なことになってるらしいけど」
「ああ、うん。最近はもう放課後ずうっと、にらめっこ。辛い時間だった」
「ボクが辞めた後もイロイロ貢がせてたの?」
茅野にとっても苦い記憶になるため、その話は表現がボヤかされる。
「まあ健全な範囲だったよ、一人頭に換算すれば……」
それが集計されると、まるで全額が自分の損害になったかのように男たちは怒り狂った。
「あっそ。それで、居なくなったって?」
「うん、だから何か、知らないかなって」
「何かって、何?」
「いや、どこ行ったのかとか、最近連絡とか、とってないかな……」
茅野は本当に嫌そうな顔をした。
「ボクが、あの人と?」
あんなに仲が良かったじゃないか、とは言えず、むしろ茅野の方から畳みかけてきた。
「行方が知りたいならあの人の机の中でも調べれば? もう帰って」
「あ、そう……」
彼女はそれでそっぽを向いてしまい、気まずい空気が、もたれている椅子の脚をすり抜けて突き刺さる。
なんとなくまとめ役の少女を見ると、困ったように眉を吊り下げていた。が、すぐに笑顔になり台本をポンと叩く。
「休憩終了!」
演劇部員たちが早々に動き出し、青柳もそのドサクサで退出することにした。
「ハイ、聞いテ。今日から本番用の
「そんな、たった一寸でしょ、センパイ」
少女を茶化したのは茅野の声だった。
「茅野チャーン、わかってナイネ。一寸天国に近づいたッテ考えルノ!」
「助けてー、演出がいじめますぅ」
思わず振り向くと茅野が他の部員にわざとらしく抱きついている。糸目の少女は憤慨した。
「チョットォ!」
笑い声が上がる。
「ソンなことしちゃダメ、
青柳はなんだかここに来たことが申し訳なかった。意外だった、知っている茅野は誰ともそんな砕けた調子で話す人間ではなかったから。
速くこの教室から出たい。
「――
「それ、論語か何かですか?」
去り際、少女の言葉が耳に残った。
教室を出ると人影や足音は無い。代わりにすぐ傍の角からハアハア呼吸音がした。
辰野先輩だろうか?
恐る恐る覗くと、文芸部員の
「お、おう」
彼は例の犬にたかられていた。スラックスやブレザーを万遍なく鼻先で突かれている。動じてないように見えるが、にきびだらけの額に脂汗を浮かべている。
「あの、大丈夫?」
塩尻はいつもより掠れた声で喋った。
「
塩尻はまた青柳をジロジロ見てから喋る。
「なあ、お前も……」
彼はそこで口ごもり、しばらくして、犬がキャフンとくしゃみをしてから、再度口をきいた。
「いや」
塩尻はふらりと踵を返して後ろの方に歩き出した。
犬は角をこちらに曲ってどこかへ消えた。
◇
「先輩は! ……好きな話とか、ありませんか」
最初だけ威勢よく、でもあっという間に青柳の声も話題も尻すぼみになった。
夏休みの明けた九月ごろ。一階の、部室棟へと続く廊下の端で、部活の始まる直前。たまたま富士見楓が一人でいるのを見つけた時だ。
「え、なに?」
男どもの暴走を密告しようとした茅野が穏便に追い出され、文化祭は予算の関係を
つまりそれが
「うーん」
彼女は目を伏せ小首を傾げる。
「細かいところはいいから、オチがちゃんとつくのがいい。幸せなら幸せなだけ、白雪姫は王子様と一緒になって永遠に幸せに~とか」
「そ、それなら、先輩たちを
青柳は本題に戻れてほっとした。
「え、ああ。わかっちゃった?」
昼休みにたまたま見た、よく日焼けした男と富士見楓との面会は青柳にそれほど悲しみを与えなかった。が、糾弾ぐらいはしたくさせた。
「んーでも、みんなといるのも好きなんだよね……」
「好きって……」
「どうしよっかな」
と、富士見は眉を八の字にして親指の爪を噛み出す。
呆れた態度だが、青柳も実はそれを否定できない。その『みんな』の一人でいること自体が目的だったから。
「悲しい話なら悲しいだけ。イヤな話ならさ、イヤなだけ、ぶっちぎっちゃった方が良いと思うんだよね」
彼女は血が出るまで爪を噛んでから、何でもないようにそう言った。
◇
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