あるいは任氏という名の狐

あたし黒髪のようにとけそうな気がする

勿謂神默默 勿謂天恢恢



 えー嘘でしょ


 ね、先輩来る前に、も一度やっとかない?


 フジミって、あの二年の? ふ、マジ?


 本当なんだって。部員と六股でサッカー部のカッコいい人とも


 戻ってくるまで休憩って決めたばっかじゃん


 六股? なんか。違う、部員全員でしょ?


 ほんと? 誰から聞いたのそれ


 うん、文芸部の騎士たちが、お昼にヲタヲタ


 こっちはしーたん先輩、同じクラスなんだって


 もう二年じゃ持ちきりだって、ウケんね


 え、待って待って、騎士って何!?


 知らないの


 なんか。ウケる


 フジミって先輩、文芸部で女子一人だけだからモテモテで、


 ねー、も一度練習しようよ、私のとこ、まだ楽譜が


 いいじゃん、大丈夫、アミ先輩やさしいから


 モテモテで?


 逆ハーで、姫でしょ。周りは騎士


 騎士て、でも、文芸部の男って、


 オタ……眼鏡かけてねっとりした黒髪の太った人たちだもんね


 あはははははははっ

 あはははっははははっ

 あははははははっ


 あんまり大きい声出さない方が、


 それ、全然オブラートに包めてないし


 大丈夫大丈夫、近くで演劇部が奇声上げてるから


 あれ奇声なんだ、発声練習だと思ってた


 あははは、逆逆。でもそのフジミって先輩どうするのかな


 サッカー部にはフラれて超ヘラってるらしいね


 そうなの?


 今日も昼には居なくなったって


 てか、サッカー部のカッコいい人って誰?


 あれ、キャプテン、だったかな……


 すっげー大事オオゴトになったらいいなー


 ね


 オオゴトになったら、休みなんないかな。




「バウッ! バウッ!」




 その犬の乱入により、教室の吹奏楽部員たちは凍りついた。

 教室の前半分は机が押しやられ空いていて、大きな金管楽器と人が点在している。今、四人の彼女たちは机の上や教壇に腰掛け、息さえ止める勢いで停止していた。


「グルルルルルウ」


 唸り声と同時に犬の前脚が大きく開かれ、白い爪が床板に突き立てられた。犬は机を二つくっつけたほどの大きさと高さで、ゆるい曲線の長躯に必要最小限の筋肉がついている。黄金色の体毛はビロードじみた滑らかさで、尾と耳にだけ風にそよぐほど長い。


 犬は前側の戸から数歩の位置で立ち止まり、束の間、室内では西日できらびやかなほこりだけが揺れ動いた。


「失礼しまーす! 文芸部の者、なん、ですが」


 三十秒ほどして、のん気にも後ろ側の戸から入って来た男子生徒が沈黙を破った。


「バウッ」


「うわっ」


 犬はその少年を認めるや否や走り出した。彼はおののき逃げることもせずに頭から飛びつかれ、廊下にもんどりうつ。


「あだっ、いてっ、イテッ……」


 言ったほどには少年に痛みは無く、押し倒された衝撃と、その後犬の鼻先に体をまさぐられるだけ。少しして、興味を失ったのか犬は少年から降りた。そのまま教室にも戻らずどこかに行ってしまう。


「あーびっくり」


 少年が起き上がると、沈黙を貫いていた彼女たちの誰かが、ほうっと息を吐いた。大変でしたね、といった感じの苦笑が人々に共有される。


「一年三組の青柳です。実は人探しをしているんです」


 ようやく教室に入ってこられた少年は、ひょろりとしていて、ねっとりした黒髪でメガネを掛けている。うなじの辺りを撫でながら喋り、それが彼の癖だった。


「同じ文芸部員の二年生で、富士見ふじみかえでという人です。どこかに行ってしまって。ツーサイドアップで、目の大きい……いや、写真、あ、えーと……」


 青柳はブレザーのどこにスマートホンをしまっていたか定かではなかった。前に走った時に一度落とし、拾ってどこかのポケットに入れたのだが、犬に絡まれた拍子に忘れてしまった。結局それはスラックスの方にあり、データを探っても富士見先輩の写真というものを見つけることはできなかった。そもそも写真は全て消してしまったのだった。


 困ったな、と顔を少し上げると、吹奏楽部たちの足元が目に入る。白地の上履きに引かれたラインが赤色で、それは彼女たちは青柳と同じ一年生であることを示していた。


「えー、ごめん。そうか、でも、君たちも一年だよね。そもそも知るわけないか」


 吹奏楽部たちは噂以上のことは知らないので、むしろ聞きたいぐらいだった。しかし彼女たちの誰も彼のことを知らない。親しさが無ければ聞ける話題ではないと彼女たちの社交性が思わせた。


「じゃあ、もう一つ質問。一年の茅野かやのさんも探しているんだ」


 青柳にとって正直なところ、この質問はかなりの機転である。茅野のことは今の今まで忘れていた。まだ文芸部が機能不全に陥る前、文化祭のゴタゴタで退部した部員だ。六人入った一年のうち、唯一の女子で富士見先輩と親しかった。結果、男どもから不思議な嫉妬を買って嫌がらせを受けたのだが。まだ交流があるかもしれない。

 吹奏楽部たちは茅野と聞くと、何か不安そうな表情を浮かべた。一人が、おろおろと口を開く。


「茅野? え、あの、学年に、何人も」


「下の名前は、たしか、能子よしこ……」


 すると、答えた部員がまた口ごもってから言う。


「えっと、クラスが同じ。でも、あんまり話さなくて」


「何の部活に入ってるかは?」


「運動苦手だったし、文化系かも……」


 部員の言葉はとにかく鈍く、記憶を振り絞っていた。


「ありがとう」


 青柳は適当にお辞儀し退出することにした。次の目的地は思いつかず、亀のような速度で廊下を歩き出した。


 背後から金管楽器の音が聞こえ、さっきの吹奏楽部員たちがパート練習を再開したらしい。放課後の校舎、こと受験生の補習がない西側校舎は文化系の活動場所で、かなりやかましかった。楽器やダンスミュージック、ギャーギャー叫び声。その音を巡って行けば、茅野には会えるかもしれない。そういう捜査方針で行こう、そう決めた。


 少し歩くと、突き当りの、階段へと続く角に行き当たる。曲がると、文芸部長の上諏訪先輩がいた。彼は階段で一階から上ってきたところで、運動不足の生白い肌に脂汗を浮かべている。


「あ、どうも……」


 部長は答えない。分厚いメガネの奥から青柳を見る目は胡乱うろんだった。

 気まずい間が生まれ、青柳はとりあえず共通の話題を探した。


「あの、富士見先輩は見つかりましたか?」


 放課後メールで指示したのは彼だと言うのに、部長は答えなかった。少し経ってから青柳の足元に指を差す。


「膝に土がついてるぞ」


 それは本当のことで、青柳は言われるまで気付かなかった。急いで払う。


「あっあっ、これは」


「お前」


 部長はそこで口を噤み、青柳は蛇に睨まれたように竦みあがる。じりじりと後退し、後ろの掲示板にぶつかった。貼られたチラシがカサカサ鳴る。


 まだ部長に見られている。青柳は苦し紛れに目を反らし、一枚のチラシが視界に飛び込む。A3の緑色で、片面にタイトルとイラスト、もう一方に文章。それを読むことで必死に焦りをごまかそうとした。



  演劇部クリスマス公演


  『任氏じんしえらく』


  時:12月24日(土)/25日(日) 13:30開場 14:00開演


  場所:201教室


  あらすじ:これは狐と人の恋物語。

  唐は長安の都、とある狐が仲間と人をからかって遊んでいました。

  夜毎美しい女に化け男を家に連れ込み、また訪れると廃墟になっている。

  騙されたバカな男たちは悔しがるだけ。でも、そんなある……



「お前もたかの声を聞いたくせに」


 部長の声で咄嗟に目と耳を塞いだ。聞きたくなかった。

 十秒後に目を開くと、部長は三階の方に消えるところで、その靴底の溝に小石がめり込んでいた。







 富士見楓を語る上で欠かせない記憶が青柳にはある。

 それは六月で、ようやく部活動のある放課後に彼が慣れ始めた時期だった。

 中学の放課後は青柳の暗黒時代で、一年の四月にバスケ部に入部してから後の記憶が無い。嘘で、有る。とにかく、彼は進学すると同じ中学の者ともろくに話せない深淵の孤独が訪れることを予見していて、自分と同じ眼鏡かけてねっとりした黒髪の男たちの群れに入らねばならぬと言う強迫観念があった。


「富士見さん、文化祭のこと、どうしましょうか?」


 だが文芸部はソドムの市だった。少なくとも青柳の印象でだけは。


「え、うーん、急に言われても困るな」


 活動場所の204教室に立ち込める熱気を説明するのに、彼の潔癖な語彙では醜悪さを避けて表現することができない。

 教室の中心は紛れも無く富士見先輩で、黒板の前に立つ部長ではありえない。文学の話などしなかったし、去年の文化祭や同人イベントなどでいかに富士見楓とその騎士団が活躍したかを聞いて、アニメや漫画を富士見楓がどう見たかを語り合うのが活動の主体であった。

 来月に文化祭を控えていてもそれは変わらない。


「また、そんなこと言っても。去年もまるで褒妲ほうだつの手腕で生徒会や先生方に取り入って……」


 上諏訪かみすわ部長のおだて方はさすが文芸部で言葉が難しかったが、内容は聞き飽きた。要は一年の彼女が切った貼ったで部誌の販売を取り仕切っただけだ。自分以外の新入部員も富士見に魅入られていて、楽しげなオタク達に相槌を打つだけのポジションに収まるのは容易かった。

 二年の川岸かわぎし先輩が手を上げる。ピエロ。


「でも、今年はさ、そんなに頑張らなくてもいいんじゃないの。大変でしょ富士見さん」


 これはもちろん富士見に課されたハードルを低めるための発言で、アピールだ。しかし部長からすれば自分が悪役にされる可能性があり、可能性があること自体が問題だった。


「一人だけじゃなくてみんなでやるんだよ!」


「そ、そうですけど。去年だって一年なのに、富士見さんばかり仕事があると。お金も、掛かるし」


 なかなか部長は怒りを隠しきれなくて、愛嬌と大声だけが取り柄の川岸は防戦に回るしかない。部長はブンブン手を振り回しながら攻勢に出た。


「去年だって先輩たちや俺たちの代も支えていたし、今年だってみんなで支えて行けば楽しい思い出になるし、きっと今後数十年も残されるような素晴らしい部誌になる!」


「いやだな、それ」


 富士見楓が口を開いた。


「え?」


「残されるモノに興味なんてないよ。楽しいうちだけ楽しければ」


 場にいる誰もが誰かを非難しているのだと初めは考え、そうでないのかもしれないとも考えた。彼女は人を傷つけることを決して言わない。


「他の時間も楽しいなんて、死にたくなっちゃうから」


 富士見楓の丸い瞳が細められると、視線は窓の外に向けられた。室内の一切に飽きたような微笑みを浮かべて。


「ふっ」


 青柳は自分の口から出た声に気付かず、気付いた時にはもう遅かった。


「あっはっはっはっ!」


 笑い声は高らかで、ただあまり富士見がメンメンヘラヘラしているのがおかしかっただけなのだが、一度タガが外れるともう駄目だった。手も叩いたかもしれない。


「ちゃんと笑えんじゃん、青柳君さ」


 正気に返ると、富士見が立ち上がって自分の机の前にいた。周りの男どもの目なんて少しも気にならなかった。見上げる姫の唇は潤って紅く、それが三日月を描いていて、目が、離せないから。これは富士見が青柳に仕掛けた罠だとわかったから。

 富士見楓の持つ魅力を初めて理解した瞬間だった。





「お前も早く辞めた方がいいぞ」


「はあ」


 岡谷おかたにという文芸部顧問は禿げて痩せぎすで、しかし力強くものを言う男だ。茅野かやのの名前を切り出すなり退部勧告された。的確だが飛躍しすぎる。


 地歴公民研究室に岡谷と青柳以外の姿は無い。ただでさえ仕事に追われる中年の表情は険しく、薄暗い室内でデスクのライトに照らされれば幽鬼のようだ。


「ま、まあ退部届をいただけたら」


「事務室。ここには無い」


「では後で。それで、彼女がその後どこの部活に入ったかは?」


 捜査は青柳が意気地ないばかりに暗礁に乗り上げた。知らない人と話すのがメチャクチャ怖かったので、二三の教室でもう心が折れた。そこで腹をくくって顧問に唯一の手掛かりだけでもと考えたのである。

 岡谷は眉を吊り上げた。


「漫研は? オマエラの女版だろあそこ」


「いえ、図書館で活動していましたが、そんな子は知らない、と」


「じゃあ帰宅部だ。俺が知るわけない」


 すげない態度で岡谷は仕事に戻ろうとして、一瞬で思い直して生徒をねめつける。


「何のつもりかは聞かない」


「げふっ」


 それだけで青柳は唾を呑み損ねてむせた。


「オマエラはダメだ。明日、富士見が登校してきたらそれが最後だ」


 意味深な言葉が、逆に岡谷が事態を把握できていないことを保証してくれた。

 すごすご引き下がろうとすると、岡谷はまだ青柳を見ている。


「シャツが出てる」


 言われて気付いたが胴の左側だけワイシャツが出ていた。青柳の意図ではなく、直しながら言い訳を考える。


「さっき、教室に犬がいて飛びつかれたんで。それで」


「あれは犬じゃない」


 え、と手を止めると、岡谷はもうデスクに戻り、書類に手を付けていた。


逸文いつぶんだ。先々週から時々、うろついてる」


「そうなんですか?」


「漢文を真面目にやってないな」


 岡谷はメモ帳に赤ペンを走らせ、青柳に渡す。こう書いてあった。


 『素牙黄犬草頭飛』


 文章は紙やデータから失われるとこちらの世界を漂うしかないものだが、この逸文は青柳の学力だと犬が何かしているとしかわからなかった。講釈を願いたく岡谷を窺ったが、彼は面倒くさそうに首を振った。


「白い牙の黄色い犬がなんかしているだけだ。害は無い」


 もう話すことも無い。


「失礼しました」


 青柳が研究室を出ると、長い廊下の端に人影が見えた。研究室のある東校舎三階はPC室の他、平時は鍵の閉まった教室が多いのでほとんど誰もいないはず。

 目を凝らすと、ねっとりした黒髪のデブだ。文芸部だ。


 青柳が手を振ると、それはものすごい勢いで振り向き、走り出す。


「青柳ぃ!」


 叫び声に殺気が乗っている。声で判別できるが、これは三年の辰野たつのだ。直情型だけど理由が分からないな、と青柳は自分の出てきた部屋を見て閃いた。

 先生に密告したと思われてるんだ!


「ええ、あの、先輩、僕は……」


 残念ながらオタクの体力はすぐ尽き、辰野先輩は道半ばで停止した。青柳が口上を述べていると、じきに彼は顔を上げて青柳の足辺りを見た。


「はあはあ、コロスッ!!」


「ええっ」


 辰野は巨体を震わし、突進を敢行した。


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