終曲~翼~ 第四話 ―完結―
三月。千紗と出会ってもう一年だ。年明けから同棲も始まった。同棲の前には新年の挨拶を兼ねてお互いの実家にも顔を出した。我が実家は特に新年に拘る家庭ではないので、一日から二日まで千紗の実家で、二日から三日まで僕の実家で過ごした。
出発前の大晦日の夜、千紗はテレビの歌番組を見ながら来年こそは自分たちも出てやると燃えていた。そして正月を経て、程なくして同棲が始まり二カ月が過ぎたのだ。
今日は珍しく早起きだ。目を覚ました僕は横を見た。新居のために新調した僕のセミダブルのベッドで千紗が穏やか寝顔を見せる。いつの間に潜り込んだのだろうか。隣にあるこれまた新調した千紗のシングルベッドは空いている。僕は千紗の頬に触れた。
「本当可愛いな」
自然と言葉が出た。アトリエでいつかこんなことがあったなと思い出す。確かその時は手首を掴まれた。
「それほんま?」
目を閉じている千紗が言った。僕は起きているのか? と思った。しばらくそのまま千紗の寝顔を見た。すると千紗の目が薄く開いた。
「今のほんま?」
「うん、本当。千紗は可愛い」
すると千紗が再び目を閉じ僕にすり寄ってきた。僕の好きな無垢な笑顔を僕の胸に押し付ける。
「大好きやで」
そう言う千紗の頭を僕は撫でた。どうやら千紗は綺麗だと言われるのは照れるようだが、可愛いと言われるのは嬉しいらしい。
二人で束の間の二度寝を楽しみ僕たちは起きた。ダイニングに行くと千紗の作った朝食が用意されている。朝昼晩の中で一番食べ慣れた千紗の朝食。もし千紗と出会っていなければ僕はどんな朝食を取っていたのだろう。コンビニの菓子パンやおにぎりだろうか。朝が苦手な僕なら飯抜きも大いに考えられる。そんな日常の当たり前となった朝。いつものように千紗の笑顔が僕に活力をくれる。
「洗い物終わったから出る前にお皿棚になおしといてな」
朝食を終えて食器を洗い終わった千紗が言う。
「うん。あぁ、千紗。今まで言わなかったけど、関西と中部を境に東日本だと『片付ける』や『元に戻す』を『なおす』って言っても通じないぞ。それ方言だから」
「うそやん? そうなん?」
「メンバーといることが多いから誰にも言われなかっただろ? 俺、親父も母ちゃんも元は九州だから日常会話で慣れてるけど、たぶん東京では通じないぞ」
「標準語や思うてた」
そんな会話をして千紗はキッチンを離れると荷物を持って玄関に向かった。
「うち今日は一日ハーレムの仕事やから。夕方には帰れると思うわ。先生はいつまでアトリエにおるん?」
「今日は夜までいるかな」
「ほな仕事終わったらアトリエに行くわ。ご飯どうする? 帰ってから作ろか?」
「遅くなるしポン太にしようか?」
「わかった。ほな行ってきます」
「うん。頑張って」
玄関でそう会話をすると千紗がジト目を向ける。
「わかったよ」
そう言って僕は千紗の肩に手を掛けキスをする。すると千紗は笑顔になり玄関ドアを開ける。僕はこの後身支度を済ませアトリエに行った。
この日の昼下がり、僕はいつものようにアトリエで一人の世界に入り集中していた。すると哲平が訪ねてきた。
「どうしたんだ、今日は?」
哲平は手ぶらである。その様子から特にスタジオを借りに来たという思惑は感じられない。
「いくつか報告」
「ほう」
「まず、来週葵がこっちに来る」
「へぇ」
僕は必至で動揺を隠そうとした。葵とは昨年の夏に一夜を共にしてから会っていない。連絡は取っている。たわいもない内容だが。実は来週から来ることもそれで知っていた。
葵は僕が千紗と結ばれたことに恨みの一つも言わない。それどころか一回だけ「気にしないで、東京ではよろしく」とメッセージを送ってくれた。払拭できない想いはあるのだろうに、葵には心苦しさを感じている。ただ一年前に僕の上京を見送ってくれた日の言葉の通り、サバイバル芸能の葵の席は天野社長に言って用意してある。葵は四月から入社である。
「ほんで担当が俺らに決まった」
「良かったじゃん」
「とりあえず一年目だから様子見で当面担当は俺らだけ。歓迎会企画するから来いよ」
「わかった」
哲平が応接ソファーでコーヒーを一口飲むと一息吐いた。
「ん? 報告ってそれだけか?」
「いや」
一度間を空けた哲平は話を始めた。
「うちの事務所の覆面ユニット知ってるか? ハンドレッドウィングって言うんだけど。公開されてるプロフィールは男女二人組ってことだけ」
「あ、あぁ」
知っているも何も「ハンドレッドウィング」とは僕と千紗の覆面ユニットだ。事務所の一部の社員と役員しか正体を知らない。スタジオミュージシャンも使わずに二人でレコーディングができてしまうから、レコーディングスタジオに入るのは僕たちの他エンジニアくらいだ。ローディーも使わず二人でセッティングまでしている。所属タレントにも伏せていて、もちろん目の前にいる哲平も、更にはハーレムのメンバーさえも正体を知らない。……はず。
「歌声と曲がいいってネットで評判になってるのは?」
「そうなのか?」
いや、知っている。世間は少しばかりざわついている。
「今日発表のチャートで、デビューシングル発売一カ月ながらミリオン達成したって」
「っっっっっ!」
これは知らなかった。
「その顔、やっぱお
ばれた。今僕はどんな顔をしていたのだ? ミリオンセールス達成をこの時まで知らなかった僕は表情も自覚できないほどの衝撃を受けていた。
「このCDが売れん時代に、覆面でミリオンだぁ?」
「生意気でスイマセン」
「まったくだがん」
哲平、名古屋弁。ちょっと興奮を抑えてくれ。
「いつ気づいた?」
「何年お前と一緒にやってきてると思ってんだよ? 最初に聴いた時から気づいたよ。お前の曲作りの癖がそこら中に充満してたわ」
「おぅ……」
「文通の相手って千紗だったんだよな?」
ドキッとした。なぜいきなりその話になる。たぶんもう一つ気づかれた。いや、それに気づいたことで覆面の正体に確信を持ったのだろう。
「は、はい」
「千紗は自分の死んだ姉ちゃんの名前で手紙書いてたんだよな?」
「は、はい」
「名前モモカだったよな?」
「は、はい」
僕は素直に肯定することしかできない。
「漢字表記は?」
「漢数字の百に草花の花」
「CHISAの『ち』は漢数字の千か?」
「はい、その通りです」
「やっぱりかぁ。姉妹だからもしかしてと思ったんだよ。それで百に繋がったんだよ。てことは歌ってるのは千紗だな?」
「正解でございます」
そう、ユニット名のハンドレッドウィング。文通が僕達の最初の出会いだから「百」の文字を使いたいと千紗から言われたことでこのユニット名になった。
「あの、できればこのことは……」
「わかってるよ。誰にも言わねえよ。ハーレムにも」
「サンクス」
しかしこれだと近いうちに李奈にはばれそうだ。李奈も文通のことや千紗の姉のことは知っていたのだから。
この後哲平は少しばかりの雑談をしてアトリエを出ようとした。結局いくつかと言いながら報告は二つだったようである。そして哲平は僕に背を向けて玄関で靴を履きながら言った。
「最後の報告。俺ハーレムの沙織と付き合ってるから」
「は?」
なんですと!
「きっかけは弦輝もいた時の六人で飲んだ日。ギターの話で盛り上がって。今日千紗も、って言うかハーレムのメンバーも知らされてると思うぜ。じゃぁな」
「……」
あの日だな。僕が打ちのめされていた日だな。唖然とする僕を尻目に哲平は去って行った。
ハンドレッドウィングで出したCDは今のところ一枚。僕が作詞作曲をした「ベストパートナー」と千紗が作詞作曲をした「二人を繋ぐ光」が両A面のCDだ。編曲はどちらも僕と千紗である。カップリング曲一曲とA面のカラオケバージョン二曲の合計五曲収録だ。
僕は仕事のパートナーとしてずっと一緒に千紗とやっていきたいとイメージを持って作曲をし、それに加えてその後恋人になった千紗のこともイメージして作詞をした。
千紗は地方公演に出ている時にこのアトリエが恋しくなったそうだ。その時にスタジオの呼び出し用の回転灯を思い浮かべた。それをイメージして作曲をしたらしい。作詞もそのことをイメージしつつ僕のことを書いたそうだ。
そして時間が流れ、夕方。千紗がアトリエに帰って来た。僕たち二人は緊張した面持ちでスタジオに入った。手には糸切狭を持っている。まさかこんなにも早くこの日が来るとは思ってもいなかった。だからこそ哲平にミリオンセールス達成を知らされた時は驚いた。
「緊張すんな」
「そうだな」
僕たちは今作業ステージの上にいる。二段上がった床の上に直接座り、僕の目の前にはベースのギグバッグが、千紗の目の前にはスネアのバッグが置かれている。
「四辺全部切ってもうたらあかんよ? 一辺だけ残さな完全に剥がれてまうから」
「わかってるよ」
「ほんなら、せーのでいこな?」
「切る時間に個人差あるぞ?」
「身も蓋もないようなこと言うな。鋏刺すぞ」
「スイマセンデシタ」
「ほないくで。……せーの」
僕はギグバッグに縫い付けられた藍色のハンカチの糸に鋏を入れた。そして丁寧に糸を解いていった。
千紗と温泉に行った時に買ったハンカチ。真ん中から二つに切った。それをさらに二つに折った。油性ペンが裏に染みてしまうからだ。そして元の四分の一になったハンカチに白い油性ペンで千紗にメッセージを書いた。
――いつまでも翼の隣にいるのは笑顔の千紗――
これを僕は千紗のスネアのバッグに縫い付けた。
そして今、僕は千紗が縫い付けた僕のギグバッグの糸を解いている。二重に折ったハンカチが乱れる。ペンを入れた面が見えてきた。まだ文字とは判読できないが白いインクが見える。慌てずに丁寧に僕は三辺の糸を解き終わった。そしてメッセージの書かれた面が見えるようにハンカチを捲った。
僕たちは目標を決めていた。それは二人が制作に携わった曲が多くの人に認められることだ。その評価を判断する方法としてミリオンセールス達成を目指した。それが叶った時はこのハンカチに書かれたお互いのメッセージを読もうと約束をしていたのだ。提供曲ではなく、二人のユニットでの目標達成に幸せを感じた。このCDが売れない時代に、覆面なので特典もない。とてつもなく難しいこと成し遂げたと思う。
そして僕は今読んだ。千紗のメッセージを。愛おしい。千紗が。今隣にいる千紗が。千紗も読み終わり顔を上げた。あの無垢な笑顔だ。
「先生?」
「ん?」
「めっちゃ好きやで」
「うん、俺も千紗のことが好き」
どちらからともなくすり寄った。お互いがお互いの手をしっかりと握った。二人を繋ぐ回転灯の下で。
――先生の本物の笑顔は千紗がずっと守る――
文通~二人を繋ぐ回転灯~ 生島いつつ @growth-5
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