終曲~翼~ 第三話

 いつも思う。今目の前で赤いノートパソコンに向かっている少女は何を思って僕のことを好きになってくれたのだろう。不細工ではないだろうが特にイケメンというわけでもなく、一人を好み、いつも日々の仕事に追われている。基本的に根暗。こんな僕だ。

 身分を偽って文通をしていた紛い物の僕に惚れていたことは理解できる。しかし僕たちが結ばれるまでの半年で、何の変哲もない僕のどこに魅力を感じたのだろう。


「なぁ、先生?」

「ん?」


 千紗はいつものように無垢な笑顔を向けて僕に話し掛ける。僕はパソコンから目を離さず、しかしパソコン越しに千紗を視界の隅に捉えて呼びかけに応じる。


「今からエッチしよか?」

「……」


 リズムよく打っていたタイピングが止まる。止まった拍子にパソコン画面に、


『がああああああああああああああああああああああああああ』


 の文字が。すると聞こえてくる千紗の声。


「あはは。嘘に決まってるやん。顔赤いで。しとって突発の来客あったらどうすんねん」


 このクソガキ。すると千紗が無垢な笑顔のまま僕の背中に歩み寄り、僕の肩に手を掛けて顔を覗かせる。揶揄かわれたばかりなので僕は千紗の顔を見ない。


「ちゅうはできるけどな」


 そう聞こえたと思ったら僕の頬に柔らかいものが触れた。僕は一瞬で振り向いた。そこには笑顔の千紗がいて顔が近い。やっぱり可愛い。


「口にもしたろか?」


 僕は黙って首を縦に振る。すると目を閉じた千紗の顔が近づく。軽く触れて離れる。僕は物足りなくて千紗を引き寄せる。そして長いキス。


 パンッ、パンッ、パンッ


 僕と千紗はその音に驚いて離れた。そして首を振った。視線の先には見晴らしのいい窓と応接ソファー。その前に三人の少女が唖然とした表情で立っている。手には引き終ったクラッカー。僕は頭を抱えた。見られた。ハーレムのメンバー三人に。


「お邪魔やったかなぁ……」

「見てもうたなぁ……」

「仲ええんやなぁ……」


 それぞれそんなことを言う。すると千紗が口を開く。


「あんたらは忍者か。玄関開く音聞こえんかったやんけ」


 そう、間取り上玄関脇のトイレの間仕切り壁で、外のエントランスからはガラスの玄関ドア越しに、執務室の僕のデスクを見ることはできない。だからドアの開閉音で人の入室を察知することができる。インターフォンか開閉音が鳴ればこんな場面は見せずに済む。


「しゃーないやん。驚かせようとしたんやもん。そっと玄関開けて入り込んでクラッカー引っ張って、まさに今三人で『おめでとう』言うところでエッチしてる二人が目に入ったんや」


 こう言うのは李奈である。と言うか、キスをしていただけだ。


「ほんまにクラッカー好きやな」


 まず行為のことを否定しろ、千紗。


「千紗に鳴らした時の余りや。ちゅうか今ええの? お邪魔?」

「ええよ」


 千紗が李奈にそう言うと侵入者の三人は手を叩いて唄い出した。バースデーソングだ。そのまま僕の目の前まで歩み寄ってくる。僕は立ち上がり三人とデスクを挟んで対峙する。


「はい、先生。お誕生日おめでとうございます。これ私ら三人から」


 李奈はそう言うと手に持っていた紙袋を僕に差し出す。そこで僕はこの日が自分の二十三歳の誕生日だったことを思い出した。元来一人を好む僕は誕生日を祝ってもらうことに縁がなかった。だから覚えていないことが多い。申込書の年齢欄に記載する数字が変わるというくらいの認識しかない。今までも葵からスマートフォンにメッセージが届いて思い出したということが多かった。


「先生いつもありがとう。うちらの時もお祝いしてもろたからほんの気持ちです」


 こう言うのは優奈だ。僕はSNSのプロフィールを目にして沙織と優奈の十九歳の誕生日にはささやかな物を贈っていた。早生まれの李奈の誕生日はまだ来ていない。


「ありがとう」


 僕は頭を掻きながら李奈から差し出された紙袋を受け取った。


「何照れてんの?」


 千紗が横槍を入れる。そして続ける。


「開けてもええ?」

「あんたのためにうたもんやないねんけど」


 それを李奈が咎める。このままでは本当に千紗に開けられてしまいそうなので僕は受け取ったプレゼント開けた。するとそこには夫婦茶碗が入っていた。箸も二膳ある。


「うぉ、うちの分もあるやん」


 千紗が興奮したように言った。それに沙織が続く。


「もうすぐ同棲始めるんやてな。そのお祝いも兼ねてや。どうせお揃いの食器持ってへんのやろ? これで千紗がおいしいご飯作ってやり? ちゅうかよう親認めてくれたな」

「すんごかったで。胡坐かいて腕組んで何もしゃべらんお父さんに二時間黙って土下座したんやもん」

「あぁぁぁぁぁ!」


 なぜ暴露する。思わず声を上げてしまったではないか。その間君はお母さんと買い物に出掛けていたくせに。最初と最後しか見ていないではないか。

 侵入者の三人はこの千紗の暴露話に微笑ましい眼差しを向けた後、千紗とひとしきり話してアトリエを出て行った。


 この夜僕は千紗の部屋に呼ばれた。そこには豪華な食事が小さなローテーブル一杯に並べられていた。千紗は午後からのハーレムの仕事を終えるなり真っ直ぐ帰宅し、準備をしてくれていたのだ。千紗の料理はとても美味しく温かかった。そして食後はケーキも用意してくれた。


「はい、先生」


 僕がケーキを突いていると千紗はラッピングされた箱を僕に向けた。千紗からの誕生日プレゼントだ。思わず僕は綻んだ。誕生日というのもいいものだ。


「ありがとう。料理とケーキにプレゼントまで」

「へへん。開けてみ?」


 僕はそう言われて包み紙を剥がした。顔を出した箱には「R○○○X」の文字。僕ははっとなって顔を上げた。


「金掛け過ぎだろ」

「そんなん選んだうちの勝手やん」


 千紗はどや顔ともとれる表情を見せた。箱を開けると中からは腕時計が。


「これ福岡のコンサートのギャラでうてん。お金を掛けるばっかが全てやないとは思うてる。けどな、やっぱあそこに立てたんは先生おってこそのもんやと思うたから。それをどうしても表現したくて。だからうた。お金以外にもうちはあの時かけがいのない経験を積ませてもろたから。ほんまに感謝してる」


 そう言われては遠慮する理由がなくなってしまう。僕はありがたく頂戴した。




 翌週。僕がいつものようにアトリエで仕事に集中をしていると千紗がトイレから戻って来た。そして席に座るなり僕を呼ぶ。


「しぇんしぇー(先生)」


 悲壮感漂う声で呼ぶので僕は何事かと思い千紗に顔を向けた。するとせっかくの可愛らしい顔を歪めて泣きそうな表情を作っている。


「始まってもうた」

「何が?」

「女の子の日」

「……」


 泣きそうな表情は作っているのではなく、本当に泣きそうなのだと僕は悟った。


「もう少し後に来る思うてたのに。こんな早よぅ来るなんて思うてへんかった」

「……ドンマイ」

「せっかくの、せっかくの、うちの誕生日やのに、今日の夜は先生と(ピーご想像に)や(ピーお任せします)ができひんやん」


 やっぱり悲しみの原因はそれか。性欲抑制剤でも買って来てやろうか。本当にそんな商品があるのならばだが、その時は既に用意したプレゼントと差し替えてやる。


「ま、今日はホテルのレストラン予約したし、泊りもそのホテルだから楽しも?」

「あ、ホテルなら別にシーツ汚し――」

「せんわ」


 言わせねーよ! 言葉を遮ってやった。

 この後千紗は気落ちしたままラフな服装でハーレムの仕事に出かけて行った。


 そう、今日は千紗の十九歳の誕生日である。僕は夕方仕事を切り上げて一回家に帰ると着替えた。落ち着いた柄のインナーシャツにジャケット、下はカラーパンツ。手首には千紗にもらった腕時計を巻いた。そして僕はコートを羽織ると家を出た。


 電車を乗り継ぎ僕は千紗と待ち合わせのホテルに着いた。エレベーターを上がりレストランに入るとウェイターが案内をしてくれた。お洒落で落ち着いた店内に豪華な夜景。高級感で魅せてくれる。約束の時間よりはまだ余裕がある。仕事場から直接来る千紗はまだだろう。

 窓際の円卓に一人で座る女が見えた。待ち合わせだろうか。青のワンピースドレスに白のレースを肩に掛けている。そのレースが全体を水色にも見せる。髪はアップにしていて横顔もはっきり見えた。かなりの美人である。浮気心ではないが僕は何の気なしにその女を見た。


「こちらになります」


 僕は驚いた。ウェイターが僕を通したのはその女がいる席だった。


「あ、早かったな」

「ち、千紗?」

「なんや?」


 千紗が睨むように僕を見る。千紗はしっかりと化粧をしていて大人びて見える。はっきり言って美人だ。僕はまさか何の気なしに目に留まった美人が千紗であるとは思ってもいなかった。


 程なくしてシャンパンが運ばれ、千紗の誕生日を祝うディナーが始まった。


「なぁ、さっきから何なん? せっかくお洒落な店で豪華な料理と高級なお酒があんのに、全然しゃべらんやん」


 黙々と食事を進める僕に千紗が不満げに言った。元々口数が多い方ではないが、今の僕は完全に人見知りをしている。


「き、き……」

「なんやねん?」


 千紗の目が少し真剣になった。まずい、怒らせてしまってはせっかくの誕生日が台無しだ。僕は今言いかけた言葉を、意を決して吐き出した。


「き、綺麗だね」

「……」


 二人同時に赤面した。恥ずかしくなってしまいこれまた二人同時にシャンパングラスを持ち上げた。グラスを置くと千紗が言った。


「今日ミュージックビデオの撮影やってん」

「え? サードシングルはまだだろ?」

「アルバム収録曲の。一曲だけ撮影することになって。そんでヘアメイクさんと衣装さんがおってな、今日誕生日や言うてこの予定教えたら撮影後に時間あったから個人的に営業してくれたんよ。もちろん相手が彼氏やとは言えへんかったけど」


 なるほど合点がいった。見慣れない千紗のこの風貌はそういう経緯だったのか。


「あ、そうだ。これ。誕生日プレゼント」


 僕は持っていた紙袋を千紗に手渡した。途端に無垢な笑顔を向ける千紗。


「うわぁ、嬉しい」

「先に言っとく。俺自分の誕生日より前にそれ用意してたから」

「そうなん? 中見てもええ?」


 僕は黙って首を縦に振った。千紗は無垢な笑顔を崩さず中から箱を取り出し開けた。


「うぉ、カ○○○エ。そういうことか。うちらどっちも腕時計うたから先に誕生日前に用意してたって念押したんやな。先月がっつり口座から引き出ししてたんはこういうことか」

「そう、そういうこと。後出しじゃんけんで真似したみたいになるから。先月のうちだから嘘じゃないってわかるでしょ」

「うん。先生、ほんまにありがとう。めっちゃ嬉しい。大事にする」


 あぁ、これだ。僕はこの千紗の無垢な笑顔が好きなのだ。こうして服装や化粧で風貌が大人びてもこれだけは千紗なのだと感じさせてくれる。この千紗が好きなのだ。

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