終曲~千紗~ 第二話
暦が十一月に変わった。外を歩く時は肌を出しているとさすがに寒い。私と先生の身分を偽った文通は福岡から帰って来て終わった。かけがえのない二年半の歴史だ。
とある金曜日の午前中。私はアトリエの執務室のいつもの席に座って先生の通帳を見ていた。当時の預金を全てつぎ込み、二月に支払いを終えて三月から始まった先生の個人事務所でもあるこのアトリエ。株や不動産など現金以外の資産もあるとは言え、口座の中が文無しの状態で、銀行融資も受けずによくも開業したものだと感心する。
確かに月々の収入は世間の人が羨むような額だ。しかし使う時は豪快に使うなど、お金にシビアだと思っていた投資家のイメージを覆す。いや、それは経理に無頓着な先生に限った話か。
今月の月末は福岡でのコンサートの報酬が入る。それは私にも。私は事務所を通して仕事に参加していたため歩合だ。事務所にそれなりの額を持っていかれるがそれでも初めて手にする大金だ。社員の人たちも日頃頑張ってくれているので少しでも貢献できたことに誇りを感じる。私に今回入る報酬の使い道は既に決まっている。
先生の方は個人なので私の倍以上の額が入る。目が丸くなるほどの額だ。更に先生のアトリエであるこの個人事務所の業績が順調で、今では余裕のある預金が復活した。
そこで思うわけだ。もうそろそろ先生は1Kのアパートを卒業してもいいのではないかと。私は先生と隣の部屋なのは気に入っている。とても楽しい。離れればやっぱり寂しくはある。けどもう彼氏彼女としてしっかり結ばれたという自負がある。だから先生の生活水準を上げてもいいのではないかと思う。
「なぁ、先生?」
「ん?」
先生はいつものように目を向けたパソコンから顔を上げずに返事をする。この人の集中力は並大抵のものではない。二台あるデスクトップパソコンと一台のノートパソコン上で目が行ったり来たりしている。
「預金もう結構余裕あんで? そろそろもうちょっと広い部屋に引っ越しとか考えんの?」
「うーん、どうせ寝るだけだしいいや」
そうか、そうだったな。私の彼はこういう人だ。質問した私が愚かだった。と思っていたら先生の口から続いた言葉で私の生活が、いや、人生までもが変わってしまった。
「事務所許してくれるのか?」
「は? 事務所?」
事務所とは何だ? 私が所属する芸能事務所、サバイバル芸能のことか?
「うん。千紗は事務所が契約してる部屋にいるわけだし。今は隣同士って言っても、同棲ってなるとやっぱ事務所に話通さなきゃならんだろ。それとも二人で住むのにどっかいい物件でも当たりつけてんのか?」
「……」
何ですと!
私は先生一人の住まいの話をしていたのに、先生は引っ越しイコール私との完全同棲だと捉えたようだ。別に嬉しくなんかないぞ、このやろう。
「あ、そう言えば」
今度は何だ?
「不動産屋が投資用物件って言って紹介してくれた区分所有のマンションがあるんだよ」
「くぶんしょゆう?」
「うん。一棟もののマンションじゃなくてマンションの一室。そこを買って人に貸して家賃収入を得ないかって打診」
「へぇ、そうなんや」
「ここから歩いて五分だから何なら今から見に行ってみるか? 投資用じゃなくて自己居住用として。駅に向かう方向だから駅も近くなるし」
「行く!」
私即答。力を込めて。
先生はこの後すぐに不動産屋の担当の人に電話を掛けた。平日だったのですぐにアポイントが取れ、私は先生に連れられてその売りマンションに来たのだ。
綺麗だ。私が抱いた第一印象はこれだった。メンバーと別れるいつもの三丁目の交差点。そのすぐ北東に建っていた築五年のマンション。いつも私が見てきた景色に融合していたマンションだ。外観が上品な十二階建ての最上階。西南角部屋。見晴らしが良く、窓が広くて日当たりがいい。そしてベランダから三丁目の交差点を見下ろせる。
オートロック式で間取りは3LDK。三室の個室は五畳から七畳ほどで、一体となったLDKが広い。対面キッチンもいい。収納も充実している。内見で私はリビングに入るなり子供のようにはしゃいでしまった。実際まだ十八歳の子供だが。
「3LDKなら実家の電子ドラムも持ってこれるな。ま、アトリエで練習できるから必要ないかもしれんけど」
「ドラマー千紗が生まれた時からの相棒やで。持ってくるに決まってるやん」
あぁ、私の愛しき電ドラちゃん。実家の売り場でオブジェと化している電ドラちゃん。叩くわけではないが、お父さんも意外と愛着を持っている。レジ脇の電子ドラムを見たお客さんとの話題に事欠かない。東京に持って来たらお父さんは寂しがるだろうか。
「で、いくらまで頑張れるんだっけ?」
「¥○○○くらいまでは何とか交渉します」
「¥○○○!」
目が飛び出るかと思った。先生と不動産屋との会話に。私はこの時初めてこのマンションの売値を知ったのだ。私がさっきまで見ていた通帳の額とは桁が違う。よくよく考えてみればこれほどまでにいい物件なのだから当たり前だ。
「どう千紗?」
「え、あぁ。物は気に入ってんねんけど、金額にびっくりした」
「じゃぁオッケーだな」
オッケーなのかよ。
「一回彼女の事務所に話してきます。承諾もらえたら連絡しますわ」
「かしこまりました」
決まってしまった。いや、仮決定したと言うべきか。この人はスーパーに買い物に来たような感覚なのだろうか。
「住宅ローンの審査はいかがいたしますか?」
「こっちで手配する」
「どちらの銀行さんですか?」
「ABC銀行とXYZ銀行に話してみる」
話が進んでいる。先生が私の質問をはき違えてからたったの一時間半で。既に前向きなご検討を進めている。
この日、先生のバンド指導付き練習を終えた私は、先生と一緒に社長室に向かった。私のまつ毛は濡れている。鬼め。鬼畜め。優奈と二人揃って泣かされたのは初めてだ。絶対に見返してやる。
「あら、お二人さんお揃いで。今日はどうしたんですか?」
社長室に入ると艶やかな声で迎えてくれる天野社長。何を食べたらこれほどまでに色気のある女になれるのだ。羨ましい。
「このマンションいいなって思って。同棲を許可してもらえませんか?」
ど直球だな。単刀直入だな。あなたは前振りの雑談を持ち合わせていないのか。いつの間にか社長に内見したマンションの資料まで手渡しているし。
「早いですね。もういきなり同棲ですか?」
ご尤もな意見だ。まだ付き合い始めてやっと一カ月が過ぎたところだ。
「今までもそんなようなもんですし。付き合ってからもそんなに生活変わってませんし」
確かに……。悲しいほどに……。隣同士なのに未だ寝る時は別々だ……。
「ふふ。資料を見る限りは問題なさそうな物件ですね。相手が先生なら特に意見もありませんし前向きに検討します。一度社員に内見させた上で正式なお返事をします」
「ありがとうございます」
ほぼ決まってしまった。先生が私の質問をはき違えてからたったの半日で。
「あ、あと例の件。私の方で決裁したんで進めて下さい。親会社も前のめりです」
今社長が言った例の件とは何だ? 私が携わっていない先生の仕事の話だろうか。
「ありがとうございます。じゃぁこの後牛島さんにレコスタの予約取ってもらってから帰ります」
「はい、お疲れ様です」
私と先生は社長室を後にした。
「さてと……」
事務所を出ると先生は言った。
「次一泊二日で一緒に動ける日っていつ? 弾丸一日でもいいけど」
「それなら来週のうちのオフ日の翌日が午後からの仕事や。先生の予定も問題ないで」
「じゃぁ新大阪までの新幹線二人分手配しといて」
「大阪行くん? そんな仕事あったん?」
「は? 千紗のご両親に挨拶しなきゃ。同棲を認めて下さいってお願いも」
「……」
私は口をあんぐり開けたまま立ち止まってしまった。
「どうしたの? 当たり前でしょ? まだ会ったことないんだから。それに千紗はまだ十代だよ」
「せ、せ、せ、せやな。ほんならうちも名古屋にご挨拶行かな」
「うーん、じゃぁ名古屋も予定に入れるか。一泊二日で回りきれるかな。前夜から出て二泊三日で先に名古屋かな」
一度思い立った時のこの人の行動力って……、李奈みたいだ。
「なぁ、なぁ、先生?」
再び歩きだした私は先生に聞いた。やっと落ち着いてきて私は余裕の笑みを浮かべている。
「ん?」
「これはプロポーズやと捉えてもええん?」
もちろん揶揄かっている。先生の困った反応を見るのが好きだから。
「任せる。それもいつかはと思って千紗に一緒にいてくれって言ったんだから。誤解にはならないからそう思ってくれても別に困らない」
「……」
私は言葉が続かなかった。
あぁ、今わかった。この人は本当に純粋なのだ。私はそこに惚れたのだ。嫌なものは嫌。だから人間嫌い。だけど好きだと自覚すると途端に無垢になる。人にも音楽にも。物言いが良くも悪くもストレートだ。
そんな彼が若くして社会に出たために身につけてしまった悲しくなるほどの作り笑い。それによって皮肉にも隠してしまった安心を与えてくれる自然な笑顔。私はこの自然な笑顔をいつも求めて先生を追いかけていたのだ。だからあの時私はこれを守ると書いたのか。今やっとわかった。
私は先生の背中に回り込み先生が来ているジャケットを少しだけ摘んだ。そして歩きながら額を当てた。さっきも同じところを濡らしたばかりなのに。スタジオの中で。違う意味で。戦友と一緒に。
「どうした?」
「何でもないよ」
芸能人でなければ本当は背中から思いっきり抱き付きたかった。ぐだぐだと説教が長い憎たらしいマネージャーの顔が浮かんだので止めた。こんな場所では目立つから。
「は? 今なんて言うた?」
今日は驚かされてばかりだ。午前中は内見に連れられ、午後からはスタジオで先生の剣幕に泣かされ、その後社長に同棲の許可をもらい、お互いの両親と会うことになって、プロポーズだと思っていいと言われ。
そして夜も更けた今。私は曲作りのために先生と入ったアトリエのスタジオで驚かされている。恐らくもうこれが今日最後のサプライズだよな。もう他にはないよな。
「だから、俺と千紗がユニット組んでシンガーソングライターデビューするんだよ。俺は楽器だけど。ボーカール、ギター、ベース、ドラム、キーボード、全パート二人でレコーディング。これで俺も晴れてサバイバル芸能の所属タレントだ。社長室で社長が言ってただろ? 進めてくれって」
「は? 例の件言うてたやつ?」
「そう」
「例の件だけでわかるかいな。今初めて聞いたわ。それにうちにはハーレムがあるやん」
「あぁ、それなんだけど。覆面アーティストとしてジャガーミュージックからメジャーデビューするから」
私は卒倒しそうになった。
「シンガーソングライターってことはうちが作って歌うんやよな?」
「当たり前じゃん」
「うちが作った曲全部ハーレムに持ち込んでるやん。持ってへんで」
「あるじゃん、二曲。一曲は作詞作曲したでしょ? もう一曲は俺だけどどっちも
吸音されて声が反響しないプライベートスタジオ。手を休めている私と先生の会話は続く。
「そういう大事なことはちゃんと言わんかい」
「だから今言ってるじゃん」
「事前にや。事務所に話する前にや」
「そう怒るなよ。で、やるの? やらないの?」
「曲は自信作やけど、うちが歌うんは……」
「メンバーに気を使ってるの?」
「それもあるけど……、自信ない……」
私が沈んだような声で答えると、先生は怪訝な表情で私の顔を覗き込む。
「やっぱ自覚なかったか。千紗本当は歌うまいんだけどな。あと、メンバーに気を使ってるならいっそのことメンバーにも内緒にしちゃえよ。どうせ覆面なんだから。何年後かに実は自分でしたって」
しばいたろかこいつ。
「とにかく事務所はもう進めろって言ってるわけだし、レーベルは前のめりだし」
ならやるかやらないかなんて聞くなよ。最初から私の意見は無視じゃないか。
「もう。そんな言うたら断りようもないやん。ええよ。うちは身も心も仕事も全て先生に捧げてるから」
そう言うと先生は今後の予定の話を始めた。
自信はない。私が歌うなんて。李奈に対しても恐れ多い。やっぱり先生の言うようにしばらくは覆面を利用してメンバーにも言えそうにない。けどやれるだけやってみよう。
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