終曲~翼と千紗~

終曲~千紗~ 第一話

 福岡を出たその日、私は午後から始まるハーレムのバンド練習のために事務所へ向かった。新幹線で品川駅を降りて先生と昼食を済ませてから別れ、その後電車を乗り継ぎ事務所に到着した。コンサートのために出張していた私の音楽の機材は昨日のうちに事務所に届けられていた。事務所が所有する機材がほとんどなので一階の倉庫ですでに保管されている。


 昨日は一日福岡の街を歩き回ったのでドラムを叩いていない。早く叩きたい。私は事務所に練習開始時間より早く着いていたので二階へ上がった。


「すいません、スタジオの予約表見せて下さい」


 事務所のカウンターから中で慌ただしく仕事をする社員の人たちに声を掛けた。するとカズさんに美登里ちゃんと呼ばれていた事務員の人が寄ってきた。なぜか予約表を確認できるタブレットを手に持っていない。


「今Dスタにあなたのメンバー三人練習に入ってるよ」

「え? うちらの練習開始って二時からですよね?」


 時計を見るとまだ十三時を少し過ぎたくらい。練習スタジオはそのDスタジオだと聞いている。私は時間を間違えたのかと焦った。


「自主練で入ってるよ。あなた来たらDスタに来るように伝えといてくれって言われてんの」

「そうですか。わかりました」


 それならば連絡をくれれば良かったのに。私は腑に落ちなかった。釈然としないながらも私は三階に上がったのだ。


 三階のDスタジオの前に立つと私は違和感を覚えた。入り口の防音扉には大人の顔の高さに三十センチ大の円形の小窓がある。しかし防音扉の室内側に貼り付けられたロールスクリーンが下ろされていて、スタジオの中を覗くことができない。先生のプライベートスタジオのように内外の人の存在を示す、そして私と先生を繋ぐ回転灯はない。開けてもいいタイミングなのかと憂う。しかし事務所に預けられた伝言によると私はこのスタジオに呼ばれている。私は意を決して防音扉を開けた。


 パンッ、パンッ、パンッ


 スタジオに一歩を踏み出した瞬間、火薬の匂いと細い紙テープに私は包まれた。


「おめでとう、千紗」


 そう言って私のバンドのメンバー三人が寄って来た。私に向けられていたのは三人が一人につき一つ手にしたクラッカーで、私は呆気にとられながら頭から紙テープを数本垂らしていた。


「先生と結ばれたんやてな」


 こう言ったのは優奈だ。


「は? 何なん、これ。ちゅうかなんで知ってんの?」


 私が先生と身も心も結ばれたのは昨夜。なぜこの三人はもう既に知っているのだ。私は教えていない。とりあえず今日の練習が終わったら親友でもあるメンバーの李奈だけには真っ先に伝えようと思っていた。今まで散々助けられているのだから。その李奈も鳴らし終ったクラッカーを手に微笑ましく私を見ている。


「とりあえずそこ座り」


 こう言ってきたのは沙織だ。練習だけで使うなら無駄に広いこのスタジオには六人掛けのミーティングテーブルがある。そこへ座ることを促された私は呆気に取られながらもミーティングテーブルに着いた。そして三人も席に座ると隣に座った沙織が私の肩を二回叩いた。


「一等兵昇格おめでとう」


 締りのない顔で言う。二等兵はどうした? 飛び級か? それとも李奈の時のことか? ただそのことを知るのは私と李奈と先生の三人だけなのだが。と言うかである。


「なんでそんなことまで知ってんの? ちゅうか情報源先生しかおらんやろ? 昨晩からの先生はうちとずっと一緒にったで。いつの間にや?」

「きっかけはうちや、うち」


 そう言うのは優奈だった。


「今日の練習前にベース教えてほしくて先生に連絡したねん。そしたら先生が千紗と博多で延泊した言うて断ってきたんよ。これはおかしい思て沙織を部屋から連れ出して李奈の部屋に集合したんや。李奈なら事情知ってるかな思て。それやのに李奈も何も知らんやん。そしたら李奈がいきなり先生に電話掛けてな、それでわかったんよ」

「いつの間に? さっきも言うたけど、うち先生とずっと一緒にってんぞ?」

「新幹線乗ってる時や」


 そう答えたのは李奈だった。私は新幹線と言われ理解した。朝早い新幹線に乗った私と先生は乗るなり頭を寄せ合って、固く手を握って爆睡していたのだ。

 眠気の理由は朝が早いだけではなかった。昨晩寝るのも遅くて睡眠時間が二人とも少なかった。原因は私の方である。初めて男を知った私は、徐々に痛みが和らぐと喜びを感じるようになり、おかわりをねだったのだ。


 新幹線乗車中に一度目を覚ました時に先生はいなかった。しばらくして戻ってくると「面倒くさいのに捕まった」と言っていた。どうやらデッキで電話をしていたようだ。

 眠かった私は「面倒くさい仕事の電話に捕まった」のかなと思い、深く考えずに睡眠を再開したのだ。結果は今いるこの三人が、電話を掛けた李奈が、先生を問い詰めたのだとわかった。面倒くさいとは李奈からの電話だったのかと合点がいったところで私は持っていたペットボトルのお茶を口に含んだ。


「初めてやのに夜中の二時過ぎまで三回も求めたんやて?」

「ぶっ」


 吹いてしまった。李奈のその言葉で今口に含んだお茶を吹いてしまった。そんなことまで先生は吐かされていたのか。


「新幹線の到着時間聞いたらお昼ご飯考慮してもここに早よ着くな思て。それで三人でスタンバっとてん。サプライズ大成功や」


 李奈は嬉しそうにそう言う。しかしその顔を見て本当に彼女は私の大事な親友だと痛感する。もしかしたら消化しきれない私への気持ちもまだあるのかもしれない。一晩慰めてくれたこともある。それなのにこうして笑顔で祝福してくれる。私が反対の立場であったなら到底できない。器が違うと思った。


 練習を終えた私は李奈と一緒に三階のホールに残った。沙織と優奈は先に事務所を後にした。

 この三階のホールは四室あるスタジオの全ての入り口に通じる。エレベーターホールの隣で、六人掛けのテーブルが二セットあり、そのうちの一セットに私たちは向かい合わせで座った。


「千紗、作詞始めたん?」


 ⅰPodをイヤホンで聞きながらペンを握る私を見て李奈は聞いた。李奈は正面の席で作詞をしている。私の福岡コンサートが終り、ハーレムはこれからファーストアルバムのレコーディングに突入する。そのため書き溜めた曲がかなり消化されてしまった。また私と李奈で、私は先生の協力も経て曲を作っていかなくてはならない。


「限定一曲」

「へぇ、私らの曲?」

「ちゃうよ。ハーレムの絶対作詞者は李奈やもん。提供先も決まってへん」

「どんなん? ちょっと聞かせて」


 そう言って李奈が私の片方のイヤホンに手を伸ばそうとしたのだが私は身を引いた。


「あかんねん、この曲は。先生との約束でな、お互いに今までやらんかった作詞を一曲ずつ今回だけやってみよういうことになってん。曲が完成するまで誰にも聞かせんて約束してんねん」

「なんやそれ、のろけか。お互いのことを想うた詞でも書くんか?」


 李奈がわざと拗ねた顔を作って言う。けど李奈が微笑ましく思ってくれている感情を私は読み取れた。


「それもちゃうねん。今うちらが詞を書こうとしてる曲はな、お互いにもまだ教えてへんのやけど、それぞれテーマがあって作ってんねん。だから曲のテーマに沿った詞を書くことになってんの。せやから先生が書く方は曲は知ってるけど、どんなテーマかまだ知らんねん」


 静かなホールに私と李奈の会話の声だけが響く。西に位置するこのホールだが、建物が隣の建物と近接しているため暑い西日が入ることはない。空調も行き届いている。


「ふぅん。千紗はどうせ先生のことやろ?」

「関係なくはないけど……」

「関係なくはないけど? むしろ? いや、実は? 百パー先生のことでしたー」


 ばれている。

 そう、私は今作詞に挑戦している。これは九月に入って先生と曲作りを再開した時にアレンジができた曲だ。その時一緒にアレンジができた先生作曲の曲は先生が作詞をすることになった。あの時聴かせてもらって一緒にアレンジした曲に先生がどういうテーマを持って作曲をしたのかをこの時の私はまだ知らない。


 作詞とはいざ挑戦してみると奥が深い。言葉の知識量が増えたと言う意味では先生にやらせてもらっている添削は役に立っている。しかし単純な国語力だけでは解決できない何かがある。先に曲ができているので単語レベルで文字数も考えなくてはならない。小説のように改行なんて技は使えない。


 歌の詞は十中八九感情表現である。人や物や風景に対して感じたことをメロディーに乗せる。私はあの小説家のくせに人の心がわからない超不器用人間の私の彼に、作詞が務まるのかと憂いている。

 けど楽しみでもある。どんな詞が上がってくるのか。変なものが上がってきたらけちょんけちょんに言ってやろう。もしいいものが上がってきたらどうしようか。頭を撫でて美味しいものでも作ってあげようか。


 先生とお互いに作詞をすることは昨晩決まった。昨晩の二回目の行為の後、余韻に浸りながら先生の腕枕に収まっている時に。意外にも先生の方から提案してきた。何を思ってそう言ってきたのかはわからない。けど私は迷うことなく了承した。


「文通の相手が先生やった」

「うそやん?」


 私はこの日練習と居残り作詞を終えた帰り道、李奈に全てを話した。李奈は一つ一つ私の話に驚きながらも丁寧に聞いてくれた。


「ほっか、ほっか。そんな奇跡の真っただ中に二人はおったんか。ほんまにびっくりや。これで千紗も一安心や。もう付きうてんのやから喧嘩してもうちに来るなよ。私からはもう卒業や」

「むー」

「何やねん」

「……」

「誰にも言わんから言うてみ?」

「李奈に抱いてもろたんが忘れられん」


 私は正直に言った。


「私も忘れられんよ。ちゅうか絶対に忘れんよ。私にとっては望みに望んだ夜やったもん」

「李奈……」


 李奈の言葉に李奈が抱く気持ちを垣間見た気がした。


「けどあかんよ。もうあれは大切な思い出やねん。千紗は私の大事な親友やねん。隣におるんは私やない。私は千紗の後ろで千紗の背中を押すねん。自分でも言うとったやろ? 先生の隣は自分やって。せやから幸せになって。今の私はそれを望んでる」


 李奈はもう前に進んでいた。私は李奈に対する邪な心を捨てられない自分を恥じた。


「李奈めっちゃ上手やったな。経験あったんか?」

「ないよ。私の経験人数は男女一人ずつ、回数は合計二回や」

「その割にめっちゃテクニックあったな? うち初めてやったけどそれくらいわかったで」

「長年のイメトレの成果や。私の携帯料金はその動画の通信量で構成されとる。その私の集大成をたった一カ月で、たった一晩でいともさあっさり塗り替えよって。今のあんたは男女一人ずつの合計四回やないか」

「……」


 反省直後にも興味が捨てられず質問をする私も私だが、この女も可愛い顔してなかなかの好き者である。


 東備糸駅から真っ直ぐ歩いて大通りに出る交差点。もう見慣れた交差点。李奈と歩いているといつものとおり今日もこの三丁目の交差点に差し掛かった。大通りから秋の夕日が顔を出す。その夕日は東西に伸びる大通りを照らしている。

 私は肩から下げている鞄の中にあるドラムのスティックを、鞄の外から感触だけ確かめた。もう今は使っていないボロボロのスティックだ。中学生の時に最初に手にした李奈からもらったスティック。今ではお守りのようにライブや練習の時に持ち歩いている。


「ほな私こっちやから」


 私は横断歩道を渡る李奈の背中を見送った。小さな体にギターケースを背負っている。李奈は私の背中を押すと言ってくれた。実際にたくさん押してもらった。

 けどもう違うよ。いつもスタジオとステージで私は李奈の背中を見ているよ。これからは私が李奈の背中を押すから。バスドラから噴き出す圧のように、私が叩くビートに乗せて。だからずっと私の前を歩いていて。

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