楽曲 第十六話

 福岡のドーム球場でのコンサートは熱かった。そして広かった。ステージから見下ろす景色は見渡す限りオーディエンス。オーディエンスという海に浮かぶステージという名の島に立っているかのようだった。


 タスクは久しぶりのステージながら、これほどまでに広い会場は初めてだ。そしてノリのいいロックンロール。ノリのいい曲を弾けるのはベーシスト冥利に尽きる。

 千紗は一日目の当初は緊張もあったが会場の熱さに飲まれ興奮を高めた。体の小さな千紗がヤマトとバックバンドの男たちの背中を見ながらリズムでサウンドを引っ張る。そしてタスクの背中。とてつもなく大きく感じた。はっきりと悟った。


――私はこの人に恋をしている――


 二日目のこの日はコンサート終了後打ち上げがあった。店を貸切りにしてミュージシャンとスタッフ達が大いに盛り上がった。何時間も飲んで騒いだ。さすがは九州の男、ヤマト。酒の強さはタスク以上だ。本人が飲むのはもちろん、人にも飲ませる。何人もの男たちが次々と倒れていった。


 事務所から飲酒をしないようきつく言われていた千紗は酒を飲んでいない。酔っぱらったタスクは夜中、千紗に腕を担がれて宿泊先のホテルの部屋に運ばれた。

 タスクは千紗に放られベッドの淵に腰掛けた。


「ほれ、水」


 千紗はタスクのシングルの部屋の冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと傾けてタスクに渡した。タスクは上を向きペットボトルを咥えた。


「あぁ、もう。まだ開いてへんわ」


 千紗はタスクからペットボトルを奪うとキャップに手を掛けた。


「うわぁぁぁぁぁ、よだれ……」


 千紗はキャップを外すと再びタスクにペットボトルを差し出した。タスクはそれを受け取り勢いよく飲み始めた。千紗は洗面に行き手を洗った。


「はぁ、うちも部屋で先生と飲みたかったけどこら無理やな」


 千紗は鏡を見ながら嘆いた。


 手を洗い千紗が洗面から出るとすぐそこにタスクが立っていた。


「ちっ、さー」


 陽気である。ニコニコしている。


「なんや? 立てるんか?」


 すると千紗の視界が一瞬で暗くなった。体中が締め付けられる。タスクが力いっぱい自分を抱き締めたのだと気づいた時に一瞬視界が開けた。そしてタスクに口を塞がれた。


「ん……」


 声が出た。酒の臭い。頭がぼうっとする。タスクの舌が口の中をかき回す。


――あかん、気持ちええ――


 そう思っていると立ち位置を回され背中を壁に押し付けられた。その時に一度離れたタスクの顔が再び近づいた。千紗はタスクの背中に腕を回すと同時に口を軽く開けタスクの侵入を受け入れた。そしてお互いに唇を求め合った。


 タスクの手が腰まで下りてきたかと思うと足の付け根に手を掛け、体を持ち上げられた。千紗は一度腕を抜きタスクの首に回し直した。そしてタスクを見下ろした。タスクの視線はベッドを向いている。千紗は期待と興奮と不安とほんの少しの恐怖を感じた。

 千紗を持ち上げたタスクは数歩進みベッドで千紗を押し倒した。そのまま覆い被さり千紗の唇を貪った。千紗もそれに応えた。


 タスクの手は千紗のシャツの中に侵入してきた。下着越しに胸を撫でられる。千紗は首を横に振りタスクの唇を離した。すかさずタスクは千紗の首筋に吸い付いた。


「あかん、止めて」


 自然に出た言葉だった。しかしタスクは止まらない。胸を揉まれた。


「いやっ」


 千紗は力いっぱいタスクを押した。千紗の腕力で力いっぱいである。タスクは鈍い音とともにベッドの下まで転がった。


「あかん言うてるやろ!」


 千紗は怒鳴った。ベッドに膝で立ちタスクを見下ろしている。一方タスクは床に座り込み、唖然とした顔で千紗を見上げた。まだ酔いは醒めないが最低限の正気を取り戻した。


「初めてが酔っ払いとは嫌や。うちのこと好きやってまだ認識してない人とは嫌や」


 千紗は両手を胸の前に添え、目を強く瞑って俯いた。


「ごめん……」


 タスクが弱々しく謝る。千紗はぶんぶんと首を横に振るが、まつ毛が濡れるのを感じる。


「本当にごめん……」

「もうええよ。謝らんで」


 千紗の声は震えていた。千紗はベッドに腰を落とした。タスクは床に座ったままだ。


 しばらく時間が流れた。千紗は気持ちが落ち着いてきて口を開いた。


「今ちゃんと話せる状態?」

「うん」

「ここ座って」


 千紗はベッドを二回叩いた。タスクが立ち上がるのを確認すると千紗はベッドの淵に足を投げ出し座った。すぐにタスクも千紗の横に座った。正面の窓の外にネオンに照らされた福岡の街が見える。千紗は膝に手を乗せ、首を折り、顔を下に向けている。


 しばらくの無言の後、口を開いたのは話すことを促した千紗ではなくタスクの方だった。


「まだ認識してないって言うのは……」


 タスクは俯く千紗を見た。千紗は一度小さく首を縦に振った。


「そのことやねん」


 言葉は弱かった。肩甲骨まである髪が垂れ、千紗の横顔を隠す。


「うち先生になら抱かれてもええと思うてるよ、ほんまは。けど今の先生は酔うてて正気やないから怖かった」

「うん、ごめん」


 タスクはまた弱々しく謝る。しかし静かな部屋の中でその声は明瞭だ。


「それでな、質問の答えなんやけどな。うち明日は移動日で他に予定入ってへんし、明後日の仕事は午後からやねん。先生の予定も把握しとる。明日福岡でもう一泊して、明後日東京に帰らん? 始発で帰れば間に合うやろ? 明日の昼間は遊んで、夜めっちゃ大事な話するよ。話が終わって先生がその話に納得できたらうちのこと抱いて。明日は禁酒な。今は先生が酔うてるからあかん。話もエッチも」

「わかった」


 千紗はここで初めて顔を上げ、タスクに笑顔を向けた。


「明日の昼はデートな。週刊誌に撮られたらもうそん時はそん時や。楽しも?」

「うん」


 千紗の覚悟である。もしタスクが本当のことを知れば幻滅されるかもしれない。だからこそデートがしたかった。もしかしたら最後になるかもしれないのだから。




 翌朝、ホテルを出た二人は福岡の街を歩き回った。主にショッピングだ。店に入り、昼食を取り、また歩き回って店に入り、今日のホテルにチェックインをして夕食を取った。二人は純粋に楽しんだ。千紗はほとんどの時間でタスクと手を繋ぎ離さなかった。


 そして千紗の覚悟の時間。博多駅近くのホテル。タスクが投資関係のコネクションを使い、社会的地位のある人間の口利きのおかげで当日予約にも関わらず部屋を取った。


 リビングと寝室からなる広い部屋。寝室にはキングサイズのダブルベッド。浴室は二人で入っても余裕があるほどの広さ。充実したアメニティ。実に豪華である。

 二人は夜も更けたこの時間、リビングのソファーに並んで腰掛けた。側面にある窓から見えるのは昨晩の光景を凌駕するほどの夜景だ。


「前から言うてるうちの好きな人のことなんやけどな」


 千紗が話を始めた。優しい表情だが覚悟を決めていて、小さく、しかしはっきりとした声だ。


「実は顔を知らん人を好きやってん」

「え……」


 タスクは心臓が大きく脈打つのを感じた。自分と同じ境遇。これは現実の話なのか?


「うちにはその人との大切な歴史があんねん。めっちゃ大切な物やねん。大切過ぎて部屋から絶対持ち出さへんから写真を撮ってあんねん。相手の人の正体に気づいてからすぐ撮った。いつかこういう話をする時が来ると思うてたから。これ見て」


 千紗は画像データを表示して自分のスマートフォンをタスクに見せた。タスクはそれを見て衝撃を受けた。この時のタスクの表情は想像に難くないだろう。千紗が見せた写真には撮った日の時点で最新だった翼からの二通の手紙が写っていた。封筒の表面と裏面が一枚の写真に納まるように、見覚えのある千紗の部屋のローテーブルの上に置いて。タスクは声も出なかった。


「その様子やと先生も気づいてへんかったんやな。まぁ、先生みたいに不器用な人ならわかってて今までうちに隠し通せるとは思うてへんかったけど」


 千紗は一息吐いた。画像の封筒に記された宛名は大阪市の小林百花。差出人は名古屋市の河野翼。間違いなくタスクの字だ。


「百花ってうちのお姉ちゃんの名前やねん。先生が封を開けんで送り返した手紙を書いたんはお姉ちゃんやねん。けどそれが届いた時にお姉ちゃんはもう亡くなってて。うちがお姉ちゃんの名前でお礼の返事を書いたんが事の始まりやねん。うちは温泉旅行に行くまで先生の名前の漢字表記を知らんくて。旅行の時に初めて知ったから。文通の相手がずっとカワノツバサさんやと思っててん。一緒に仕事してたら、通帳とか他にも気づくチャンスめっちゃあったはずやのに、うち鈍かったわ。ごめんな、今まで身分偽ってて」


 表情を無くしたままのタスクはやっとの思いで声を出す。


「い、や……」

「ここ見て、消印。これ備糸郵便局の消印やで。二人とも転送しとったんやな」


 千紗は画像の消印の箇所を指さして言った。

 そしてここから身分を偽った経緯を話した。タスクは黙って聞いていた。タスクはとにかく唖然としていた。ずっと想っていた人が、二年半文通をしていた人が、大阪にいると思っていた人がこんなに近くにいたとは。二年半のうちの半年は隣の部屋である。ずっと同じ仕事場にいた千紗である。


 千紗は話し終わるとタスクに体を向けて言った。


「うちは先生のことが好きです。それからその前に、ツバサさんや思うてた人と先生の二人同時に恋をしてました。今回それがわかりました。そしてその人は同一人物でした。うちはこれからもコウノタスクさんとずっと一緒にいたいです。身分偽っててほんまにごめんなさい。恋人としてそばに置いてください。恋人やけどお仕事のパートナーとしてもずっとうちをそばに置いてください」


 千紗は頭を下げた。お互いに身分を偽ってはいた。それはお相子だ。だがそれでも、千紗恐れていたのだ。


「ごめん……」

「え……」


 タスクの言葉に千紗は突き落とされたような感覚を覚え、ショックのあまり声が出た。しかしそれはすぐに杞憂だとわかった。


「あ、そういうことじゃなくて。まだ今は絶賛混乱中で。なんて言ったらいいのか本当にわからなくて。とにかく頭の中を整理したいから風呂入ってきてもいい?」

「うん。何時間でも待ってるから。ゆっくり入ってきてや」


 千紗は努めて明るく言った。

 タスクは表情をなくしたまま浴室に向かった。脱衣所で着ている物をすべて脱ぎ、浴室に入ると空っぽの浴槽に収まった。この状態から湯張りを始め、足元から徐々に溜まってくるお湯を見つめた。とにかく放心状態だ。


 二時間後。タスクはリビングに戻って来た。長湯のせいで顔が火照っている。


「考えまとまった。千紗は先に風呂入る? それとも先に聞く?」

「先にお風呂」


 千紗は迷わず答えた。ただの先延ばしだ。これは千紗もわかっている。ただ答えを出したタスクを前に心の準備が必要だった。そのための時間が必要だった。


 一時間後。千紗はリビングに戻ってきた。そして最初の時と同様に二人並んでソファーに座った。もちろん口を開いたのは結論を出したタスクだ。


「実は俺の好きな人も文通相手だった。百花さんだと思ってやり取りをしてた相手」

「やっぱりそうやったんか。そう思うてたから昨日あんな言い方した。東京来て最初の頃に『今じゃない人』言うてたんは携帯の連絡先を聞いてきた時にうちが書いた返事が原因やろ?」

「うん」

「けどうちはサッカーの夢を持った大学生やない」

「俺も独立と資格合格を目指す建築士じゃない」


 タスクは身分を偽った経緯を話した。それを聞いた千紗は言った。


「恭ちゃんが空けた部屋に入ったんが先生やったんやな。育成契約終わると家賃自己負担になるから」

「名義人は俺の前から事務所だったんだな。ちょっと考えればわかることなのに、今まで気づかなかった」

「嘘を吐いたことはお互いさまや思うてる。文面から相手がうちを好いてくれてるんやろなってこともわかってた。けどそれでもうちはうちの嘘で幻滅されるんがどうしても怖かった。せやから気づいてからのこの一カ月すらも言い出せんかった」

「うん。じゃぁ俺の結論を言うね」


 千紗は身構えた。そしてお互いがお互いに向き合い、真剣な目で見合わせた。


「俺もこのことを知って百花さんだと思ってた文通相手の千紗と、ハーレムのドラマー千紗の二人に同時に恋をしてたって気づいた。嘘を吐いていたことはもう今更どうでもいい。夢を持ってる文通相手に惚れたけど、今の千紗だって仕事を通して夢を持ってる。二人いる好きな人が同一人物だったことが今はとにかく嬉しい。俺の方こそ千紗に言いたい。仕事のパートナーとして、それから恋人としてずっと俺と一緒にいて下さい」


 タスクは頭を下げた。生まれて初めての愛の告白だ。タスクは千紗の言葉を待った。


「ぐすっ、ぐすっ」

「え?」


 タスクは顔を上げた。するとそこには顔をぐちゃぐちゃにした泣きっ面の千紗がいた。不細工だ。行き交う人も羨む美少女の顔がとてつもなく不細工だ。いい雰囲気が台無しである。タスクはやれやれと思った。


「しぇんぜー(先生)」


 千紗はタスクに抱き付いた。その勢いは凄まじくタスクは呆気なくソファーに押し倒されてしまった。こうして二人の二年半の恋と半年の恋が成就したのである。


――千紗おめでとう。お姉ちゃんはもう夢に出んでええな。ほなお幸せに――

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