なぜ嫌いだった猫を好きになれたのか
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なぜ嫌いだった猫を好きになれたのか。
リビングから二歳の娘が泣く声が聞こえてきて、集中が途切れてしまった。背もたれを軋ませ天井を見上げる。泣きはじめてからすでに五秒が経過した。
いまだに菜々子は「あーあー」と泣いている。
ためいきをひとつ。
「うぉーい」
皐月ー、と妻の名を呼ぼうとして、はたと気付いた。
さきほど、何か声をかけられた気がする。そしてドアの音がした気もする。仕事中だったので生返事で返したが、皐月に「ちょっと出てくるから菜々子を見ててね」と言われたような。少なくとも泣き止まないのなら、一緒の部屋に皐月はいないのだ。
ためいき、ふたつめ。
「菜々子ーどしたー?」
声をかけつつ立ち上がる。仕方がない。そもそも、仕事を家に持ち込まないというルールを破ったのは、私である。つい先日まで月曜に間に合うか不安になっていたのだが、すでに半ば以上を終わって手隙なのも、また事実である。腹立たしいことに、横から口出しされない分だけ、家の方が捗ったのだった。
リビングに入ると、菜々子は床にべったり座り込んで、泣いていた。
「どしたー?」
私の声に反応し、菜々子が振り返った。
「ぱぁぁぁ! ぽぁあちゃぁぁ!」
「んー? どしたー?」
「ぽぁぁぁああちゃぁぁぁ!」
普段はもう少し理知的かつ聡明な菜々子だが、所詮は二歳児。ひとたび泣き出してしまえば、若くして体得した二語文も失われてしまうらしい。
「大丈夫だぞー、どしたー」
言いつつ、私は菜々子を抱き上げた。重い。そして、頬に血がにじんでいる。
菜々子は私にしがみつき、叫んだ。
「ぽぁぁぁちゃぁぁぁ!」
私はタイの人名じみた響きをもつ『ぽぁーちゃ』なる名前ではない。まさか皐月がタイ人と浮気していて、現場に菜々子を連れて行ったわけでもあるまい。妻はなかなか不思議な思考回路を持つが、浮気に娘を同伴するほどではないだろうし。
となれば、おそらく、
「ポン太に引っかかれちゃったのか?」
菜々子はこくんと頷き、しがみついてきた。理解している。末恐ろしいな。
そして、ポン太め。帰ってきた皐月にしこたま怒られるのは、私だぞ。
とりあえず私は菜々子をビーズクッションに座らせ、頬の消毒をすることにした。
ふっくらとした頬に三本の爪痕。改めて観察すると見事な平行線である。
私は、消毒液を染み込ませた綿で傷を綺麗にしつつ、容疑者の影を探した。
ポン太のキジ猫じみた姿は見えない。爪を立てて逃げたのだろうから、当然だ。
ポン太は皐月がどっかからもらってきた、由緒正しき雑種猫である。らしい。らしいというのは、証拠不十分だからである。
「ポン太は由緒正しきミックスなの。アメショーとアビシニアンの純血だよ?」
という、皐月の発言以外に、由緒正しさの論拠はない。
真偽はともかく、雑種は雑種である。ミックスって猫をかき混ぜてるのかよ、ハイブリッドじゃいかんのか、嫌ならハーフでもいいぞ、と言おうかと思った。
言わなかったのは、皐月が妊娠二カ月目だったからだ。
そう。ストレスに配慮――だけではない。いったい、どこの世界にこれから子供を産もうというときに獣の室内飼を始めるバカな母が――ここにいた。というわけだ。
当然、猫を諦めさせるストレスに配慮した文言を言わねばならない。
しかし私の理想的夫たろうという意思は、あっけなく吹き飛ばされてしまった。
皐月がまだ小さいポン太を抱えて言ったのだ。
「ポン太はね、お母さんから名前を一字もらったの」
なんだと。母と言ったか、皐月よ。お前の母に『太』はつかないし、私の母にもついていないぞ。いや、もちろん分かっている。名前をもらったのはポン太の母に違いない。『太』がついているメス猫の名前が想像つかないだけだ。
私の関心はポン太の母『〇〇太』に向かい、言葉の選択は放棄された。
「ポン太のお母さんは、ポン吉って言うの。アビシニアン」
なんだと。『ポン』が一字だというのか、皐月よ。しかもポン吉なのにメスか。
まぁ『お吉さん』って呼び名もあるし……って、それ吉の愛称では? などなど。
またしても私の興味が別のことに移ったのを察したか、皐月はしたり顔で続けた。
「パパ、よろしくね?」
そう言って、抱えたポン太の右手――右前足を差し出してきた。
私は反射的に右手を出し、ポン太は自らの意思で肉球をおしつけてきた。猫に意思とか何言ってんだ、と思われるかもしれない。
けれど、ポン太はそのとき、
「にあ」
と、鳴いたのだ。私はそれを挨拶と認識し、意思を感じたのである。
そしてまた、まずは猫砂か? などと考えていた。
「ぱぁ、だっこー」
突然聞こえた菜々子の声に、私は我に返った。もう泣き止んだのか。
とりあえず私は菜々子の躰を抱え上げ、無駄と知りつつ聞いてみた。
「菜々子、ポン太になにかした?」
自分で発声しておきながら、なんという猫なで声だと思った。
私が菜々子にそう聞いたのは、ポン太はいまでは大人しい猫だったからである。
ウチに来た当初、たしかにポン太はやんちゃだった。やんごとなき両親への反発もあったのかもしれない。
しかし、今後のことを考え去勢した結果、とても聞き分けのいい猫になったのだ。一歳の菜々子に抱き着かれても身動ぎせず、ほんの一瞬の隙をついて姿を隠す、そんな猫である。
あの紳士的なポン太が、菜々子に手をあげるとは。
そう思い、私は菜々子に聞いたのだ。
しかし当人は「ぽぉちゃ、いや」と言いつつ、しがみついてきただけだった。
どうすべきか思いつかなかった私は、まるで動物園にいる猫族のように、菜々子を抱えてリビングをぐるぐる歩き回った。とはいえ、誰もいないリビングの巡回警邏を厳重にしても意味はない。なによりポン太容疑者に取り調べを行う必要がある。
「ポン太ー? どこ行ったー?」
「ぽぉぉちゃ、いやぁ!」
ポン太への呼びかけに反応し、菜々子が泣いた。
引っかかれたくらいで嫌いになるのか。
そう胸裏で呟くと、かつては私も犬猫が嫌いだった、と思い出した。
子供の頃の話である。いまはポン太含めて猫好きだ。犬は――中型以上なら。
なぜ嫌いだったのかといえば、猫には引っかかれ、犬には噛まれたからである。
たしか猫は、祖母の家にいた三毛にやられた。写真も残っている。犬の方は、叔父の家の炬燵に足を入れた瞬間、親指に穴があいた。写真はなくても痛みは忘れぬ。
ぎゅっとしがみついてくる菜々子を抱えていると、ふと気になった。
なんで私は、猫は好きになり、小型犬は嫌いなままなのだろうか。
猫はこちらから仕掛けない限り何も危害は加えてこない……わけでもない。どちらかといえば、懐いた犬の方が何もしてこないはずだ。
犬は足にまとわりついてうざったいかもしれないが、それは愛情表現である。猫が足に擦り寄ってくるのは、これは私の所有物である、という意思表明にすぎない。
犬は飼い主たちにも序列を求め、猫は猫同士でしか序列を持たないともいう。
また、犬は従順な生き物で、猫は常に飼い主の命を狙っている、なんて話もある。
……あの泰然と佇む、紳士的なポン太がか。
私は肩を竦めて、鼻を鳴らしてしまった。ありえん。
そうやって躰を揺らしていると、扉の影から容疑者が姿を現した。
座って、じっとこちらを見上げている。いつものように紳士的であり、私の言葉を待っているようだった。
ならば、私は事情を聴いてやらねばなるまい。
「ポン太よ。なぜ菜々子を叩いたりしたのだ。弁明があるなら聞こう」
自宅警邏中という状況もあって、なんとなく言葉が固くなってしまった。
対して、ポン太は黙秘したままである。なぜだ。
いつものポン太だったら「そういうおふざけは自分のつがいにやりたまえよ」とでも言わんばかりに冷めた目をする。しかし今日のポン太は違うらしい。
「ポン太よ。罪を認めないつもりか? 証拠はあがっているんだぞ?」
私は被害者に対決する勇気を求めた。
「菜々子、ほら、ポン太がきたぞー?」
「ぽぉちゃあ、いやぁ」
ぐずぐずとうめいて、しがみついてきただけだった。埒があかない。
私は再び菜々子をあやしつつ、ポン太に最後通牒をつきつけた。
「ポン太よ。弁明がないようなら、お仕置きをせねばならん。いいのか?」
しかしポン太は、じっと私の目を見つめ……いや、違う。菜々子を見ている。
私はもしや、と思い、菜々子に再び尋ねた。
「ポン太に言うことはないの?」
菜々子は、いやいやをするように、頭を擦りつけてきた。
私は腰を屈めて、ポン太の鼻先に手を差し出した。
ポン太は私の手を一瞥し、しかし肉球は乗せず、菜々子を見つめ続けていた。
「ほら、菜々子。ポン太は引っかいたりしてこないぞ?」
菜々子は私にしがみついたまま首を振り、肩越しにポン太に言った。
「……ぽぉちゃ、ごめんね」
「にあ」
菜々子が頭を下げるのと、ポン太が鳴いたのは、ほとんど同時だった。
やはり。ポン太が理由もなく
「ポン太よ。何をされたのだ?」
私はポン太に問うた。
しかし由緒正しき雑種猫・ポン太は黙して語らず、ただ一礼して歩き去った。
そのとき、玄関からただいまー、との声が聞こえた。ヤバい。
帰ってきた皐月は早々に菜々子の頬に気付いてしまった。ヤバい。
「もう。だめでしょ? お髭に触ったらポン太も怒るよって言ったよね?」
なんだと。それは、いかな紳士といえども怒るに決まっている。しかしポン太よ、ならば弁明すればよかったではないか。なぜ黙したままだったのか。
私が困惑していると、菜々子は皐月に頭をちょこんと下げて言った。
「ママ、ごめんね」
「もう。ママじゃなくて、ポン太にごめんなさいでしょ?」
瞬間、私は理解した。なぜ猫は好きになり、犬は嫌いなままなのか。
猫は謝罪を受け入れて、また謝罪するのである。つまり、罪の意識を持つのだ。
犬は違う。たしかに同居人であり、また家族である、と認識することはできる。しかし犬の家族とはすなわち群れであり、上下関係を基準とするのだ。たとえ犬が謝罪をしたとしても、それは自発的なものではない。より上位の存在に押さえつけられ、仕方なく頭を下げているにすぎない。そこに罪の意識はないのだ。
猫は違う。バツが悪そうにして謝らない猫もいるだろうが、バツが悪そうにはする。いまのポン太のように謝罪を受け入れ、自らが手をあげたことを謝る猫もいる。つまり猫は、自らの犯した罪に自覚的なのである。
言い換えれば、私は猫を、尊重するに値する、と認めたのだ。
と、勝手に納得しつつ、私は菜々子を皐月に引き渡して部屋に戻ろうとした。
しかし、皐月はそれを許しはしなかった。
「ちょっと」
「……なんだね」
「なんだね、じゃないでしょうよ。私、見ててねって言ったよね?」
皐月、激怒である。
「あー……ごめんなさい」
「それだけなの? 仕事を家に持って帰らないって自分で言っておいて……」
私は意図的に聴覚刺激を遮断し、さながら問い詰められるポン太のように、ただじっと待ち続けた。しかしこの件では私が一方的に悪く、ポン太のように渋く歩き去ることはできなかった。
何度も頭を下げる私を、ポン太はずっと見ていた。説教が終わり、うなだれて部屋に戻る私を慰めるかのように、ポン太は後ろからついてきた。
「ポン太よ。優しいな、お前は」
言いつつ部屋に戻った私は、愕然とした。半ば以上を終えた仕事は、ポン太の足跡および倒されたマグカップの犠牲になっていたのだ。
「ポン太よ。弁明の言葉はあるかね」
「にあ」
ポン太は、バツが悪そうに一度だけ鳴いた。
私は、少しだけ猫が嫌いになりそうだった。
だいたい、お前は少しずるいぞ。ポン太よ。
私はいまだに「ぱぁ」なのに、お前はもう「ぽぉちゃ」ではないか。
先に正しい呼称で呼ばれるのは、ポン太の方に違いない。
なぜ嫌いだった猫を好きになれたのか λμ @ramdomyu
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