【蘭鋳】
兄は中学三年生までは優等生だった。
高校に入ってから、勉強をしなくなり、髪を染めてピアスを開けるようになった。
両親は最初怒っていたが、最近はもう何も言わなくなった。理由は簡単至極。兄が母を殴ったからだ。
兄は極めて凶暴化してみせた。
高校二年の春、大学に入学したばかりの兄に、なぜそうなったのか理由を聞いたことがある。
「偶像の破壊だ」と言う答えに「くだらないね」と返したら、二秒後に殴られていた。そのまま後ろにあったテレビのキャビネットにぶつかったので、僕の左手の親指には未だに死んだ爪が張り付いている。
「ただいまー」
返事はないが、いつもの癖でそう言いながら家に入った。靴を脱いで、そのまま目的地に進む。かつて団欒の場であった十畳のリビングがそこにある。
いまや家族で使うことはなくなったその部屋。南向きの大きな窓から月明かりが入り込み、その光は黒いソファーを飛び越えて硝子のテーブルにまで及んでいた。
僕は白いメッセンジャーバッグをテレビに面したソファーに放り出すと、北側にあるキッチンへ移動した。冷えた床の感触は好きでもない代わり嫌いでもない。自分で炊事をする時には大嫌いだが。
冷蔵庫の中には食材の代わりに酒が入っている。昨日の夜に食べた炒飯がラップをかけられて、二段目の隅に死んだ雀のようにひっそりと横たわっていた。僕はそれを無視して、扉の内側の炭酸飲料を取りだすと、グラスに注いでリビングに戻った。
そしてそこで初めて口を開いた。
「バイトは?」
「今日はない」
兄は窓側のソファーに身を沈めてテレビを眺めてつつ答えた。自分の部屋にもあるのだから、そっちで見ればいいのに、とは思うが、僕には関係ないので口には出さない。
炭酸を口に流し込むと、舌を引っかくような感触がした。よく冷えている。
「ガッコ行ったの?」
「行ったよ。まぁずっと後輩と麻雀してたけど」
「ふぅん」
兄といると、いつも首の中が苦しくなる。息が苦しいのではない、純粋な鬱陶しさだ。僕はそれを拭い去るために、再び炭酸を口に含んだ。首の中で身を寄せ合っている青くヌラヌラと光る蛆虫を思い浮かべながら。
首を右方向に回して、兄を視界から外す。テレビの右にあるキャビネットの上。小さな水槽の中に赤い金魚が泳いでいる。
丸く不格好に膨らみ、背びれのない蘭鋳。名前は特につけていない。僕はそれに近づくと、引き出しから箱を出して中身を一摘み水槽の中に撒いた。数秒かけて水を重そうに掻き分けて浮上してくる金魚。ぼんやり眺めていると、兄が口を開いた。
「今日は三万勝った。」
嘘でしょ、とは言わなかった。金魚に向かって口の動きを見せただけだった。嘘、つき。
兄は良くも悪くも普通の人間である。弟の目から見てもそれは明らかだった。兄は弱者が好きだ。非力な母と無口な父と反抗しない弟が好きであり、その意味では僕の家庭は兄の暴力でまとまっている。兄は弱者が好きだが、自分が弱者になることは好まない。兄は家では君主だったが、外では単なる一人の大学生に過ぎない。だから金も賭けないし、外では暴れない。弱者になりたくない、という歪んだプライドが彼をそう動かしている。
水槽の後ろの、バットでへこんだ壁も、ヒビの入った硝子のテーブルも、兄にとってはそのプライドの結果で、僕と母は見ない振りか、もしくは謝っておけば、それ以上家を破壊される心配はなかった。
外での兄は普通の人間だが、家では絶対王者だ。恐怖と暴力で家族を支配する、そんな存在。
母は今でも、兄が変わってしまった原因に頭を悩ませているが、僕にとってはそんなことはどうでもよかった。別に昔から構造は変わっていない。優等生だった頃の兄は、その学力と素直さで母を懐柔し、僕を見下していた。勉強する万全の体勢を家族に望み、それが少しでも妨害されれば壁や枕を蹴っていた。
だから僕にとって、兄は何も変わっていない。
「その金魚」
兄が煙草を取り出しながら呻いた。
「うぜぇ」
「ごめんね」
金魚に罪はないので代わりに謝っておいた。いつもならそれで終わるのだが、今日はまた一言加わった。
「お前、それそんなに大事かよ」
振り返ると、兄は口元に薄笑いを浮かべて、ソファーに寝転がっていた。
僕は兄が金魚を殺すのではないかと一瞬危惧したが、そんな気はないようだった。そもそもそんな思考は全く意味のないことだ。
「煙草買って来いよ」
兄は笑うのをやめて、僕に命令した。答えるのも面倒なので黙って出かける支度を始める。外の温度はどのくらいだっただろう。十分前のことなのによく覚えていなかった。コートを左腕に抱えてスニーカーを履いた。
「他は?」
「別にいい」
外に出ると、風が肌を差した。そういえば風が強かったんだ、と今更思い出して僕はコートを羽織った。
煙草が売っているコンビニまでは一ブロック分しか離れていない。足早にそこへ向かうと、目的のものを買ってすぐに外に出た。手に持っていた煙草二箱のうち、一箱をコートに突っ込んだ。最近僕の煙草の量が増えたのは、兄の責任だと思う。兄は僕が嫌煙家だと思っているらしいが、単に家では吸わないだけだ。
家に帰ると玄関に兄がいて、一分遅いと殴られた。金魚が水槽の中から、こっちを見ていた。
「また怪我したの、お前」
「あぁ、うん」
飲食店の夕方は暇だ。開店前の厨房でお通しを作っていると、同期の男が話しかけてきた。小鉢に紫蘇を敷き、ポテトサラダを置いている僕の横に立ち、同じ作業を始める。
「今度はどこで転んだわけ?」
「電車で寝てたら、ポールでガッツン」
「うわ、痛そ」
嘘をつくのはどうということもない。困るのは僕がどうしようもなく阿呆だと誤解されることだ。
「それじゃ外出れないな」
「ウェイターじゃないからいいだろ」
「いやいや、わかんねぇぞ。このお通しに感動した人が「君、これを作った人を呼んでくれ」って言うかもしれねぇじゃん」
「よしんばそんな客いても、逆に行かねぇ」
「ってかよ、怪我しすぎじゃね?」
「そう? 三日に一度くらいだけど」
「普通そんなしねぇよ。あれか、今流行りのドジっこか」
「流行ってないよ、古いよ」
「でもお前、ここだと怪我しないよな」
「気が抜けるとダメなんだ」
怪我をしたくなければ兄を怒らせなければいい話なのだが、あれだけ手に負えない人間も珍しいと思う。会わないように過ごすのも可能だが、面倒臭い。
「そろそろ開店の時間か?」
「よし、帰る」
「まだ早ぇよ。それより四面からブロッコリー出しとけ」
開店を告げるメロディーが鳴った。今日は暇だといいな、とあらぬ期待を抱きながら、僕は冷蔵庫のほうへと向かっていった。
家に帰ったのは深夜二時だった。
玄関を開けると、リビングから声というか音がしたので見てみると、テレビが点けっ放しだった。
誰もいない部屋に向かって、売れそうもないアイドルが愛嬌を振りまいているのをリモコンで黙らせる。
「片付けろよ、ったく」
テーブルにはピザの箱や飲みかけの缶ビールが散乱していた。いくつかは灰皿として使用されていた痕跡がある。
スナック菓子も中途半端に放置されていて、それぞれが自分の最期の瞬間を待つかのように、白々しく黙り込んでいた。
キッチンからゴミ袋を持ってくると、手当たり次第に突っ込み始める。分別もなにもない。片付ける優しさはあれども、そこまで考える義理はなかった。腹が減っていたので、手付かずのチョコレートを食べながらやっていると、物音がした。
兄かと思って振り返ると、女が立っていた。リビングから伸びる階段の踊り場から、僕を見下ろしていた。首に巻いた赤いストールが手すりにかかっているのが見えた。
「弟さん?」
「まぁそうですけど」
女は小さく微笑んだ。頬が赤いので酔っているのだろう。 僕は気にせずに、空のペットボトルをゴミ袋に入れた。
「お兄さん、いつもどう?」
「兄貴ですか? 見たままですけど」
「へー」
女は何度も頷いて、それから不意に顔をしかめた。
「水貰っていい?」
「どうぞ」
女は足音を軽く響かせながら階段を下りて、台所へと入っていった。水がシンクに落ちる重い音が暫く続いて、唐突に途切れる。
女は口元を拭いながらリビングに戻ってきた。そのまま消えるかと思ったら、女は僕がゴミを捨てるのをジッと見ていた。落ち着かない。
「家、帰らないんですか」
「終電なくなっちゃったの」
「兄貴の友達ですか」
「うん、そう。お兄さんの部屋にも二人いるよ。皆酔い潰れてるけど」
水槽を見ると、金魚は底に腹部をつけていた。いつだったか酔った勢いで兄が水槽を殴りつけたことがあるため心配していたのだが、少し安心した。
「兄貴の彼女ではないんですか」
特に興味はなかったが、会話が途切れるのも気まずいので尋ねてみると、女は思っているよりも激しく否定した。
「ないない、それはない」
「そうですか。で、戻らないんですか?」
「冷たいなー。このチョコパイ食べていい?」
「どうぞ。って、自分のじゃないけど」
女はまだ食べかすが散乱しているソファーに腰を下ろした。僕はゴミを殆ど片付けてしまうと、窓側のソファーに座って女と向かい合う形になった。
「いいよ、あたしに気にせず寝て」
「知らない人がフラフラしてたら落ち着かないんです」
「律儀だねぇ」
女は少し間を置いてから、もう一度「律儀」と呟いた。僕は、女のストールを見つめていた。それから視線をテレビの方に向けると、同じ色をした物体が水槽に沈んでいた。僕は暫くの間思考を停止していた。
「弟君は大学生?」
「そうです。大学一年」
相手の声で意識を戻して、必要最低限の返事をする。
「じゃあ二つ下なのね」
「はぁ」
同じ色なのに、こっちはよくしゃべるな、と思った。普段、暇な時に話しかけている金魚は、気が向いた時に生白い腹部を見せる程度なのに。
僕はチョコパイを零しながら食べる女を見ながら、不意に悪戯心を出した。
「兄貴ってどうですか。どんな感じですか」
「どうって普通よ」
「喧嘩とかします?」
「しないよ。平和主義って言ってたもん」
「もし兄貴が家庭内暴力の加害者って言ったら信じます?」
女は眉間を寄せて首を右に傾けた。それから数秒かけて僕が言っていることを理解したのか、そのままの状態で「え?」と呻いた。
「まっさかー」
「でしょ。そういう反応だと思った。兄貴ってね、内弁慶なんですよ。だからね、家で気に入らないことがあるとすぐに僕とか母さんとか殴るんです」
僕はなんだか愉快になってきて、唖然としている女に笑いながら話かけた。
「最低でしょ。ほら、このデコの痣もそう。玄関の下駄箱に思いきりぶつけて」
「それ、マジ?」
「マジです」
僕が笑いながら言うので、女は本気にするべきかどうか悩んでいるように見えた。そのまま僕が黙り込んでしまうと、相手は何か言おうとして、金魚のように数回口をパクパクさせた。困った顔で左右を見回し、その目がある一点で止まった。
「ねぇ、あの水槽」
「はぁ」
「金魚飼ってるの?」
「まぁそうです。でもそれ生きてないですよ。ゴムの玩具だもん」
数年前に手に入れたその金魚は、非常に精巧に作られていた。多少値は張ったものの、僕にはそれが必要だった。
「中、塩水なんですよ。そこに更に塩入れると、比重が変化して金魚が浮かんでくるんです。結構リアルですよ」
「どうして玩具なんか入れてるの?」
「前の金魚を兄貴が殺したから」
元々金魚は兄が飼っていた。まだ兄が優等生だったころの話だ。兄はその金魚を可愛がっていたのだが、可愛がるだけで水槽の掃除などをしなかったため、金魚はカビだらけになって死んでしまった。
僕が金魚の玩具を飼い始めた時、兄は思った通り苛立っていた。
兄は弱者が好きだ。兄は弱者になるのが嫌いだ。そして兄は、自分の思い通りになる家族が好きだった。
だから僕は金魚の玩具を、わざとテレビの横に置いた。兄はそれを明らかに嫌悪していたものの、わざわざ玩具を壊さない程度のプライドは持ち合わせていた。
兄は絶対君主だが、僕は兄が大嫌いだった。金魚を可愛がっている時は、大抵兄が怒り出す。僕は兄の感情が乱れるのを見るのが、堪らなく愉快だった。兄の機嫌はコントロールできなくても、苛立ちを引き出すのは簡単だった。
これが陳腐な映画とかドラマなら、僕が青臭いこと言って兄貴と喧嘩するとか、一矢報いって終わりだ。でも世の中そんなに簡単じゃない。暴力でまとまったこの家を暴力で覆すことなど出来ないし、今更仲良し親子なんか目指したくなかった。
だから、いつかこの家をどちらかが出て行く時まで、僕は兄に反抗し続けることに決めた。兄が未だに気にしていることを延々と抉り続け、何でも思い通りにならないことを教えるために。下手なプライドのせいで、金魚のことを面と向かって抗議できない兄を馬鹿にするために。
「可愛いでしょ」
「ちょっとグロい」
女の正直な感想を聞きながら、僕は視線を二階に向けた。そこには兄が立っていた。僕は社交的に手を振りたくなったのを必死に抑えて、視線を外した。
あぁ、また殴られるんだろうな、と他人事みたいに思いながら、僕は次の反抗手段を考えていた。
END
短編置き場 淡島かりす @karisu_A
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。短編置き場の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
空洞に穴を穿つ/淡島かりす
★55 エッセイ・ノンフィクション 連載中 121話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます