【硝子の海と猟銃と】
時折、海が見たくなる。
行けないから、空で我慢する。昇華されない部分が、悪循環になる。
ツマリ、ヨウスルニ、サウイウコトニゴザイマス。
その日はうんざりするほど夏だった。湿気も温度も、完璧なまでに夏。
ビルのジャングルは、気温を数度上げて、蒸した空気を作る。
ジャングルの中央。
高くも低くもない、標準的なビルの屋上が、僕の居場所だった。
「やぁ」
とっくの昔に半分が空きフロアとなったビル。
そこに、「彼」は来る。
「やぁ」
同じ台詞を返す。
彼はいつもと変わらない顔で、僕を見ている。
ディフォルメされた、兎の被り物。
アニメちっくな頭部に現実的な身体が接続されてるのは、なにかのジョークのようだ。
誰も笑わないジョーク。誰にも見つけてもらえないジョークはただの悪趣味だ。
「今日も暑いねぇ」
「君は特にね。その頭、重そうだもの」
道路を見下ろすと陽炎が見える。歪んだ空気の中を歩く人々。歩いてる本人達は気付かないのだろう。
ラビットヘッドが、やがて口を開く。と言っても外見は変わらないのだが。
「昨日は十五人を殺したよ」
「随分頑張ったね」
「暑くなるまえに殺らないと、夏に後悔するんだ」
「タンポポ駆除みたい」
「そうかもな」
マッタクモッテ、ソノトオリニゴザイマス。
「海に行きたいんだけど、どうせ混んでるんだろうな」
「毎日渋滞だ」
「秋はクラゲが出るし」
「我慢して行くか、諦めるかだぞ」
「まぁねぇ…」
ラビットヘッドは足元のバッグにしゃがみこむと、中を漁り出した。
僕は片目でそれを見ながら、どうしようもない話を続ける。
「海はいいよね。何でも飲み込んでくれる」
「俺は泳げないんだ」
「どこまでも泳いでいけるような感覚になるんだ。沈んでもね」
都会の空は、まるで情緒がない。否、それは空のせいではなくビルのせいだ。このビルのように空っぽに近いものも、人で溢れかえったものも、全く同じに建っている。
空っぽで頑丈な足場を見下ろす。灰白いコンクリだけ見れば、全てが凝縮し、全てが空洞。
ナニモカモアリ、ナニモアリマセヌ。
「生き物は海から来たのに、僕達は海じゃ生きられない」
「生き物は海からくるのに、魚は水から出られない。人魚はその中間か?」
「あれは魚類だよ。陸に住めないから」
「あれは多分、肺にエラがついてるんだろうな」
「見たことないでしょ」
「だから言うんだ」
ラビットヘッドの手には猟銃が握られていた。
この前はピンクに塗られていたのに、夏に入ったからか、綺麗な空色に変わってる。
「A型?」
「残念。B型だ」
アイショウノ、アウモアワヌモ、ショセンハ、ケツエキガタノモンダイデス
「今日の目標は?」
「暑いから十人いけばいい」
ところで彼の目はどの辺りなんだろう。一瞬考えてみたけど、下らないからやめる。
知ったところで僕に利益なんてない。
「この地区は君が殺るの?」
「そうだな。他の奴らもいるが」
「兎頭の?」
「ライオンもいるぞ」
「夏だね」
「どこか行かないのか? 友達がいなかったか?」
「友達がいない奴は、外に出たりしないよ」
「そうか」
ラビットヘッドは引き金を引く。
「奴らは自分達が殺される対象なんて思ってないのさ。それが一番厄介なんだ」
「殺されるかもって思ってる人は?」
「大いに救いがあるね」
特別憲法一三一号
社会にとって不要と見做された者には、特別委員会が処罰を下す。
ラビッドヘッドは特別委員会の人間であり、僕はただの通行人だった。いつから彼の仕事を、こうして眺めるようになったか覚えていない。
「不要な人間だから、殺しても誰も気付かない。いや、気付いても騒ぐことじゃないから黙っておくんだろうな」
「要らない人間って多いねぇ」
「撃っても撃ってもキリがない。お、またいた」
ウテド、ウテド、ヤミマセヌ。
ヤミテハ、タマヲコメマスル。
タダ、タダ。
僕は夏盛りの空を見上げ、それからビルのジャングルを見た。
太陽が、硝子に反射して目に痛いほど輝いている。
それは、擬似的で、都会らしい、水気も救いもない渇ききった―――海。
それに漂う僕等は、陸にしか住めない人魚だ。都会の海に目を焼かれて、僕らは渇いていく。誰にも気付かれないまま。偽物の海を抱いて。
ツマリ、ヨウスルニ、サウイウコトにゴザイマス。
傍らで、また発砲音が聞こえた。
end.
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