母の故郷


「いい飲みっぷりだねぇ。さぁすが、自衛隊さんだんべ」


 佳奈が切り子のぐい吞みを空にしたのを見て、伯父の博之ひろゆきは豪快に笑った。


「はあ、おいしい」

「佳奈、もうそれで終わりにしなさい」


 進司は、ほんのりと頬を染めた娘を困惑気味にたしなめた。その進司のぐい吞みにも吟醸酒がなみなみと注がれる。


「いーじゃないの、正月くらいさ。ほれ、進司さんも飲んで」

「あ、すみません」

「しっかし、佳奈ちゃんと酒飲む日が来るたぁねえ。まだまだちっさい思ってたのにさ」

「ずいぶんご無沙汰していましたから」

「陽子さん里帰りしたの、何年ぶりだんべ?」

「佳奈が高三になる前の正月に来て以来ですから……、四年ぶりになりますかね」


 進司はくつろいだ笑みを浮かべると、いかにも酒豪という風情の義兄に酒を注ぎ返した。



 佳奈の母親の陽子は群馬県南部の出身だった。母方の祖父母の家は新幹線を使えば入間の自宅から二時間もかからずに行ける場所にあったが、免疫異常を原因とする内臓障害を抱えるようになった陽子にとっては、もはや気軽に行き来できる距離ではなかった。

 結婚後も実家近くで暮らす姉は、体調の思わしくない妹を気遣い、たびたび入間まで足を運んだ。しかし、七十代半ばになる老父母にはそれも難しく、この四年ほどの間、陽子と彼女の両親が顔を合わせる機会は全くなかった。



「あれから、義兄にいさんにも義姉ねえさんにも本当にお世話になってばかりで」

「何も大したことしてないさ。あ、佳奈ちゃん、おかわりすんべ?」

「いえ、もう佳奈は……」


 佳奈に酒を注ごうとする博之とそれを止める進司が滑稽な押し問答を始めた時、伯母の裕子ゆうこが襖を模したドアを開けて顔を覗かせた。


「あんたたち、まだ飲むん? そろそろお茶持ってこよっか」

「もうちっと酒でいいや。裕子、佳奈ちゃん強いぞ。お義父とうさんを飲み負かしちゃったい」


 博之は、ますます困り顔になる進司に構わず、和室から続くリビングの隅の方を指差した。壁に沿ってL字型に置かれたソファの上で、毛布を腹に載せた小柄な老翁が高いびきをかいていた。


「父さんも弱くなったがね。佳奈ちゃんと乾杯したのが嬉しくて、飲みすぎちゃったんね」


 裕子は、気持ちよさそうに寝入る父親を愛おしげに見やると、夫の横に座った。


「お義母さんと陽子さん、また台所? もうそんな構わんでって言って」

「今、二人ともちょっと二階上がってる。陽子が横になりたいって」

「えっ」


 ほろ酔い気分だった三人の顔が、さっと固くなる。


「救急車、呼ばんでいいんか」

「そんなんじゃないんさ。ちょっと疲れたんだって」


 腰を浮かせかけた博之と進司に、裕子は慌てて座るよう促した。そして、不安げに見つめてくる佳奈に優しく笑いかけた。


「お母さん、朝からいろいろ作ってくれてたんでしょう。おせちの残りがあればいいって言っといたのにさ」

「俺たち来るからっつって、やっぱり気ぃ遣っちゃったんかなぁ」


 さんざん飲み食いしていた博之が、中身の少なくなった大皿の並ぶテーブルを見渡し、すまなそうに首をすぼめる。


「作ってる時は、すごく楽しそうにしてたんですけど……」

「佳奈ちゃんのお母さんは、私と違って料理好きだかんね。佳奈ちゃんもお手伝い忙しかったでしょ。おばあちゃんも付いてるしさ、お母さんのことは心配しないでゆっくり食べり」


 威勢の良い早口で喋る伯母の言葉に、佳奈はほっと顔を綻ばせた。


「そうだ、佳奈ちゃん。おばあちゃんの作った梅酒あるよ。若い子は日本酒よりそっちのほうがいいんでない?」

「あ、私、このお酒好きです。いい匂いで、すっきりしてて」

「あんら、その若さで淡麗辛口の味が分かるなんて、たいしたもんだね」


 裕子は、博之と顔を見合わせるとカラカラと笑った。進司ひとりが顔をしかめて童顔の一人娘を見やる。


「きっと職場の先輩にいろいろ教わったんだんべ。何しろ自衛隊さんだから」

「そうなん! 凄いね、佳奈ちゃん!」


 夫の冗談を真に受けたらしい裕子は、好奇心旺盛な子供のように目を見開いた。


「自衛隊のお仕事ってどんな感じ? 佳奈ちゃんも鉄砲持って野っ原走り回ってるん?」

「いえ、私は普通の、事務っていうか」

「おっかない人いないん? 自衛隊っつったら、ヒグマみたいのばっかりいそうだけんど」

「あ、同じ班にクマっぽい人いる!」


 期待どおりの応えに、伯母夫婦は声を立てて笑った。博之がガラスの二合徳利を持ったまま身を乗り出す。


「佳奈ちゃんの好きな飛行機乗りはいないんかい?」

「いますよ。元パイロットさんで、今は飛んでないですけど、昔は戦闘機に乗ってたって」

「そりゃあすんげえ!」

「班長は潜水艦の艦長さんやってた人だし」

「はぇ~! てぇしたもんだ!」


 博之は、佳奈に注ぎそこねた酒を己のぐい吞みに入れると、さも楽しそうに飲み干した。その横で、進司がひとり首を傾げた。


「佳奈が働いているのは、航空自衛隊の……空幕くうばくってトコだよな?」

「う? うん」

「何で航空自衛隊に潜水艦の人が……」

「あっ、そのっ、私、お母さんの様子見てくるっ」


 佳奈は勢いよく立ち上がると、無作法な音を立てながら二階に上がっていった。




「すみません。相変わらず落ち着きがなくて……」


 たまらず大きなため息をつく進司に、裕子は酒を勧めた。そして、ふいに顔を曇らせ、地元訛りを抑えた口調で話しだした。


「進司さん。陽子のことではいろいろご迷惑かけて、ごめんなさいね」

「いえ、そんな、こちらこそ……」

「昨日今日だって、本当なら藍原さんの家のほうにご挨拶に行ってなきゃなんないのに。ずっと高崎こっちにいてもらって、何だか申し訳なくて」

「金沢は陽子には遠すぎます。それにもう、私の実家は長年地元で暮らしている弟にほぼ代替わりしたようなものですから」


 妻とそっくりの八の字眉を悲しそうに寄せる義姉に、進司は寂しげな笑みを返した。


「実のところ、陽子は高崎まで来るのも少し不安がっていたんです。でも、思い切って連れてきて良かった。病気をしてから家にこもりがちだった陽子が、お義母かあさんと正月の買い出しに街中まで出かけて、義兄さんと義姉さんが来る日は何を作るんだと、ずいぶん嬉しそうにしてましてね。昨日は、陽子が言い出してみんなで初詣に行ったんですよ」


「じゃあ、今になってその疲れが出たのかしらね」


「出来ることならこの近くに住んで、陽子が気軽に実家ここと行き来できるようにしてやりたいんですが」


「ありがとう。陽子のこと本当に大事にしてくれて。でも、高崎に住むわけにいかないのは陽子も分かってると思うの。もう埼玉にお家だって建ててるし、進司さんのお仕事もあるんだから……」


 裕子の最後の言葉に、進司はふっと目をそらした。

 奇妙な沈黙が正月の祝い席に満ちる。


 二人のやり取りを黙って聞いていた博之は、すっかり白髪の増えた義弟を窺い見ると、遠慮がちに口を開いた。


「もしここいらへんに住むって話んなったらさ、その、仕事の紹介くらいはできっかもしんねえから……。あ、いや、田舎者のせっちょうやき(節介)思って、聞き流してもらえたらええんだけんど」

「急に何言い出すんさ。気軽に勤め先変えられるわけないがね」

「だから聞き流してくんないって言ってんべ」


 普段の早口に戻った妻を制した博之は、顔を強張らせる進司と目が合うと、「あんまし儲んねえ話ばっかりなんが悲しいトコだけんど」とぎこちなく笑った。


「俺もここいらじゃばかしカオ広いしさ、それに、本家の従兄弟は市議なんかやってっから、その、いろいろとさ」

「義兄さん……」

「あ、ここいらへんは進司さんトコに比べたら土地も安いから、住むトコにはあまり困らんと思うんだよね。探せばスーパーまで歩ってけるトコあるし、タクシーでちっと行きゃあ大きな病院もあっから、陽子さんも安心だんべ? 何かあったら俺も裕子もとんでくしさ、息子どもも市内にいるからちっとは役に立つだんべ。だからさ、もしも気ぃ向いたら……」


 落ち着きなくぐい吞みを弄ぶ夫と言葉なく深々と頭を下げる義弟を見て、裕子はようやく二人のやり取りが意味するところに気付いた。


「進司さん、えらいだったんね。そういえば、陽子が前にちらっと言ってた。進司さん、九州から関東こっちに戻してもらうのに、ずいぶん無理したみたいだって」

「すみません。年明けから不甲斐ない話で」

「そんなことないがね。陽子が元気だったら、進司さんのお仕事も順調だったんだから」


 再び三人の間に沈黙が流れる。隣の部屋でうたた寝をする老父ののんきないびきだけが耳につき、裕子は力が抜けたようにため息をついた。


「もし進司さんたちが高崎こっちに住むことになったら、うちの父母ちちははは間違いなく大喜びだし、私もなっから(とても)嬉しいけんど……」

「進司さんにとっちゃあ、仕事替わるだけじゃなくって、住み慣れた家を手放して知らん土地に移るんかって話になっちゃうもんな」


「家のほうは……」


 言いかけて進司は口を閉じた。血のつながらない二人が揃って心底悲しげな顔をしているのを見ると、彼らをさらに心配させるようなことを話すのはためらわれた。


「あ、いえ、引っ越すのは、私自身は全く構わないんです。高崎には若い頃に四、五年住んだことがありますし」

「お勤め先の高崎支社にいらした時に陽子と出会って、職場結婚したんだもんね」


 裕子が懐かしそうに目を細める。その横で、博之は「そうだったんかい」と大声を出した。

 隣の部屋から意味不明な寝言が聞こえ、それがすぐに気持ちよさそうないびきに戻る。


「おっと、お義父さん起こしちゃうとこだったい。さっきの話、お義父さんの耳に入れるのは、進司さんがいよいよ決心してからにしたほうがよさげだんね」


 苦笑いする義兄に、進司は姿勢を正し改めて頭を下げた。


「本当にこんなにありがたい話はないと思っています。……ただ、佳奈のことを考えると」

「佳奈ちゃんは、やっぱ都会に近いトコに住んでいたいんだろね」

「佳奈は私と陽子のためにいろんな夢を諦めてきました。進学も就職も、私たちに気を遣ったのか、何も相談してくれずに一人で決めてしまって……。でも、幸いなことに、勤め先では人に恵まれて、今は結構楽しくやっているようなんです。高崎こっちに来ることになったら、佳奈も今の仕事を辞めなければならなくなるでしょうから、それが可哀想で」

「そうだいねぇ」


 博之と裕子も再びしおれたように顔を曇らせる。


「新幹線で通うわけにもいかねえだろうしなぁ。佳奈ちゃんだけ東京で一人暮らしってのは、やっぱ、だめなんきゃ?」

「高校を出て働き始めたばかりの給料では、東京ではとてもまともな所には住めないですから……」


 進司は目を伏せ、テーブルの上に置かれたぐい吞みの中でぬるくなっていく吟醸酒をじっと見つめた。


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ちっちゃいけど、お国を守ってるつもりです。 弦巻耀 @TsurumakiYou

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