日本語は難しい(4)


 二年前の夏の終わりにポーランド人青年と出会った川島は、その半年後には、彼の部屋で週の半分を過ごすようになっていた。大使館借り上げのその部屋は都心の一等地にあるマンションの一室で、決して広いとは言えなかったが、川島の独身用官舎よりはるかに立派で、「二人暮らし」を楽しむには十分な大きさだった。

 連休には二人でたびたび小旅行に出かけた。雪国の温泉街で、早咲きの桜の下で、新緑の森の中で、腕を組んで歩き、寄り添ってたくさんの写真を撮った。


 梅雨も終わりにさしかかる頃、ポーランド人青年は二週間ほどの休暇を取って母国に帰省した。

 彼は故郷から、川島の携帯端末にビデオ通話をかけてきた。画面には、彼の他に、豊かな口ひげをたくわえた大柄な男と、かつてはモデルのような美人であっただろうと思わせるふくよかな女性が、並んで映っていた。人懐っこい笑顔で片言のドイツ語を話す彼らは、クリスマスに息子のガールフレンドに会えるのを楽しみにしていると言って、画面越しに川島に手を振った。


 「ガールフレンド」は、いつか「フィアンセ」になるのだろうか。


 ふとそんなことを思った川島は、ようやく重大なことに気付いた。

 元戦車乗りのポーランド人青年は、本国の政府機関から在京大使館に派遣されている身分だ。ゆえに、日本での任期が終われば本国へ帰ることが決まっている。もし彼と結婚すれば、いずれ川島自身も防衛省の職を辞してポーランドに渡ることになるのか――。




「陸幕の仕事もそれなりに気に入ってたし、これまでの生活を全て手放して、言葉もろくに出来ない所で生活するってのは、さすがにすぐには決心つかなくて。駐在員と真面目に付き合えばこうなるのは分かり切ってるのに、私もいいかげん浮ついてたんだよね」


 珍しく自嘲的な言葉をもらす男装の麗人を見ながら、佳奈はカナダに帰省中の背高貴公子のことを思った。

 まだメッセージをやり取りするだけの仲だが、翡翠色の瞳をしたカナダ人と本気で付き合うことになれば、自分もいつか川島と同じような決断を迫られるかもしれない……。


「ポーランドの言葉は、ドイツ語と似てないですカ?」

「かなり違うよ。国は隣同士だけど、ポーランド語とドイツ語って全然違う種類の言葉なんだって。まあ、彼の場合は、四、五年おきにワルシャワと外地の大使館を行ったり来たりすることになってたらしいけど」

「それも、大変デス……」


 黙り込む佳奈の隣で、朴は悲しそうに唇を歪めた。




 結婚を意識し始めた川島は、ポーランド語の勉強を始めた。ポーランド人青年は、嬉々として母国の言葉を川島に教える一方、数年後に現在の職務を終えた後も日本で勤務する道を探りたいと語った。

 本国での出世は望めなくなるけど、と口ごもった彼は、それでも今の幸せを大事にしたいと言って、恥ずかしそうな笑みをこぼした。


 そんな彼が「次の週末は会えない」と言ってきたのは、盆休みが明ける直前のことだった。




「その頃に仕事が忙しくなるって話は前々から聞いてたから、特に何とも思わなかったんだよね」

「週末もお仕事なんて、大使館ではよくあることなんですか」

「本国からVIPが来る時は、主担当の部署は接遇準備でかなりバタバタすると思うよ。ミヨンちゃんトコもそうでしょ」

「そうですネ」




 会えない理由について、ポーランド人青年は、翌月初めに本国から経済視察団が来るからだと説明した。在京大使館の政務経済部に所属する彼は、「一行の受け入れ準備でただでさえ忙しいところへ、秋から日本の大学に留学するポーランド人学生の支援まで頼まれて辟易している」と愚痴ってもいた。

 九月に入って間もなく、ポーランド経済視察団の日本訪問がニュースで小さく報道された。


 ひと仕事を終えたポーランド人青年は、あまり笑わなくなった。休日の外出を厭うようになり、「二人暮らし」の匂いがする部屋にいても落ち着かない様子だった。

 その部屋で共に過ごす時間が毎週末から隔週になり、朝晩が肌寒くなる頃には、ほとんどなくなった。


 彼が心変わりしたのであろうことは、間違いなかった。しかし、川島にはさっぱり心当りがなかった。メッセージを送って探りを入れたが、先方は、相変わらず仕事が忙しいなどと取り留めのない言葉を返してくるばかりで、真意を語ろうとはしなかった。


 東京のイチョウ並木が美しく紅葉し始めた頃、ポーランド大使館で独立記念日のレセプションが行われた。一年前に彼と想いを確かめ合うきっかけとなった場所へ、川島は陸上幕僚長夫人付通訳として赴いた。


 華やかなレセプション会場には、妖精のように可憐な若い東欧人女性をエスコートするポーランド人青年がいた。

 彼は、川島の姿を認めると、女の手を引いて逃げるように人混みの中に消えていった。


 怒りを抑えて任務を全うした川島は、その日の夜中にポーランド人青年に電話を入れ、コトの次第を問い詰めた。




「その東欧人のコ、お父さんが本国の政府高官っていうお嬢様でさ。そのお嬢様が日本に留学することになったから現地で面倒見てくれる人がいないかって在京大使館に内々に要請が来て、それで彼が子守役に選ばれたんだって。で、出迎えとか荷物運びとかで顔合わせてるうちに、お嬢様に気に入られたんだろね。彼、超イケメンだし」


 一気にしゃべった川島は、ウォッカのグラスをあおるように空け、大きく息をついた。


「気に入られたら、ノーとは言えないのデスカっ?」

「って言うより、彼もその子が気に入ったんだよ。中身どんな人か知らないけど、パッと見、すごく可愛かったし。それに、政府高官の娘だから、その子と結婚すれば出世間違いなし。異国の庶民の私なんか、話になんないよ」

「そんな、정말チョンマル 너무해ノムヘ! 절대チョルテ 용서ヨンソ 못해요モッテヨ...!」


 朴は両手でテーブルを叩いた。周囲の客たちが驚いて女三人の集うテーブルを凝視する。

 母国語で怒る友人をなんとか押しとどめた佳奈は、沸き起こる不快な感情に涙ぐんだ。


「男の人って、……そんな理由で好きな人をすぐに変えられるものなんですか。たった二か月か三か月で、それまで好きだった人を、好きじゃなくなってしまうんですか」

「彼の場合は、そのお嬢様の父親と直接顔を合わせたのが決定的だったんだと思う」

「顔?」

「例の経済視察団の団長ってのが、そのお嬢様のお父さんで。彼、きっと父親ウケ良かったんだろうね。そのオヤジから面と向かって『娘をよろしく』って言われたんだって。そこまで状況が揃っちゃったら、もうこっちには勝ち目ないよ」


 感情を抑えた口調が、ますます佳奈の胸を締め付ける。


「でも、そんなの、悔しくないですか!」

「そりゃあね、その時はめちゃくちゃショックだった……」




 以来、ポーランド人青年は、電話にもメッセージにも反応しなくなった。突然独りになった川島は、落ち葉が舞うのをぼんやりと眺め、軽薄なクリスマスソングが流れる街を呆然と歩いた。


 仕事納めの日、川島の所属する課では賑々しい納会が行われた。他の部署から挨拶回りに来る人間も多く、さほど広くない事務所は酒好きな男共で延々と盛り上がった。その中には、防衛情報本部渉外班で先任を務める追立もいた。



「追立2佐が……?」

「うん。挨拶がてら古巣に飲みに来ました、ってノリで。あの人、私が入省した時に同じ課にいたんだよ。当時は3佐で、大人しいシェパード犬みたいなキャラだったんだけどね」


 川島は、怒り冷めやらぬ朴と半泣きの佳奈をなだめるかのように、肩をすくめて笑ってみせた。


「私、職場の飲み会は嫌いじゃないけど、その時ばかりは、ホントに情けなくなっちゃって」

「芳実サン、カワイソウ」

「予定では、クリスマスをポーランドで過ごして、そのまま大晦日のカウントダウンまで彼と一緒にいるはずだったのに、なんで市ヶ谷で昼からオヤジ共と安酒飲むことになっちゃったんだろうって思ったら、だんだん腹立ってきて」

「そうですよね」

「もうやけ酒気分でガンガン飲んじゃって」

「分かル」

「そしたら、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいでさー。私、全然覚えてないんだけど、何かわあわあ騒いで、近くにいた追立2佐の首絞めてたらしいんだよね」

「へ?」




 身長170cm近い川島が追立と乱闘を演じていたところに、不運にも、桜星を二つ付けた指揮通信システム・情報部長が通りかかった。面白半分に仲裁に入ってきた将官に、すっかり川島は、鬱積していた思いを洗いざらいぶちまけてしまった。

 彼女の直属の上司である武官業務班長はじめ場にいた一同が顔面蒼白でひきつる中、面倒見のいい部長は酔っ払い女の愚痴を一通り聞き、そして、激怒した。




「国防武官に文句言ってやるって息巻いてたらしくて。その時私は完全に記憶飛んでたから、後から追立2佐に聞いた話なんだけど」

「部長サン、カレじゃなくて武官に怒ったのですカ。浮気者を芳実サンに紹介したカラ?」

「部長には私と同い年の独身の娘さんがいるらしくて、だからヒトゴトじゃなかったのかも。で、今年に入って新年懇親会かなんかのレセプションがあった時に、その部長が会場でポーランド武官と顔合わせて、そこで嫌味の一つも言ったらしいんだよね……」




 件のポーランド国防武官は大佐の階級にあった。一方、陸上幕僚監部の部長職は陸軍少将に相当する陸将補が務めている。

 赴任先の軍の高級幹部から小言をもらったのが相当にショックだったのかは定かではないが、それから間もなくして、ポーランド武官は突然、本国に帰国してしまった。




「元々その武官はあと二か月ちょっとで離任っていう時期だったんだけど、でも、いきなり体調不良とか訳分かんない理由で引き継ぎもなしで帰国しちゃうんだよ。誰が見たってヘンだっての。おかげでこっちは、『国防武官を国外追放にした女』とか言われて、駐在武官たちにはすっかり怖がられちゃうし、追立2佐には今でもいじられるし、ホント最悪だよ」

「……」

「ミヨンちゃんも藍原さんも気を付けて。男は戦車と違って裏切るから」


 川島は鼻から大きく息を吐いた。そして、目を大きく見開いたまま身じろぎもしない二人に「ちょっと失礼」と言って、ゆらりと立ち上がった。


 手洗いのある方へ歩いていく男装の麗人を見やりながら、朴は緊張で強張っていた口をゆっくりと動かした。


「佳奈サン……。さっきのは、日本のことわざデスカ?」

「えっ?」

「『男は戦車と違って裏切る』っていう」

「それは違うよ。……たぶん」


 戦車を引き合いに出した川島の心情は理解できないでもなかったが、戦車や飛行機に全く興味なさげな朴にそれを説明するのはかなり難しいような気がして、佳奈はぐったりと脱力した。



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