日本語は難しい(3)


「コトの始まりは一昨年の……あ、何か飲まない?」


 川島は、中身の少なくなった二つのグラスを見やり、メニューを広げた。


「え、えと、……烏龍茶」

「ワタシも」


「二人とももうお茶? 私、もうちょっと飲んでいいかなあ」


 寂しげにも見える笑みを浮かべた川島に、佳奈と朴は引きつった顔でこくこくとうなずいた。男装の麗人の失恋話は、シラフではとても語れない類のものなのか……。


 しかし、当の川島は、クールな表情のまま、傍を通りかかった若い男性店員を呼び止めた。


「すいません。烏龍茶二つと、ウオッカをひとつ」

「ウオッカは水割りとロックとありますけど、どちらに……」

「ストレートがいいんだけど、できます?」


 物憂げに問う中性的な顔立ちの客に、大学生らしい男性店員は「たぶん……」と蚊の鳴くような声で応えると、逃げるように厨房に入ってしまった。

 佳奈と朴は無意識のうちに互いに身を寄せ合った。



「二年前の夏の……終わりだったかな。ポーランド人の男と知り合ってさ」

폴란드ポルランドゥ?」


 出だしからグローバルな話に、朴が遠慮がちに好奇心を見せる。


「在京大使館の政務経済部にいた人なんだ」

「武官室ではないのですカ。どういうきっかけで出会ったのデスカ?」

「それが、きっかけは武官業務班うちの前の班長なんだ。強面だけど、お人よしなトコあって」


 川島は頬杖をつくと、残り少なくなったポテトフライをつまんだ。


「私の職場は何か酒好きが多くてさ。その当時もみんなでしょっちゅう飲みに行って、何でもベラベラ喋ってたんだ。私もよく相談にのってもらったりして」

「同じ武官業務班でも、陸と空ではずいぶん違うんですね」

「ランちゃんのトコは、今ちょっとね。陸か空かっていうよりは、班長個人の問題だと思う。職場の雰囲気なんて管理者次第だから」

「そうなんですか……」

「でも、私のトコは仲良い分、みんな遠慮なかったよ。『彼氏いないのか』とか平気で聞いてくるし」


 佳奈は思わず眉をひそめた。フグ顔の1等海佐が率いる渉外班でそのテの不躾な質問をされたことはまだないが、もし職場でそんな話題が出た時はどう受け流せばいいのだろう。


「ま、彼氏いたら延々自慢してやるトコだけど。その時はフリーだったから、『仕事が忙しくて独身男性と出会う暇がありませーん』って言ったの」

「はあ」

「そしたら班長、すごく悲しそうな顔になっちゃって。ちょっと返しがキツかったかなーと思って、『班長の人脈で超イケメンのエリート紹介してくださいよ〜』って言ったら、班長、真に受けちゃったみたいでさ……」



 責任感の強い武官業務班長は、善は急げとばかりに、早速、周囲に相談した。話はすぐに彼の上司である課長へ、やがては、桜星を二つ付ける陸上幕僚監部指揮通信システム・情報部長にまで伝わってしまった。

 社交的でノリのよかったりく将補しょうほ(陸軍少将に相当)は、入省当時から優秀と評判だった川島のために、行く先々で「顔のいいエリートでそれなりの年齢の独身男はいないか」と尋ね回った。その探索の範囲は、部内の知り合いにとどまらず、仕事上の関わりが深かった在京大使館付武官たちにまで及んでいたらしい。



「で、一昨年の夏の終わりに、その部長がね、どこかの大使館のレセプションに行くから通訳で一緒に来いって、私に言ってくるわけ。部長は英語ベラベラなのになんでだろうと思ったら……」



 形ばかりの通訳要員として川島が部長と共にレセプション会場に入ると、ポーランドの国防武官が声をかけてきた。海軍の真っ白い夏服を着た彼は、したり顔の陸将補にひそひそと耳打ちし、後ろに佇んでいた背の高い背広を川島に紹介した。




「それが、ホントに信じられない超イケメンで」

「ええっ!」


 佳奈と朴は反射的に目を輝かせた。


「信じられないって、どんな感じなんですか」

「何て言ったらいいかな。写真があれば良かったんだけど」

「写真、撮らなかったデスカ?」

「たくさん撮ったよ。でも、……全部、消しちゃった」


 いつもは凛々しい男装の麗人に憂いの表情が浮かぶ。佳奈はピクリと震え、朴は口を開けたまま硬直した。

 二人が場を取り繕う言葉を探していると、先ほどと同じ男性店員が四つのグラスをトレイに乗せてやって来た。


「お待たせしました。烏龍茶二つとウオッカと、あと……」

「おや? お気遣いありがとう」


 川島は、店員を見上げ、神秘的な微笑みを浮かべた。佳奈と同い年くらいと思しき若い彼は、わずかに顔を赤らめて口ごもると、小学生のようにペコリと頭を下げて去っていった。


が相手なら楽なんだけどね」

「ポーランドのカレはイケメンすぎて大変だったのデスカ?」

「ただのイケメンだったら、私ももう少し冷静だったと思う。でもね」


 川島は、強烈なアルコールを一口飲むと、切れ長の目をカッと見開いた。


「彼、元は軍人で、戦車乗りだったんだよ」


「へ?」

「セン……, 전차チョンチャ


「しかも、レオパルト戦車だよ! 私も知らなかったんだけど、ポーランド軍もレオパルト持ってて、彼、レオパルト部隊の小隊長やってたって言うんだよ!」




 父親の仕事の都合で子供時代をドイツで過ごした川島は、陸軍記念日のイベントでドイツ陸軍の主力戦車レオパルトを間近に見たのがきっかけで、戦車乗りになる夢を抱いた。

 日本に帰国し有名大学に進学した後も、レオパルト戦車の重厚な美しさが忘れられず、ついには陸上自衛官になって戦車に乗る道を目指そうと決意した。しかし、幹部候補生学校の選抜試験を受ける直前、女性自衛官の戦車部隊への配置はないという無情な現実を知り、長年の夢は憧れのまま終わった。


 川島がそんな話をすると、ポーランド人青年は心底嬉しそうに顔を綻ばせ、背広姿でピシッと挙手の敬礼をしてみせた。




「超イケメンで外交官でしかも戦車乗りの経歴アリなんて、私的にはもう完璧で」

「はあ……」

「それに彼は、ポーランドでもドイツ国境に近いトコの出身だったから、ドイツ語も母国語みたいに話せる人でね。私も、英語よりはドイツ語のほうが楽だから……」




 言葉の壁もほとんどなかった二人はすぐに打ち解け、その場で連絡先を交換した。メッセージを何度かやり取りし、やがて、ときどき週末に会うようになった。

 しかし、紳士的なポーランド人青年は、川島に甘い言葉をささやくこともなければ、手を繋ごうともしなかった。




「戦車ネタをいっぱい話してくれるのは良かったんだけど、二か月たっても友達同士みたいな雰囲気でさ。私は女としては見てもらえないのかなって思ったら、何だか焦っちゃって」

「それが、カレの作戦だったのデスカ?」


 朴が恐る恐る尋ねると、川島はわずかに気恥ずかしげな笑みを浮かべて首を横に振った。


「それがねー。ポーランド大使館で独立記念日のレセプションがあった時に、幕長ばくちょう(陸上幕僚長)夫人の通訳で入ったら、会場で彼を見つけて」

「お仕事中じゃ、どうしようもないですよね」

「仕方ないから、こっそり彼に手を振ったの。そしたら、奥様に見つかっちゃって、『私のほうはいいから彼と話してらっしゃい』って言われちゃってさー。何かいろいろバレバレで」

「それじゃ、……陸幕りくばく長にも知られてたってことですか?」


 佳奈は目をしばたたかせ、苦笑いする川島を唖然と見つめた。




 陸上自衛隊トップからの「公認」を得ていたらしい川島は、陸幕長夫人の心遣いにより通訳の任を解かれ、レセプション会場でポーランド人青年と立食式のディナーを楽しんだ。

 大使館の行事が終わった後は、二人連れだって夜の街に出た。すでにアルコールが入っていたせいか、互いに臆せず心の内をさらけ出して語り合った。




「その時に初めて、彼がかなりシャイな性格だってことが分かって。超イケメンのくせに可笑しいでしょ。それに彼、『日本の女の子は保守的』って先入観持ってたみたいで、すぐにハグとかキスとかしたら嫌われると思ってたんだって」

「手を繋がなかったのは作戦じゃなかったのですネ」


 朴は頰に両手を当て、へにゃへにゃと笑った。


「イケメン男なのに、可愛いデス〜」

「まあね。でも奥手な男ってズルいと思わない? こっちからキスを誘うの待ってんだよ」

「誘うって、どうやって誘うんですか?」


 揃って身を乗り出す二人に、川島はいたずらっぽく目を細めた。


「その時はね、彼の言葉を拝借して、『日本の女の子は確かに保守的だから、自分から好きな相手にキスしてなんて、なかなか言えないんだよね』って言ってみた」


너무ノム 너무ノム 멋져요モッチョヨ~(素敵すぎる)!」

「ドラマみたい……!」


「ドラマだったらそこでキスシーンだよね」


「き、キス、したですカっ!」


「それがさー。彼、『僕は、人の目があるところで大切な人にキスするのを戸惑うくらいにはシャイなんだ』なーんてうまいこと返してきてさ……」


 急に言葉を途切れされた川島は、再びウオッカのグラスに手を伸ばした。一口飲み静かに息を吐く姿が、にわかに艶やかな色香を帯びる。

 その一連の仕草を見つめていた朴の顔から、浮ついた笑顔がすうっと消えた。


「……やっぱり、カレの作戦勝ちだっタのでは」

「うーん、ミヨンちゃんもそう思う?」

「シャイなフリして、芳実サンを陥れた感じがスル」

「まあ私も、その時は、いいかなって……」


 川島が口元にわずかな笑みを浮かべるのを、佳奈は不思議そうに見つめ、数秒してようやく朴の言う「作戦」の意味に思い至った。途端に顔全体が熱くなった。


「え、あの、でも……」

「あは、ゴメンね。変な話になっちゃった」


 佳奈より七歳ほど年上の先輩は、ウオッカをテーブルに戻すと、グラスの縁を愛おしそうに撫でた。




 川島とポーランド人青年が互いの気持ちを確かめ合ってから半月も経つと、世の中はクリスマス一色になった。イブの夜、仕事帰りに落ち合った二人は、レストランで贅沢な時間を過ごし、イルミネーションに彩られた街を眺めて歩いた。

 デートスポットとして有名な高層ビルの展望台に行くと、どこまでも広がる大都会の街灯りが、漆黒の大海に散らばる無数の宝石のように見えた。カップルでざわめく空間で、ポーランド人青年は恥ずかしそうに川島を抱き寄せた。そして、耳元で囁くように言った。


 来年のクリスマスは、一緒にポーランドに行かないか? 僕の故郷のクリスマスはトウキョウほど派手じゃないけど、素朴でとても綺麗だから、ぜひヨシミに見せたいんだ――




「それって、その……」

프로포즈プロポジュ!」


「どーかな。そこまでの意味はなかったと思うけど、もしそうだったら、……許せないよ」


 にわかに声のトーンを落とした男装の麗人から、見えるはずのない怒気が立ち昇った。話の結末がバッドエンドであることをすっかり忘れていた佳奈と朴は、椅子ごと飛び上がりそうな勢いで震え上がった。


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