羽化とプリズム

ららしま ゆか

羽化とプリズム

 また今日も来てる。


 毎週土曜日、ランチタイムの客が帰り店内が落ち着きを取り戻す頃。そのひとは決まって陽当たりのよい窓際の席に着き、決まってレモンパイとブレンドを注文する。そして決まって、レモンパイを食べるとき、美味しくなさそうな表情かおをする。

 そのひとのことを聞いたのは三週間前、ちょうど今くらいの時間だったと思う。キッチン係の先輩は苦々しい顔で言った。

 ――僕の自慢のレモンパイを不味そうに食う女が居る。

 なんでもそのひとは、俺がこの喫茶店でバイトを始める前からの常連なのだそうだ。毎週決まった席で決まってレモンパイを頼み、そしてそれを決まって不味そうに食べる女性。先輩は不味いなら注文するしなきゃいいのにと小鼻を膨らませ、同時に何故毎度あの席であの注文なのかと不思議がっていた。俺だって気になる。

 彼女のことを認識してから三度目の来店。

 俺はお冷やとおしぼりを彼女の居るテーブル席へと持って行った。


「レモンパイとブレンド、お願いします」

 予想していた通り、彼女はいつもと同じ注文をした。

 キッチンにオーダーを通すと、先輩は眉根を寄せてまたかと言った。テーブルから下げる皿もなく帰る客も居ないので、レジの横で店内を見渡しながらパイとブレンドを待つことにする。

 先輩のレモンパイはうちの人気メニューで、この時間にはよく注文が入るしテイクアウトしていく客も居る。女性客の大半が頼むこのパイが、俺は実はあんまり好きではなかった。

 レモン“パイ”という名前だけれど、その見た目はパイというよりタルトに近い。

 さくさくのパイ生地にずっしりとしたレモンカード――レモンの果汁と皮を煮詰めて作った濃厚なクリームだ――、つんつんと角の立ったメレンゲ。八ピースに切り分けられたその断面は、黄色と白の二層が眩しい。ショートケーキのいちごの位置には、王冠の形をしたレモンの皮の砂糖漬けがちょこんと座っている。

 パイの味を決めるレモンカードは、カスタードクリームのような見た目に反して甘くない。寧ろ酸っぱくて苦いのだ。砂糖だって入っているのだけれど、レモン果汁の酸味と皮の苦味が凝縮されていて、甘味よりも勝っている。そうとも知らずに甘いと思い込んで食べたものだから、予想を裏切る味に衝撃を受けてしまったのだった。

 しばらくして、カウンターの上にパイとブレンドが置かれた。むすりとした顔の先輩が、ホールを一瞥して再び厨房の奥へと引っ込む。いけ好かないわりに気にはなっているらしい。俺はトレーにパイとブレンドを載せて、彼女の待つテーブル席へと向かった。


 彼女は本を読むでもスマホを触るでもなく、ただぼうっと窓の外を眺めていた。テーブルの上で組まれた手は、力が入っているのか指先が少し白くなっている。

「お待たせ致しました。レモンパイとホットのブレンドコーヒーです」

 声を掛けるまで気が付かなかったのか、彼女はびくりと肩を揺らし、驚いた様子で俺を見上げた。彼女の顔を正面から見たのは初めてだ。

 印象の薄い容貌かおだった。

 蒼ざめたようにも見える白い肌。厚い瞼をした目はなんだか眠そうで、唇の脇にある小さなほくろがちょっとだけ色っぽい。服も化粧も落ち着いているから大人びて見えるけれど、実際は俺と二三個しか違わないように思う。そこそこの美人のはずなのにそんな感じがしないのは、前髪が作る影のせいだろうか。

 テーブルの上にパイとブレンドを並べ、伝票を置いて一礼。俺が顔を上げたとき、彼女の視線は既にカップの中へと落とされていた。

 席から下がり、少し離れた場所からこっそり彼女を見る。レモンパイを食べる彼女は、俺の目には何処か寂しそうに映った。


 ⊿


「それ、美味しくないですか」

 氷が溶けて少し温くなったお冷やを新しいグラスと取り替えながら、俺は訊いた。ひとくちサイズに切り分けられたレモンパイが刺さったままのフォークが皿のふちに着地する。柄に添えられた指先はモノクロに見えた。

 彼女は飲み込んだ空気の塊を解放するように、深くて長い息を吐いた。そして、

「美味しいですよ」

 困ったような、苦しいような、ぎこちない微笑みだった。

「そうですか。なんかあんまり美味しくなさそうに食べてるように見えたんで。……気に障ったらすみません」

 彼女の強張っていた表情が一瞬和らぐ。口許をふっと緩め、彼女は小さく首を振った。

「いいんです。よく言われます、似たようなこと。一緒に居てもいつもつまらなさそうにしてるとか、なに考えてるのかわからないとか」

 なんとなくわかる気がする。

 終始俯きがちで、声のトーンが暗い。感情を表に出すより抑え込んでしまうタイプなのだろう。

「でも毎週食べるくらい気に入ってくれてるんスね。ありがとうございます」

「勿論それもあります」

 彼女の表情が再び曇る。


「――私、失恋したんです」


 絞り出すような声だった。

「彼と付き合っていたとき、いつもふたりでこのパイを食べていたんです。それが忘れられなくて」

 忘れられないのは、きっとレモンパイの味じゃない。そんなこと、俺にでもわかる。

 きっと、思い出に浸っていないと辛いのだ。

 痛みを抱えていると辛い。けれど、手放そうとするともっと辛い。だから手放さずに、否、手放せずに、ずっと抱えたままで居る。


 ――好き、だったんだなぁ。本当に。


 レモンパイを食べる彼女は、やっぱり寂しそうだった。


 ⊿


 次の週も、その次の週も、彼女はレモンパイを注文した。

 影になった目許、伏せた睫毛。彼女の寂しそうな横顔を見るたびにイライラが募る。

 空いた皿をカウンターに置く仕草がつい雑になって、重ねた皿ががちゃんと派手な音を立てた。すかさず額を叩かれ、視線を上げると眉をしかめた先輩が居た。左手には出来立てのナポリタンがある。

「お前さぁ、」

 小言を言われると身構えたが、後に続く言葉は予想していたものとは違っていた。

「――やっぱりいい。そういうのは自分で気付いてこそだよ」

 なんのことを言われたかわからず固まっていると、今度は額を弾かれた。

「五番テーブル。とっとと持ってけ」

 先輩は湯気が昇る皿をカウンターに置き、さっさと厨房へと戻ってしまった。もやもやとした気持ちのまま皿に手を伸ばす。

 五番テーブル。彼女の居る席の隣だ。

 ぎくりとした。

 平静を装って、五番テーブルへ歩み寄る。

 一歩、二歩。

 近付くにつれて、胸がひりつくのを感じる。後ろめたさにも似た痛みは、吐き出す息も重くする。

 たった十数メートルが、気が遠くなるほどの距離に思えた。

 やっと辿り着いたテーブルの横に立ち、お決まりの台詞を口にする。

「お待たせ致しました。スパゲティーナポリタンでございます。ごゆっくりお召し上がりください」

 礼をして、すぐに下がろう。そう思っていたはずなのに、目は勝手に彼女を追っていた。

 そのとき、視界に飛び込んできたのは。


 いつもより丸まった背中。

 肩から滑り下りた髪が項垂れた彼女の横顔を隠している。

 テーブルの端に添えられた手は蒼白く、細い指は色彩をなくしていて、まるでマネキンのよう。

 マネキンの手の甲の上には、真新しい水玉がひとつ、ふたつ。


 泣いている。


 何故だか無性に腹が立った。

 彼女を可哀想だと憐れむより先に、彼女を泣かせている見知らぬ“彼”に対して怒りが込み上げる。

 どうして。

 ……どうして、

 そして、気付く。


 初恋はレモンの味がするらしい。

 きっと、叶わないからほろ苦い味がするのだろう。不意に懐かしくなる酸っぱさも。

 いつかの失恋を思い出すためのレモン味なんて、俺は、


 ――俺なら、嫌だ。


 カウンターまで戻った俺は、厨房の奥に向かって声を張った。先輩。

「あれ、まだありますか」

「お前のお気に入りならあるよ」

 カップにブレンドを注ぎながら先輩は言った。こちらを見ようともしない。

「お願いなんスけど、」

「貸しみっつ」

「……そんでもいいです」

 先輩は視線だけを俺に向け、息だけで笑った。

「わかった。出せばいいんだな?」

「お願いします」

 間もなく差し出された皿の上には。



「そろそろ上書きしませんか」

 ブレンドをテーブルに置きながら、俺は言った。祈るように発した声は思っていたより低く掠れていた。

 眠そうな目を見開いた彼女がまっすぐに俺を見上げる。強く擦ったのか、化粧の滲んだ目尻は赤くなってしまっている。

「レモンパイ、こないだまた食べてみたけど、酸っぱいし苦いし、大人の味っていうか……俺、やっぱりあんまり好きじゃないです」

 彼女は口を半開きにして、瞬きを繰り返した。

 当然だ。たった数回しか口を利いていない奴にこんなことを言われれば誰だって面食らう。

 きょとんとしたままの彼女の前に、俺はデザート皿を置いた。

 皿の上にいつものレモンパイはない。

 代わりに載っているのは、小振りなデニッシュひとつ。

 艶のある丸いデニッシュ生地の中央で、潤んだように光る四粒のダークチェリー。それを縁取るように真っ白いグレーズが円を画いている。

「ダークチェリーのペストリー。これ、俺のお気に入りなんス」

 俺を選んでくれなんて、言わないし言えない。言う資格もない。

 それでもいい。

 ほんの少しの間だけでいいから、思い出に浸らないで。


 小さな手が、躊躇いがちにペストリーに伸びる。

 細くて白い指がそっとデニッシュ生地に触れた。

 壊れ物を扱うように優しく持ち上げて、ゆっくりと口許へ運ぶ。

 そして、ひとくち。

 さくり。

 砕けたグレーズのひとかけらが皿の上に跳ねる。

 さくり。

 ダークチェリーのシロップが唇を濡らす。

 さくり。

 つぷりと弾ける果肉。

 さくり。

 下唇に付いたカスタードクリームを拭って、指先を吸う。

 そうしてまた、ペストリーを齧る。


 彼女は黙々とペストリーを食べた。


 まとわりつくものを振り払うかのように、彼女はひたすら口を動かした。彼女の喉が動くたび、彼女を苦しめる思い出が少しずつほどけていくように見えるのは、俺の願望のせいだろうか。


 欠けた月の形になったペストリーを皿の上に置き、彼女は言った。


「――美味しいです」


 初めて見た彼女の笑顔は、今までに見たどんなものより美しかった。

 目尻から零れる涙の粒を、俺は見ないふりをした。



 《了》

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