受付にて

 杉間は昼間歩いたのと同じ道を、猛然と駆けていた。インフォメーションには、売店を過ぎてそのまま真っ直ぐ進めば、受付窓口のある出入口だと書かれていたのを覚えていたからだ。相変わらず人気はないので、誰かに見咎められることもなかった。エレベーターに乗り込む前、ちらりとナースステーションを見てみたが、中はもぬけの空だった。


 誰もいないなら、好都合だろうか? でももし、ばったり出くわしたら、言い訳はどうする? ずきずきと痛む頭をおさえ、あがった呼吸を整えながら、エレベーターの中で杉間はぼんやりと考えた。この扉が開いた瞬間、目の前にあの看護師がいたら? ――幸い、その妄想は現実にはならなかった。


 しかしながら、杉間がエレベーターから飛び出したそのとき、急にすべての電気が消え、かわりに非常灯が灯った。消灯時間になったのだ。心もとない明かりの中を、ふくらんでいく不安と共に走る。昼間目指していたコンビニエンスストアには格子状のシャッターがかけられ、もはや人の気配はない。


 いや、そもそも、この病院に自分以外の人間などいたのだろうか? 医者も、看護師も、患者も、本当は人間などいなかったのではないだろうか? むくむくとわきあがってきた思考と、吐き気にも似た悪感情を押し込め、杉間は走った。


 誰もいないのに明かりの灯っている夜間受付窓口を通り過ぎて、入り口のガラス扉に手をかける。しかし、扉は押しても引いてもがたがたと音を立てるばかりで、びくともしなかった。懸命に力をこめる杉間の額には汗の玉が浮かんでいる。


 どこか遠くから、コツン、コツン、と足音がした。杉間は振り向かずに、ガラス扉に体当たりを続ける。やがて押し破るのが不可能だと悟ると、非常口の誘導灯を頼りに、別の出口を探して駆け出した。


 杉間の後を追うように、コツン、コツン、と足音は近づいてくる。関係者出入り口らしい扉もまったく開く気配がなかった。正面入り口の大扉は――やはりびくともしない。頭がおかしくなりそうだった。


「誰か!!」


 たまらず叫んだとき、足音が止んだ。暗闇の中、ガラス扉が鏡のように、杉間の顔と普段通りに微笑みながらたたずむ那須の姿を映していた。


「ね、杉間さん、鵺ってご存知です?」


 唐突に、那須が口を開いた。ぬえ、たしか、西洋で言う合成獣キメラのような生き物。虎と、蛇と……何だったか、何かの合わさった妖怪だ。そういえば、彼女の右腕も虎のそれだった、と杉間は思った。では彼女は、その鵺なのだろうか。


「サルと、タヌキと、トラと、ヘビと、いろんなものが混ざってできた妖怪ですよ。ここはね、病院なんです」


 那須の人間のほうの冷たい指先が、優しく杉間の頬をなでた。とたんに、杉間の背筋に悪寒が走り、総毛立つ。那須は杉間の耳に顔を近づけて、ささやくように言った。


「ね、ヒトとフルーツの因子をくっつけたら、どうなると思います?」


 それはつまり、人間と果物の鵺を作るという意味だろうか? 考えたくもなかった。だがきっと、ちょうど彼女が言っていた、ミカンブリのようになるのだろう。


「とってもおいしくなると思いません?」


 こみあげてくる吐き気にも似た恐怖をこらえ、杉間は那須の腕を振り払って駆け出した。数歩もいかないうちに、うまく力が入らずに、足がもつれて転んだ。それでも何とか立ち上がると、後ろを振り返らずに無我夢中で走った。息ができなくなるほどにまで。


「大丈夫ですよ、杉間さん」


 暗闇の中、優しい声が響いた。杉間にはもう、どこをどう走っているのかもわからなかった。ただ己の本能に従って、彼女から逃げているにすぎない。体中を汗が伝い、心臓は痛いほど早鐘を打っている。少しでも新鮮な酸素を取り入れようと、ぜいぜいと肺が動く。


「あなたもね、鵺なんですから。それはもう、いろんなものが混ざっている、私たちの仲間ですよ」


 自分が鵺だとしたら、それはいつからだったのか? そもそも、自分は本当に人間だったのか? そんなことを考える余裕は、もうなかった。真っ白になった頭は、ただ体だけを突き動かした。

 しかしなにぶん、普段ほとんど動かしていなかった体だ。全力疾走を続けた報いはまず足に来て、杉間は無様に床につんのめった。顔を殴打して気を失いかけたが――おそらく不幸なことに、彼ははいつくばったまま、まだ意識を保っていた。コツン、コツン、と足音が聞こえた。


「――食用の、ですけど」


 那須は無感動な声と共に、異常なまでの怪力で杉間を押さえつけた。もはや杉間の頭の中は恐怖で塗りつぶされて、呼吸すらままならない。ただ首筋に鋭い痛みがあったかと思うと、たちまち杉間の意識は暗い闇の底へ沈んで、そのまま目覚めることはなかった。

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隙間病院 ペグペグ @pegupegu

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