相部屋にて
めまいのような感覚に襲われて、杉間は倒れそうになったが、なんとか壁に手をついて体を支えた。ぐらぐらと、世界のすべてが揺れている。割れるように頭が痛かった。もはや時間を潰すことなどどうでもいい、と思った。何度か深く息を吸っては吐く。そろそろと様子を探ってみたが、那須の姿はすでになかった。
不思議と、助かった、と思えた。見つかったらまずかっただろうか? 正直なところ、わからなかった。奇妙な右腕を持った看護師と、空の車椅子、やけに人の少ない病院。これがホラー映画だったのなら、「見たわね」とでも言われて、何かいかがわしい実験でもされていたかもしれない。しかし、これは現実だ。
だが、ここに入院するはめになってから、ずっとふわふわと落ち着かない気分でいるもの事実ではあった。もしかしたら自分は、長い夢を見ているだけかもしれない。ためしに頬をつねってみたが、やはり痛かった。
いろいろなことが思い出せないでいるのも、なんとなく落ち着かない原因かもしれない。病は気から、とも言う。考えてもしかたがないと楽観視していたが、もう一度検査をしてもらうか……そう思って、杉間はおぼつかない足取りでもと来た道を戻った。
病室は相変わらず耳が痛いほど静かで、物音ひとつしない。先ほど出歩いていたときは、自分以外の患者などいるのだろうか、といぶかしく思うほど、医者にも看護師にも患者にも出くわさなかった。それが余計に杉間を不安にさせた。彼はベッドにもぐりこむと顔まで布団を引き上げて、努めて何も考えないようにしながら夕食の時間を待った。
定刻通りに食事を運んできた那須は、当然ながら普段と変わらぬ様子で、手際よく配膳を済ませた。何もかもが思い過ごしなら、それでいい。杉間は深く息を吸うと、意を決して口を開いた。
「あの、那須さん」
「杉間さん、どうかなさいました?」
にっこりと微笑む那須を見ていると、なんとなく、すべてがうやむやになってしまってもいい、とさえ思えてくる。しかし、自分の体のことはそういうわけにもいかないだろう。退院してからも症状が残るようでは、まともに仕事に復帰することだって難しくなってしまう。
「その、検査では、異常なし、と言われたんですが……記憶が」
しどろもどろに話す杉間を、那須は神妙な面持ちで見つめている。杉間はしぼりだすように言葉を継いだ。
「思い出せないことが多くてですね。つまり、入院する前、好きだったものとか、知り合いの顔とか……そういうものが、何も思い出せないんです」
那須は「まあ」と声をあげると、何度か鷹揚にうなずいて、やがて言い聞かせるようにこう言った。
「ええ、きっと定着があまりうまくいっていなかったんですね。主治医に話しておきますから、今日はゆっくり休んでください」
定着、とは何のことだろうか。新たに生まれた疑問を差し挟む暇もなく、那須は慌しく病室を去っていく。杉間はしかたなく、机の上に置かれた夕食に手をつけた。
夕食後は程なく消灯となる。消灯後は出歩くわけにはいかないから、どちらにせよ延々と眠り続けるしかない。おとなしく明日の沙汰を待とう、と考えていた杉間だったが、トイレをすませてぐるりと病室を見渡したとき、ふつふつと好奇心がわいてきた。
つまり、自分以外の患者がこの病室にいるのか、いるとすれば、この病院をどう思っているのか、という好奇心だ。案外自分と同じような病状の者もいるかもしれない。そうすればまだ、安心できる。
気まぐれな思いつきを実行するため、杉間はすべるように移動すると、まずは自分の向かいのベッドにある仕切りをそっと引き開けた。ここは、空である。続いて、その隣――瞬間、彼の目に入ってきたのはあまりにも予想外のもので、杉間はしばらくその場に立ち尽くした。
目の前の光景をうまく咀嚼できず、彼はカーテンを元に戻すのも、こそこそ動き回るのも忘れて、震える腕で病室中の仕切りを乱暴に開けて回った。卒倒してしまえたら楽だったかもしれないが、あいにくそうもいかなかった。乱れた呼吸を深呼吸で整え、杉間はもう一度、目の前の光景を直視した。
ベッドに寝かされていたのは、人間ですらなかった。自分以外の四つのベッド。そこにいたのは、いや、あったのは、ただの果物だった。バナナ、パイナップル、リンゴ、マスカット――意味がわからない。
ふと、さっき出歩いたとき、那須が口にしていた言葉が、杉間の脳裏にフラッシュバックした。たしか、魚に果物を食べさせると、生臭くなくなる、だったか。
ぞわぞわと、鳥肌が立つのがわかった。あの右腕がバケモノの奇妙な看護師は、何のために果物を入院させている? 何のために果物ではない自分を入院させている?
杉間は腕に刺さっていた点滴の針を力任せに引き抜くと、矢も盾もたまらず駆け出した。やはり、この病院は、何かがおかしい。ここに、いてはいけない。
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