廊下にて

 午前中の検査は滞りなく終わり、担当医からは改めて後遺症の心配がない旨を知らされた。三日間は激痛で起き上がることすらできなかった身体も、すっかり歩ける程度には回復しており、杉間は晴れて個室から相部屋へ移ることとなった。

 とはいえ、個室と相部屋で大きく変わるのは設備のあるなしと料金の多寡くらいである。杉間には見舞いに来てくれる近しい親類も、妻や恋人の類もいなかった。――いや、正確には、結婚はまだか早く初孫の顔が見たい、とせがむ両親はいた気がするのだが、どう頑張っても二人の顔も、今住んでいる場所も思い出せないのだ。これも、記憶障害の一部なのだろうか?


 入院して以来、思い出せないことが増えた。子供のころよく遊んだあいつの名前、行きつけのバーの場所、好きなバンドの代表曲、嫌いな上司の顔……昨日の晩御飯のメニューは思い出せるのに、入院する以前のこととなると、とたんに記憶がおぼろげになる。しかしながら、だからといって特段不便になるわけではなかったので、杉間は前向きに考えることにした。また、元の生活に戻れば思い出すさ、そう自分に言い聞かせて、孤独な入院生活を楽しもうと決め込んだ。


 しかし、ここでひとつの問題に行き当たる。動こうにも動けなかったときは、それこそ病室で日がな一日眠っているしかなかったが、いざ体が動くようになると、今度は何もすることがないのだ。せめてスマートフォンがあれば、暇つぶしにゲームでも遊べるのだが、倒れたときにどこかへ無くしてしまったらしい。病室に据え付けられたプリペイドカード支払い式のテレビは、財布がないので使えない。

 と、言うより、杉間は身の回りのものを何ひとつ持ち合わせていなかった。そのうえ、記憶障害が邪魔をして家族はおろか知人にすら連絡が取れないのだから、暇つぶしの材料を誰かに持ってきてもらうこともできない。倒れたときは自宅のマンション付近にいたらしいから、職場の人間に連絡が行っているかも怪しかった。現に、誰も見舞いに来ないのだから、今頃行方不明の扱いでも受けているのかもしれない。


 ――まいったな。これでは病気より先に、退屈で死んでしまう。


 杉間はベッドの中で頭を抱えた。これから経過観察で、あと一週間は入院していなければいけないと聞いている。だというのに、ずっと寝たきりではカビが生えてしまう。せめて散歩くらいできないものか、と思い立って、那須に外出の許可を求めたのだが、彼女は困ったように「すみません。敷地内でも、院外への外出は許可できません」と言うばかりだった。


 弱り果てた杉間は、しばらくの間うとうとと寝入っては、目が覚めてぼうっとするのを繰り返していたが、やがて全然眠れなくなったので、少し身を起こしてぐるりとベッドの周りを見渡した。ベッドのすぐ側、木製のチェストの上には使い物にならないテレビがある。患者のベッドは個別にカーテンで仕切られていて、隣に誰かいるのかはわからない。人がいるにしては、見舞い人の声やら足音やら、いびきだとか咳払いも聞こえないから、自分以外は誰もこの大部屋にはいないのかもしれない。


 そこまで考えて、杉間はふと、那須の言葉を思い出した。彼女は院外への外出は許可できないと言っただけで、院内ならば歩き回ってもきっと問題はないはずだ。そうと決まれば、黙ってベッドに横になっている必要はない。杉間は意気揚々と立ち上がって、点滴を押しながらゆっくりと歩き出した。


 静まり返った部屋の中では、仕切り用のカーテンを開ける音がいやに大きく聞こえた。この集合病室には、杉間の寝ていたもののほかに、五つのベッドがある。もし自分以外に誰もいないとしたら、話し相手になってもらうこともできないから、少しばかり憂鬱な入院生活が続くだろう。窓の外には向かいの病棟が見えるばかりで、息がつまりそうだった。


 病院なのだから当たり前なのかもしれないが、物音ひとつしないので、なにか足音を立てることすらためらわれて、杉間は意味もなく忍び足で部屋を出た。入り口のプレートには「南棟3-C」としか書かれておらず、入院者の名前などはない。個人情報保護のためだろうか、などとのんきに考えながら、のんびりと進む。つきあたって右手には公衆電話があったが、残念ながら小銭の持ち合わせも、かけるべき電話番号の記憶もないので無視をした。


 左手側に歩いていって、いくつかの病室を越えると、ナースステーションとエレベーターホールが見えた。ずいぶん大きな病院にもかかわらず、ナースステーションにいるのは看護師がたったの一人きりだ。忙しいのかせかせかと動き回っていて、杉間に気づく様子はない。その形相は必死そのもので、どうにも声をかけるのははばかられた。


 どうしようか、と首をかしげたところで、エレベーターの近くに案内板があることに気づいた。その図によれば、一階まで下りたあと、連絡通路を通って東病棟まで行けば、コンビニエンスストアやカフェがあるらしい。そこまで行けば、さすがに他の人間もいるだろう。世間話をして時間を潰せるかもしれない。お金の持ち合わせはなくても、雑誌や新聞を少し立ち読みするくらいなら許されるだろう。まだナースステーションの奥で慌しく働いている看護師をよそ目に、杉間はエレベーターへと乗り込んだ。


 それにしても、ちょっとスマートフォンや財布が手元にないだけで、ずいぶん世の中は不便だ。電話帳がなければろくに知り合いの電話番号も思い出せないし、キャッシュカードがなければ現金も引き出せない。そういえば、キャッシュカードの暗証番号はいくつだったか……そんなふうに考えていると、頭の奥がじくじくと痛んだ。後遺症はない、と医者は言っていたけれど、この記憶障害は後遺症ではないんだろうか? 退院したら、一度別の病院で診てもらうか、よく調べてみたほうがいいかもしれない。


 エレベーターから出ても、やはりあたりは静まり返っていて、足音も、話し声ひとつしなかった。普段からあまり病院に縁がない杉間は、まあこんなものなのだろうと思いながら、ひたすら白い廊下を進んでいく。ふと、キィ、キィ、と金属がこすれるような不快な音が耳についた。それはどうやら前のほうから聞こえてくるらしかった。


 少しずつ近づいてくる音に、杉間はなんだかいてもたってもいられなくなり、隠れるように横手にあった廊下にとびこんだ。キィ、キィ、キィ、キィ。自分でも驚くくらい、心臓が早鐘を打っていた。幽霊が出たわけでもあるまいし、何をこんなに怖がっているのか。


「ね、ミカンブリってご存知です?」


 聞こえてきたのは、たしかに那須の声だった。おそるおそる、もといたところの様子を見てみれば、キィ、キィ、と音を立てて、那須が車椅子を押していた。なんだ、やはり怖がるようなことではない。そう思って胸をなでおろす。


「ブリの餌にね、ミカンの皮を混ぜるんです。そうするとね、生臭さが消えて、とっても食べやすくなるんですよ」


 にこやかに話す那須に、声をかけようとした杉間の足はしかし、直後に信じられないものを見たせいで、凍りついたように動かなくなった。吸い込んだ息は行き場所を見失ったまま、かすかに「え」という音を立てた。


 車椅子の中身は、空だったのだ。

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