隙間病院

ペグペグ

個室にて

 カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の日差しで、杉間は浅い眠りから解放された。久方ぶりの、気持ちのよい目覚めだ。一週間前に入院するはめになってからこっち、体の痛みやら悪夢やらでおちおち眠れなかったのだが、ひととおり施術がすんだ後は嘘のように体が軽くなり、昨晩はとうとう安眠を手にすることができた。


 大きく伸びをして時計を見れば、そろそろ朝食の時間だった。入院中の生活リズムはかなりの早寝早起きであり、おかげで杉間の狂った体内時計は改善の兆しを見せている。もう三十を過ぎたのだから、これに懲りたら少し生活習慣を見直そう、と杉間は自分の太鼓腹を叩いた。なにしろ、入院の理由が日ごろの不摂生から来る高血圧が原因の脳卒中だ。

 幸い症状は重くなく、後遺症は残らないという話だが、脳をやられたせいだろう、いまいち倒れたときのことが思い出せない。脳卒中は記憶障害を併発することが多いのだ、と担当医は言っていたが、どうにも違和感があった。


 コンコン、と軽いノック音が病室に響く。扉を開けて入ってきたのは、杉間の担当看護師である那須だ。彼女は配膳用のワゴンを手近な場所に止めると、杉間に声をかけ、てきぱきと朝食を準備していく。


「あら、杉間さん、今日はお加減よさそうですね」


 独力で起きていた杉間の顔色を見て、那須が白い歯を見せてにっこりと微笑んだ。「おかげさまで」と杉間が答える。女性経験の乏しい杉間だが、仕事でやっているとはいえ妙齢の女性にかいがいしく世話を焼かれるのは悪い気はしなかった。何より、那須は気配りが行き届いているし、仕事ぶりもそつがない。入院している側から見れば、文句のつけようがない看護師だ。


 ただ一点、彼女には奇妙な部分があった。


 束ねられた艶やかな黒髪と、聡明な光を宿す瞳、ふくよかなバラ色の唇。女性としての魅力にあふれるそれらの部分を通り過ぎて、杉間はそこを凝視する。左腕の、二の腕から先。早い話、彼女のそれは人間のものではなかった。

 黒々と太い爪は猛獣のようで、黒い縞の入った白と金の毛が手を覆っている。まるで、虎だ。那須の左手は、彼女自身の右手よりも、五割ほど大きく、力強く見える。さらに、何やら小手のような、枷のような、奇怪な渦巻き模様の描かれた金属が、左腕を保護しているのも、彼女の外見のアンバランスさに拍車をかけていた。


 あれは何なのだろう、彼女は何者なのだろう、そういう考えが杉間に浮かばないわけではなかったが、もしかするとそんなふうに考えること自体、記憶が欠けているせいかもしれない、と思えてきて、深く追求することはなかった。


「どうしました? 何か、嫌いなものでも入ってます?」


 朝食を前に、看護師を見つめて黙りこくっている杉間を心配してか、那須が怪訝そうに言った。杉間は慌てて首を振ると、味気ない病院食に手をつけた。量は多くないが、これも日ごろの不摂生を改めるためと思えば我慢できた。

 黙々と朝食を食べ始めた杉間を見つめながら、那須は満足そうに笑うと、「今日はね、検査がすんだら一般病棟のほうへ移れますから」と言った。

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