雨のドロップ

しめさば

雨のドロップ


 雨が降ってほしい。

 そう、思った。


 小綺麗なスーツに身を包んで、傘も持たずに、今日足を運んだ会社から歩いて5分ほどの距離にあった公園に、立っている。


 僕は、雨がきらいなほうだと思う。天気予報を見て雨が降ると知っている日は、当然傘を持って家を出る。だが、いざ雨が降り出すと、わかっていたというのに、舌打ちをしたりして。家から出ない日でも、外で雨が降っているというだけで気分が落ち込んで、いろいろなことのやる気が減衰した。


 だというのに、今日は、雨が降ってほしいと心から思っていた。


「ああ、分かった、オーケー。もういいよ」


 景色が、言葉が、脳内にフラッシュバックする。

 ついさっき終わった、面接のことだ。


「もういいよ、キミ。大体わかったよ」


 僕が話しているのを、わざわざ遮って、面接官が口を開いた。


「正直言って、魅力ないよ、キミ」


 正面にどかりと座る彼は、白と黒の混ざった色の髭と、あまり似合っていない黒ぶちの丸眼鏡が特徴的だった。服装も、黄色いアロハシャツにベージュ色の半ズボン、といった様子で、この人は本当に仕事をしているのだろうかと、内心で訝しむ。


「あまり、他人に必要とされた経験ないんじゃないの」


 面接官が、自分の髭をいじりながらそう言った。

 そういうあんたは他人に必要とされているのかよ、その服装で。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、僕は首を横に振った。


「自分では、分かりません」

「その答えがもうすでに、ダメだよね。キミの自信のなさ、そしてそれにくっついてくる、キミの魅力のなさがね、浮き彫りだよね」


 肩をすくめて、面接官が言うのを、僕は黙って聞いていた。

 数分間話しただけで、よくもそこまで僕のことが分かるものだと思う。きっと他人のことを“知った気になれる”プロなのだろう。感心する。

 心中で皮肉を吐き散らしながらも、僕の胃はキリキリと痛んだ。気にしないように、気にしないようにと言い聞かせながらも、他人から受ける自分の評価は、やはり確実に僕の心を深く抉った。お前はいらない、という現実を、多くの言葉を用いて、突きつけられている。


「キミ、彼女がいたことは?」

「ありません」

「ああ、それ、それだよね。恋の味を知らないとね」


 面接官は何が可笑しいのか、鼻から二、三度息を漏らして、言った。


「他人に求められることのなんたるかを、知った方がいい」

「恋の味を知れば、それが分かるってことですか」


 くだらない、と思いながら――そして、それを極力表情に出さないようにしながら――訊ねると、面接官は赤べこのように首を縦に振った。


「そう、そう。恋愛をしなさい」

「はぁ」


 曖昧な発言に対して、曖昧に頷いて、僕は心中で舌を打った。

 なんなのだ、この面接は。言いたい放題言われて、まったく役に立たないアドバイスをされて。僕はどういう顔をしたらいいのか分からない。

 その後も、面接官からいろいろと“ありがたい話”をされたが、どれもしっくりと来るものはなく、面接が終わったころにはほとんどの内容を忘れていた。ただ、その間に、僕は何度も言葉を変えられながら「魅力がないね」と、言われ続けたことだけは、なんとなく覚えていた。




 ベンチ以外に何もない公園の中心に立ち尽くして、僕は雨が降らないものかと空を見上げた。

 空には雲がまばらに浮いていて、白いものもあれば、黒に近い灰色のものもあって、雨が降りそうとも、降らなさそうとも言い難い天気だった。雲と雲の間から見える空は橙色に染まっている。


「くそじじい」


 気付けば、口走っていた。

 僕は、自分で思っている以上に、さっきの面接官のことが頭にきていたようだった。

 何が恋の味だ、適当言いやがって。

 もごもごと口の中でつぶやいて、青い色のネクタイを乱雑にシャツの襟からほどいた。そして、それを適当に投げ捨てた。地面に落ちるネクタイを横目に見て、鼻を鳴らす。続いて、ジャケットも脱ぎ捨てた。もう、ひたすらに投げやりな気分になっていたのだ。今まで綺麗に使っていたスーツに公園の砂埃がつくのは、どうも気分が良い。


「降れよ、雨」


 空を見上げて、呟く。

 いつもは大嫌いな雨を、今日だけは心から望んでいた。ふだんは、スーツが濡れると苛立つのだ。乾きにくいし、気を遣わないとどんどんと布がいたんでゆく。だが、今はそんなことはどうでも良かった。むしろ、スーツなど傷んでしまえと思う。

 大事に着てきたスーツを、大嫌いな雨で、びしょびしょに濡らしてやりたかった。


 ふと、後ろに人の気配のようなものを感じた気がして振り返ると、本当に人が立っていて、驚いた。


「わ」


 相手も驚いたようで、小さく声を上げた。立っていたのは、つややかな黒髪を肩甲骨の下あたりまで伸ばした、女性だった。たぶん、歳は僕と同じくらいだ。


「あ」


 僕も、間抜けな声を漏らす。

 まず、彼女の出現に、驚いた。さきほどまで、この公園には完全に僕一人だけが立っていたはずなのに。音もなく、前触れもなく、彼女はそこにいた。そして次に、彼女の顔を見て、驚いた。目尻はびしょびしょに濡れて、頬には何度も涙が伝ったような跡が残っていた。


「なにをしてるの」

「泣いてるんですか」


 声を発したのは、同時だった。

 お互いの声がかき消しあったかと、一瞬思ったが。ふつうに、彼女の声は聞こえていたし、たぶん、彼女にも僕の声は聞こえているだろう。


「泣いてない」


 すぐに、彼女は首を横に振った。やはり、聞こえていたようだ。

 鼻をぐず、とすすって、目元を灰色のパーカーの裾でごしごしとこすってから、彼女はもう一度、言った。


「泣いてないよ」

「いや、泣いてるでしょ」


 どうでもいいと思いながらも、なぜか僕は追及してしまった。こういうところが、「魅力がない」と言われる原因なのかもしれない。脳内で、丸眼鏡の面接官がちらつく。魅力ないよ、キミ。うるせえ、黙ってろ、じじい。


 目の前の女性は、ぐっと目を細めて――その際、また目尻に溜まった涙が頬を伝ってしまっていたけれど――言った。


「雨が降ったんだよ」

「いや、降ってないですよ」


 また、つまらない指摘をする。そうはいっても、本当に雨は降っていない。僕だって、降ってほしいのだ。


「私の顔にだけ、降ったの」

「局所的すぎる」


 僕は思わず噴き出した。

 質問には答えた、と言わんばかりに、彼女はキッと顔を上げて今度は僕に質問を投げてくる。


「あなたは、なにをしてるの」


 何をしているか、と訊かれても、答えに困った。簡単に言えば、自暴自棄になっているだけだ。何をしているわけでもない。見た通り、ネクタイとジャケットを、脱ぎ捨てているだけ。

 そこで、ふと、思い出した。そうだ、僕は、雨が降ってほしいと思っていたのだった。つまり、僕は雨を待っているのだと思う。


「雨を」


 ぽつりと口ずさむように、僕は言った。


「雨を、降らせようと思って」


 なんだか、自分でも思ってもみないようなことを、口にしていた。お前は何者だよ、と胸中で自らに突っ込みを入れる。

 目の前の彼女は、目をまんまるに見開いた。


「降らせるの? 雨を?」


 できるのか? という顔をされた。いや、できないですよ。

 けれど、どうも引っ込みがつかなくなってしまって、僕は首を縦に、何度か振った。


「そうです、雨を降らせるんですよ」

「どうやって?」

「魔法で」


 僕は、もうどうでもいいや、という気持ちでそう言ったが、彼女は「ふぅん」と曖昧に相槌を打って、僕の隣に、馴れ馴れしく、並んで立った。


「もしかして魔法使いなの?」

「魔法使い? 僕がですか?」


 訊き返すと、彼女はこくりと、僕の目をじっと見ながら頷いた。彼女の目は黒く澄んでいて、少し、濡れていた。宇宙の入ったビー玉みたいだ、と思った。

 魔法使い? 僕が?

 心の底から、可笑しい話だと思う。僕が魔法使いだったら、さっきのアロハシャツ面接官のいけすかない丸眼鏡を念力か何かで粉砕しているだろうし、もっと言えば、あの会社をビルごと爆破しているところだ。

 ただ、魔法使い、という言葉は妙に僕の胸に気持ちよく響いた。


「なんで分かったんですか」


 気付けば、普段では絶対言わないような、そんな冗談を口にしていて、言ってから僕は一人で自分の発言に驚く。

 彼女はぷっ、と噴き出して、僕の肩を右の拳で小突いた。


「降らせるなら、早くしてよ。涙も隠れるし、ちょうどいいよ。ほら、木を隠すなら森の中って言うでしょ」


 やっぱり泣いていたんじゃないか。という言葉を、僕は飲み込んだ。さすがに、野暮だと思った。


 しかし。実のところ、僕は魔法使いでもないし、雨の降らせ方も知らないのだ。どうしたものだろうか。

 とりあえず、それらしいポーズくらいはとってみようと思った。

 空に向かって片手を上げて、手は、ドッヂボールの球を掴むような、そんな形で、僕は空を見上げた。

 台詞は、どうしよう。何も言わずに手を上げているだけというのも間抜けだ。少しの間の思案の末に。


「はぁ!」


 僕は、気合いを入れるように腹に力を入れて、吐き出すようにそう言った。


 沈黙。

 静寂。


 雨は降らない。


 僕は、手を下ろして、肩をすくめた。


「ちょっと今日は調子が悪いみたいです」

「使えない魔法使いだなぁ」


 彼女は鼻から息を漏らして、苦笑した。

 目尻を見ると、涙はもう溜まっていなかった。ただ、きょろきょろと小さく動き続ける瞳は、どこか寂しげに見える。彼女からなにとなく漂う哀愁は、「事情を訊いてくれ」と言っているようにも、「何も訊くな」と言っているようにも感じられた。


「どうして、泣いていたんですか」

「泣いてない」

「どうして、局所的に雨が降ってしまったんですか」


 この訂正に意味はあるのだろうか。もっと言えば、この質問に意味があるとも思えない。しかし、僕は誰に言われるでもなく、自ら、彼女に訊ねていた。彼女の事情に興味があるかと問われれば、答えは『ノー』だ。それでも、僕はその質問をしたいと思った。理由は分からない。


「ちょっとね、ままならないことがあったの」

「ままならないこと」

「そう。譲れない部分をね、譲れって言われたの。私は絶対に譲りたくなかった。でも、譲ってしまう以外の選択肢が用意されていなくって」

「それで、泣いてしまったと」

「泣いてない。雨が降ったの」


 なかなかに強情だ。

 僕は「なるほど」と曖昧に頷いて、彼女から視線をはずした。

 しようもない話だと思った。泣くほどのことだろうか。ただ、その出来事を語っている彼女の目はゆらゆらと小刻みに揺れて、口は少し震えて、拳はぎゅっと握られていた。きっと、悔しかったのだろう。ただ、その悔しさは、僕にはとうてい想像のつかないものだった。


「そういう君は、どうして雨を降らせようと思ったの」


 気付くと彼女は視線を上げて、僕をじっと見ていた。

 すこし潤んだ瞳は、美しかった。


「ちょっとね、腹が立つことがあったんです」

「腹の立つこと?」

「そうです。名前も知らない、ふざけた格好をしたおじさんに、散々ひどいことを言われて。適当なことを言われて。非常に、腹が立った」

「知らないおじさんなのに、腹が立ったの?」


 彼女の質問に少し意表を突かれて、言葉に詰まると、彼女はもう一度、「知らないおじさんなのに?」と言った。

 確かに、そうだ。

 知らないおじさんに、今日会ったばかりの面接官に何を言われたところで、そんなのどうってことはないじゃないか。何を、そんなに腹を立てていたのだろうか。そんな気持ちになった。

 ただ、ついさっきまでは、僕ははらわたの煮えくり返るような気持ちだったのだ。それは、事実だ。


「知らないおじさんなのに、腹が立ったんですよ」

「そうなんだ。知らないおじさんなのに」


 彼女は繰り返すようにそう言ってから、「へんなの」と加えて呟いた。


 彼女の苦悩が僕には分からないように、彼女にも僕の怒りは伝わらなかったのだと思う。当然だ。会ったばかりで、そんなものが分かるはずはない。

 再び、先ほどの面接官が脳内にちらついた。魅力ないよ、キミ。うるせえよ、あんたに僕の何が分かるんだ。そう、言ってやればよかったと思った。


「知らないおじさんに何言われたのかわかんないけどさ、きみ、結構イカしてると思うよ」


 彼女はあっけらかんと、そう言った。


「ふつうの人はさ、魔法なんて使えないよ」


 今日は不調みたいだけど、と付け加えて、彼女は口角を上げた。

 いや、僕も使えないんだけども。本気で信じているのだろうか。

 僕はその言葉に苦笑しながらも、胸のどこかが少しあたたまるような気持ちになった。


「あなたも」


 口を開いて、何かを言おうとした。すぐに、何を言おうとしたのか、忘れてしまった。


「涙が、綺麗だと思いました」


 気付けばそんなことを言っていて、自分でも驚いたし、彼女も目を丸くした。

 一瞬、頬を赤く染めて、すぐに、彼女はザッと、公園の砂利を靴で蹴って、僕に飛ばした。


「だから、涙じゃなくて雨だってば」

「そういえば、そうでした」


 僕はくつくつと笑って、ネクタイと、ジャケットを拾った。砂利をぱんぱんと手で払う。さきほどまでのやり場のない怒りは、いつの間にか胸の内から消えていた。


「雨も降らないみたいなので」


 帰ります。と、続けようとしたところで、顔にぽつり、と何かが当たった。

 驚いて上を向くと、一粒、また一粒と、顔に、雫が垂れてくる。


「あ」


 僕と、彼女は、棒立ちになって、間抜けに声を上げた。

 ぽつぽつと、砂利に雫の落ちる音がして、どんどんと、その間隔が狭まっていく。強くなってきたな、と思った頃には、雨は土砂降りになっていた。


 僕も、彼女も、その場に立ち尽くして。


「ぷっ」


 失笑した。


「ほんとに降ったぁ」


 彼女が楽しそうに言って、けらけらと笑った。

 僕も、つられて、笑った。スーツなんかはもうびしょびしょで、ビジネスバッグの中身もどうなっているかもう分からない。でも、そんなことはどうでも良かった。


「僕、すげえな」

「ほんとだよ。すごい」


 二人でげらげらと笑って、土砂降りの公園に立ち尽くした。


「ねえこれ、雨降らせてくれたお礼」

「なんですかこれ」

「飴」


 小さく個別包装された飴を差し出されて、僕は小さく頭を下げて、それを受け取る。なぜか、迷うことなく、その袋を開けて、口に放り込んだ。

 じわりと、まとわりつくような甘さが、舌の上に溶けた。


「あますぎる」


 僕が顔をしかめると、彼女が可笑しそうに笑って、僕が手に持ったままの飴の袋を指さした。

 つられるようにして、袋を見ると。淡いピンクの袋には、馬鹿にするような“可愛らしい”フォントで、『恋の味』と書いてあった。

 これが、恋の味。

 鼻から、息が漏れる。


「しょうもな」


 くつくつと、肩を揺らして、脱力した。


 スーツも、丸眼鏡も、雨も、飴も。

 自分も、他人も、悔しさも、怒りも。

 しようもないな、と思った。

 たぶん、それでいい。


 それよりも。

 僕の隣で、雨に打たれて、楽しそうに笑う彼女は、驚くほどに美しかった。


 口の中の飴が、妙にその甘さを、僕に主張した。


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