第3話 笑わないでよ!

 乙侍従が声を上げて笑った。

 定頼には何も言えなかった。几帳の向こう側にいる彼女に背を向けて膝を抱えた。

「あらいやだ、ごめんなさい、私ったら声を出して笑ったりなどして、下品ですわね。ごめんなさいねえ」

「おとのばか……」

 打ちのめされてしまった。

 笑われただけではないのだ。

 定頼が説明し出すより以前に、乙侍従は事の次第を知っていた。

 つまり、あの、自分と小式部内侍のやり取りは、息をひそめていた彰子付き女房たちに聞き耳を立てられていた上、自分が逃げ帰ったあと彼女たちによって広められてしまった、ということである。

 女房とはおしゃべり好きの生き物だ。噂が広まるのは早い。しかも彰子とは相性の悪いこの館の主人付きの女房である乙侍従のところまですでに辿り着いているくらいだ、そのうち都じゅうに伝わることだろう。

 経緯はどうであれ、歌を送られて、返せなかった。しかも内容はあれだ。

 今まで数々の失敗をしてきた定頼だったが、今日ほどやらかしてしまったこともない。

 消えてしまいたかった。

「やりますわね、小式部内侍。頭のいい子なのでしょう。そのわずかな間で、ここまで、となると、ねえ。こてんぱんにされましたね。残念でした、敵いませんよ、諦めなさい」

「やめて……」

「しかしこの幾重にも思いの込められた歌、面白いですね。これはじきに大納言様のお耳にも入りますよ。またお叱りになられたりしてね」

「ほんとやめて……お願い……想像つくから……」

「あっはっは」

 父の耳に入らないわけがない。都のいい歌はすべからく彼のもとに届くものだ。

 あの歌をいい歌だと認めるのは悔しいが、少なくともこの乙侍従は絶賛している。彰子のところにいる女房たちも褒めたたえていることだろう。

 今頃彰子付きの女房たちは公任の息子も大した器ではないと話しているのだろうか。

 父は何と言うだろう。教育熱心な父のことだ、無視はしてくれないと思う。それこそ教通と比べてみっともないと言われてしまいやしないだろうか。返歌を指導されたら赤っ恥どころではない。

 出世しないのは自分だ。他の誰のせいでもなく、自分に落ち度があるのだ。

 最悪だ。これまで築き上げてきたものが台無しになる。

「軽率なことをするからですよ。おやめなさいと言いましたのに」

 ひとしきり笑い終えて、乙侍従がようやく落ち着いた声音で言った。定頼は大きな溜息をついた。

「ほんとですね……。おとの言うとおりにしていればよかったです……」

「あら素直なこと。よほどこたえたのですね」

「もうだめだ……歌だけは誰にも負けないと思っていたのにこれでは……もう……うっ」

「しっかりなさい」

 しかし――何も落ち込むばかりではない。

 小式部内侍は知っている。親を気にしているのはお前の方だと言いつつも、親のことばかりで気が滅入ってくる状況も一応分かってはいるのだ。そこが定頼の弱点だと見抜いたからこそああいう歌を詠むわけだ。

 乙侍従の言うとおりだ。彼女は頭のいい女性なのだ。

「もったいないなあ」

「何がです?」

 乙侍従に問われて、頷く。

「あの年で、あんなに美人で賢くて。教通なんかにやるの、惜しいよ」

「あら、あら」

 美しくて頭のいい女性は世の宝だ。世間には出しゃばる女をよしとしない風潮はあるが、教養はいくらあっても邪魔ではないとするのが我が家風だ。

 それだけできる女性の方こそ、この定頼にふさわしい女性だとは言えなくないだろうか。

「今からお返し考えようかな」

 乙侍従が閉口する。

「そうだ、それがいい。ちょっと時間は経ってしまっているけれど、このまま黙って逃げっぱなしよりはずっとずっといい」

「ちょっと、右中弁様」

「これもまた好機と見たね」

「あなたね――」

「よし」

 体を起こし、二本の足で立った。

「彼女に文を送ろう」

 そうと決まれば早い。

 定頼は局の外を目指して歩き出した。

「ではね、おと! 話を聞いてくれてありがとう! 僕、頑張るよ!」

「何を言っているのですか、あなたついこの前ひとのものには手を出さないと言っていたばかりではありませんか」

「教通と彼女はまだ正式な夫婦ではないから大丈夫! 僕の方を本命にしてくれればいいさ! あとやっぱり浮気はされる方が悪いんだよ!」

「また自分に都合のいいことばっかり――」

 このままだと説教が続くような気がした。定頼は「またね」と言いながら外へ出てしまった。背中に向かって「いい加減にしなさい」という言葉も投げつけられたがお構いなしだ。

「君のようないい友をもてて僕は幸せだよ!」

 小式部内侍に、『大納言公任の息子』ではなく、『藤原定頼』としての自分を見てもらうのだ。自分にはそれに見合うだけの和歌を作る力があるはずだ。

 隠れていた女房がそろそろと出てきた。

「いいの? 乙侍従。彼、分かってないのでは?」

 乙侍従は深い息を吐いた。

「いいの、私、彼のああいうあんぽんたんなところが好きだから……」

「あら、あなたも物好きねえ」

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まだふみも見ず天の橋立 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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