第2話 小式部内侍とかいう女
右中弁という肩書は便利なもので、各省とやり取りがあるためどの省を言い訳に使っても違和感がないのだ。加えてこういう時は公任の息子であることも使える。
定頼は順調に目的の邸宅へ入り込むことに成功していた。
小式部内侍――和泉式部の娘で、先帝一条院の中宮彰子付き女房をしている。年は定頼より三つか四つほど下らしい。
母親の和泉式部は、都に知らぬ者はいない。皇子二人をはじめとして、数々の高貴な男性を相手取ってきた恋愛の達人だ。そのあまりの浮名の派手さに、道長も彼女をして『浮かれ女』と呼んだくらいだ。世にはとんでもない女性もいたものである。だがそれでも彼女に相手をしてもらいたい者はいくらでもいたときいた。よほど魅力的な女性だったと見える。男として捕まってはいけない女だと感じる。
しかし彼女はただの『浮かれ女』ではない。公任が彼女を一流の歌人だと言っている。往時は彰子の女房の中でも屈指の歌詠みと呼んでいた。父はあれでいて女性関係には潔癖だ、和泉式部にうまく使われて評価を操作したわけではあるまい。
定頼も彼女の歌は好きだ。恋の熱さを生々しく表現するところがいい。あんなふうに言われてしまったらおちない男はいない、かもしれない。そして泥沼にはまっていくのだ。直接の知り合いにはなりたくないと思う。
乙侍従が言うことが本当なら、娘の小式部内侍もなかなかの歌人らしい。噂を聞かないのは彼女がまだ幼いからか、それとも――
定頼はひとりで笑った。
和泉式部は、あれだけの大騒ぎを起こしておきながら、去年また人妻になって女房を辞めた。都じゅうが見守る中、丹後の
娘の小式部内侍はひとり彰子のもとに残された。
小式部内侍はひとりでは歌を作れないのかもしれない。かつては和泉式部が彼女のために歌を作ってやっていたのかもしれない。彼女は去年から歌を作っていないのかもしれない。
それで歌合せとは――意地の悪い笑みが浮かぶ。さぞかし心細かろう。
さて、どんな女か、お手並み拝見といこうではないか。
話に聞いた、彼女の局の前に辿り着いた。
辺りは静寂に包まれていた。落ち着いている。彰子の女房はみな物静かである。
さりげなく通りかかったふりをして、御簾に向かって声をかけた。
「ごきげんよう、小式部内侍。僕は右中弁藤原定頼。今度の歌合せではよろしくね」
返事はない。だがいいだろう、女がみだりに声を出したりはしないものだ。むしろここで甘い声を出したらそれこそさすが和泉式部の娘といったところである。その辺は一応わきまえているらしい。
それにしても、和泉式部の娘か。
母に似て艶めいてふしだらな空気を纏っているのだろうか。母譲りの色香で教通を籠絡したのだろうか。
浮かれる自分を感じる。
騙されてはいけない。自分はそんな人間ではないのだ。
「ところで、」
願わくば、彼女がみっともない姿を見せてくれますように。
「丹後までおつかいに出した人は帰ってきたかな? お母様からのお手紙がないと不安だよね」
その、次の時だった。
御簾が巻き上げられた。
定頼は驚きのあまり硬直した。一瞬何が起こったのか分からなかった。
白い、華奢な手だった。
しかし思いの外強い力で引かれた。
手の主を見た。
御簾の隙間から見えた、まだ大人の女性というには若い少女のおもてに、妖艶な、凄絶な笑みが浮かんでいた。
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」
和歌は定頼の得意分野だった。
定頼にはすぐ何を言われたのか分かった。
――大江山の先、生野へと向かう道のりが遠いので、まだ踏み越えて天の橋立に辿り着くには至りません。
違う。
――大江山の向こう側へ行く道のりは遠いので、まだ天の橋立の傍にいるでしょう母の文はここまで辿り着かず見ることはできませんね。
違う。
違うのだ。
その美しい笑みは邪悪なほどで、
「……こんな、どういう――」
彼女の絶対的な強さを感じる。
「お返しは、いただけないでしょうか」
定頼には何も返せなかった。
「こんなの、僕は認めないからね」
彼女の手を振り払った。けれど彼女は何も言わなかった。ただただ意味深長な目で定頼を見つめているだけだ。
ややして、彼女が扇で口元を隠した。
しかしその目元は笑っていた。
笑っている。
軽口をきいた定頼を嘲っているのだ。
お前はその程度の男なのだと、彼女は言っているのだ。
定頼は顔を背けた。廊下の奥へと向き直り、何事もなかったふりをして歩き始めた。
逃げることしかできない。
何の返歌も浮かばなかった。
こんな失態があるだろうか。
自分は彼女に敗北したのだ。
母親がどうだから、ではない。彼女の歌の才は本物だ。
――大江山のように偉大で華やかな親がいると、あのひとたちのあとを行く私たちの道のりは遠くて大変ですわね。私はまだ母の行く道を踏み締めたことはありませんけれどね。
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