まだふみも見ず天の橋立
日崎アユム/丹羽夏子
第1話 聞いてよ!
廊下をゆく。
自然乱暴な足取りになる。
雅をもって尊しとなす家風に生まれ育った
けれどどうも鎮まらない。
目的の局が近づいてきた。
極力抑えた、けれど
「おと」
御簾の向こう側にひとの気配がある。誰かはいて自分の声を聞いていることだろう。定頼が来たと知れば黙って手引きしてくれる女房もいる。ここの女房は全体として定頼には甘いのだ。
「おと、いないかい? ちょっと話を聞いてもらいたいんだけど」
ややしてから、女の声が聞こえてきた。
「右中弁様かしら」
落ち着いた、大人の女の声だ。
「あなたがお探しの
「お、おとぉ!」
すがりつく気持ちで歩み寄った。そして廊下に座り込んだ。御簾をひっぱたいて振り払いたいのを堪えて柱につかまる。ひとに見られたら眉をひそめられそうだが――向こう側にいる乙侍従に直接見られたら本当に心から叱られそうだが、我慢できない。外聞を気にしなくてもいいならこんなものでは済まない、きっと地団駄を踏んで喚いたことだろう。
「あら、何かしら。右中弁様ともあろうお方が、そんな、情けないお声」
言葉はなじるようだが、乙侍従の声はあくまで穏やかだ。聞いていると甘えたくなる。年はほぼ同い年だが定頼は時々彼女を母と呼んですり寄りたくなる。
「聞いておくれ……聞いておくれよ……」
「はいはい、お聞きしますよ。何です」
「今妹からとてもつらい話を聞いてしまったんだよ……」
「相変わらず仲ようございますね。で? 妹御は何と?」
「どうやら浮気をされたようなんだ……」
「まあ。中納言様がよその女にうつつを抜かしていらっしゃるということ?」
「そう、そうなんだよぅ……」
定頼には五つ年下の妹がいる。同腹で、和歌を教えて育てた自慢の妹だ。二年前ひとの妻になったが、定頼は今もまめに彼女とやり取りしている。
その、妹の夫、中納言
妹が浮気をされただけであったら、定頼もここまで怒らなかったかもしれない。浮気はされる方が悪い、と定頼は思っている。男が他の女のところへ渡ることなどよくある話だ。腹が立つのは妹がないがしろにされているからではないのだ。
あの、教通が、正室をないがしろにして他の女とも遊んでいる、というのが、面白くない。
乙侍従が向こう側で笑ったのを感じた。
「ご自分を棚に上げて、そのようなこと」
「失礼な! 僕は、まあ、それは、過去にはいろいろあったけれどね、ひとの女に手を出したことはありません! ……今のところは。……たぶん、今後も。たぶん」
「はいはい」
「信用してくれていないね?」
「いいえ。本当にそんな男でしたらあなたまずここにいられませんよ、ここをどなたのお屋敷だと思っておいでです」
先帝一条院の愛娘の屋敷である。生母の定子に見合う
「ここの女房たちにはちゃらちゃらしているわりに分をわきまえていると評判ですよ」
「それ僕が傷つくとは思わないの?」
しかしそう思えば思うほど自分が掻き乱されているのが悔しい。
このように女性の支持を得ている自分が、あのように偏屈な教通などに、煩わされている。
自分は本来そんな小者ではないのだ。
だが、教通は定頼より官位が上だ。年も定頼の方がひとつ上だというのに、内裏では教通の方が上なのだ。
悔しい。
自分自身は何ひとつ教通に劣っていない。
劣っているのは定頼ではないのだ。
定頼の父である大納言
定頼は公任が嫌いだった。
何が都で一番の文化人だ。ひとはみな公任を和歌の世界の重鎮と仰いでいるが、和歌が詠めても官位がもらえるわけではない。
そもそもなぜ公任は和歌を選んだのだろう。どうせやるなら漢詩を選べばよかったではないか。漢詩は宮廷での業務に直結する。漢詩の出来不出来は政治の如何にもかかわる、漢詩ができれば出世も見込める。
かつて、道長は、公任に、漢詩と管弦と和歌だとどれがいい、と質問したことがあるのだそうだ。道長はけして公任に和歌だけを押しつけたわけではないのだ。漢詩ができないわけではない、むしろ人一倍長けていると聞く、だからこそ道長はそう訊ねたのだろう。それなのになぜわざわざ和歌にしたのか。
和歌を選んだから道長に
道長の息子たちが次々と出世していく。
真面目に業務をこなす自分が馬鹿みたいだ。
「よほど中納言様がお嫌いなんですのね」
「嫌いだ」
そして、道長にいい顔をして娘を教通にやった父も、
「僕は大嫌いなんだ」
乙侍従が溜息をついた。
「そう言えば、あなた今度の歌合せに呼ばれたんですってね」
見かねて話題を変えてくれたらしかった。乙侍従は淡泊そうに見えて情の深い女性だ。定頼は今日も彼女に救われる。
「楽しみですわね。今度のお題は何だったかしら」
しかし定頼の心は完全には浮上しなかった。
歌合せに歌人として呼ばれるのは名誉なことだ。帝に歌を奉ずることもできるかもしれない。
けれど定頼は、何となく、歌人として、と言われると、公任の息子であることを期待されているように感じてしまうのだ。
定頼がうまい歌を詠むたび、ひとは定頼を褒めたたえる。さすが公任の息子、と。
自分も和歌くらい詠める。だがそれは公任の息子だからではない。自分なりに研鑽を積んできたからだ。
面白くない。
「私もお控えする予定なんですよ」
「君も歌を作る側として参加できればいいのにね。僕は君の歌が好きだよ」
「あらお上手」
「でもこればかりはね、父さんに感謝しなければね。僕が歌合せに出られるのもきっと父さんのおかげなんだろうから」
御簾越しに、首を横に振る影が見えた。
「私も、あなたの歌が好きですよ。大納言様は関係ありません」
定頼は苦笑した。
「君は優しいよね」
「右中弁様――」
「まあいいさ。今日ちょっとした楽しみもできたし」
「楽しみ?」
「その、教通の新しい女も歌合せに出るらしい」
乙侍従が「まあ」と呆れたような声を上げた。
「ということは、しっかりしたところのお方なのでは?」
「何でも、あの
「あらいやだ、つまり、
「知っているのかい?」
「直接面識があるわけではありませんが、宮家の女房の間では彼女も素敵な歌を詠むと評判ですよ。あのあたりでは恋文の返歌なども彼女に考えてもらったりするのですって」
「へえ」
俄然興味が湧いてきた。
「ちょっと様子を見に行こうかな」
「なにを――」
「どんなに魅力的な女性なんだろう? あの偏屈の教通の相手をするくらいだからよほど包容力があるんだろうな、僕にも構ってくださるかな?」
「右中弁様ったら――」
定頼は立ち上がった。
「おやめなさいな、どうしてわざわざご自分から事を荒立てに――」
乙侍従は引き留めようとしたようだが定頼は聞かない。
「ではね、おと、ありがとう! 君みたいな友をもてて僕は幸せだよ! またね!」
「こら、もう! 誰が友ですか!」
そのまま廊下を歩いていってしまった。
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