短篇小説「星団」

トオルKOTAK

星団(1/9)

どこから迷い込んだのか、ギンガムチェックのテーブルクロスに芥子(けし)粒ほどの虫が留まっている。季節に取り残されたみたいに、クリームソーダの置かれる場所に。

ロイヤルミルクティの薄膜を掬ってから、香苗が言葉を重ねていく。

「ええっとね、だからね……そういうことなのよ。いまのあなたには理解できないかもしれないけれど」

ききわけのない子供を諭すかんじの彼女に対し、笠井幸司は腕組みをほどいて、肘をついた。

口をつけていないアイスコーヒーのグラスが、夏の名残りで汗をかいている。

「もう会えないってわけじゃないのよ……たまたま今日がその幼児教室にぶつかっちゃってね、しかたないのよ。和哉にだってスケジュールがあるんだから」

店内のエアコンは冷房にも暖房にも設定されることなく、昼下がりの生温い空気がとぐろを巻いている。

体験学習・幼児教室……笠井には、初めて耳にする言葉が底意地の悪い生き物に思え、口にした飲み物は溶けた氷のせいで、ひどく気の抜けた味がした。

「ちゃんとストローを使いなさいよ」

かつての夫をささやき声でたしなめてから、香苗は自分のティーカップを傾ける。

陽射しに遠慮がちな間接照明が、天体図の描かれた天井をほのかに照らしていた。

小言のときに伏し目がちになる癖は、夫婦のときと変わらない。けれども、今日の彼女は、アイロンの効いた白のブラウスに麻のジャケットを重ね、一ヵ月前とはまるで別人になっている。シルバーのネックレスに下げた薄紫の翡翠(ひすい)のブローチも、笠井が初めて見るものだ。

他所(よそ)行きのアイラインと黒に戻した髪は、母親とキャリアウーマンの二役を絶妙なさじ加減で同居させているが、それはカレンダーのせいではなかった。

幼児教室に息子の和哉を預けてから、ここに来たのは嘘ではないだろう。

息子と二人でしたたかに生きる姿が垣間見え、笠井のアイスコーヒーが苦みを増す。

「スケジュールを先に言ってくれれば、日付けを替えたのに。どうせオレはヒマなんだから、来週の日曜日でも良かったんだ……」

目線を息子が居るはずの空間に移して、笠井は早口で言った。

変声期に部活動で喉をいじめたため、彼の声は低くくぐもり、少しでも言葉を急かすと、ガムを噛みながら話しているみたいに聴きづらくなってしまう。

そんな自分の欠点を思い出して、笠井はまた腕組みする。

「来週の日曜日でも良かった」は勇み足でついた嘘だ。その日は接待ゴルフがある。

サラリーマンの笠井の仕事ぶりはけして誉められるものではないが、クライアントとグリーンの上で会話を交わすことが「体育会系営業マン」の役割だった。

――前の専務の会員権がたまたま浮いててさ。我が社としても年会費ばかり払うのは馬鹿らしいから、笠井君の名義に変更したよ。キミのハンデなら役不足じゃないだろう――

扶養家族の変更届を総務部に提出した日の夕方、重役室に呼ばれた笠井は、泣きべそに似た苦笑いを浮かべた。妻子と別れて独り者になった襟元を、会社の上層部がひょいとつまみ上げ、ゴルフ会員権の名義を「笠井幸司」に替えたのだった。

現在(いま)の職場に移って10年、硬式野球部を引退して5年の月日が経つというのに、相変わらず、どこか特待的な扱いを受けている自分がもどかしく、しがない社員をそれでも何とか役立てようとする会社組織が息苦しかった。

会話の止まったテーブルに、携帯電話の着信音が響く。

自分の物と勘違いした笠井がジーンズのポケットをまさぐるが、香苗の目線で後ろのテーブルの音と知り、耳たぶを熱くする。

持ち主を捜す携帯電話がコールを繰り返した。

狭い店内に不釣り合いな音量で、一秒の間を空けて、一秒の着信。五秒、十秒……ようやく音が止まる。

「あなた、体が少し大きくなったんじゃない?」

頬杖をついた香苗が話題を切り替えた。

「仕事、変わらないんでしょ? 元運動選手は太りやすいのよ。高脂血症が心臓を悪くするから注意しなきゃね。野菜を摂らなきゃだめよ。定期的に健康診断も受けなきゃ」

スプーンでミルクティをかきまぜながら、元の妻がそう続けた。



(2/9へ続く)

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