星団(3/9)
「なんにもならなかったって……あなただけよ、そう思っているのは。大学でも会社でも野球を続けられたじゃない」
「他人(ひと)はそう思うだろうけど、結局、才能がなくて、プロに行けなかった落ちこぼれだよ。野球なんてもっと早くやめてればよかった」
投げやりな笠井の襟元を見つめながら「自分でそう思うんだったら、しかたないわね」と、香苗は温度の低い言葉を返した。
「……ま、元運動選手としての、いまの活躍の場はゴルフかな」
丸めた紙屑に、笠井がストローから滴を落とすと、水分を帯びたそれは芋虫みたいな動きを見せた。
「ねぇ、あなたはもう、三井さんとは連絡を取ってないの?」
唐突に香苗が尋ねる。
なぜいま、その名前が出てくるのか……笠井は顔を上げて、首を傾げた。
大学時代の野球部監督だった三井は、笠井幸司の野球センスを認め、プロ入りを諦めたときに社会人野球へ進む道を提言した。そして、エース笠井を擁した社会人チームが都市対抗野球大会の出場を決めると、いち早くお祝いのメッセージを送ってきた。
そんな恩人の勇退を、笠井自身はスポーツ新聞の片隅で知った。もう、しばらく前の話だ。
義理立ての気持ちより、野球人としての自分の腑甲斐無さが勝り、笠井は三井の名前を携帯電話から消していた。
「三井さんは大学にルートがあるでしょ? 和哉の志望校のひとつがその付属小学校なのよ」
誰にも聞こえない囁き声で、香苗が言った。
●
「この前さ、ケータイに『充電してください』ってメッセージが出たから、持ち主のオレのことを気遣ってくれたのかなって思ったら、アレ、ケータイ自身のことなんだな」
中ジョッキの生ビールで額を赤くした東一朗が、たわいもない冗談で豪快に笑う。
年齢(とし)の離れたフィアンセを横に座らせ、オヤジギャグを連発する友人のサービス精神に、笠井は心の凝り(しこり)が少しだけほぐれた気がした。
アルコールも、程よく体に染みている。
金曜日の午後七時。
駅のロータリーに面した雑居ビルの居酒屋だが、企業の少ない街のせいか、サラリーマンはほとんどいない。
隣りのテーブルでは、幼い男の子を連れた夫婦が、酒ではなく、食事を楽しみに来ている。カウンター席には、ハンチング帽を被った初老の男が一人。出馬表のある夕刊を広げ、酎ハイのグラスを傾けていた。
東からの半年ぶりの誘いは、電話ではなくメールだった。若いフィアンセの影響か、フィーチャーフォンをスマートフォンに替えたらしく、ネクタイは派手な柄になり、側頭部にちらついていた白髪もしっかり染められている。
前の会合は半年前の春先――七分咲きの桜を楽しめるオシャレなバーに行こう、と半ば強引に誘われ、やみくもに空けたボトルが笠原を二日酔いにした。
バックヤードの酒さえ飲み干してしまう東に易々とつき合ってはいけないのに、ふと気づけば、高校時代の関係のまま、相手の巧みなリードに任せている。
「この前の約束どおり、新しいフィアンセを紹介いたしたく。つきましては、お前の駅前で一杯!」
息子に再会できず、翌々日の日曜日に接待ゴルフが控えていた矢先、そんなかしこまったメールを受けて、笠井は「了解」の返事をした。
たった半年で恋人をフィアンセに昇格させたのもジョークかもしれないが、友人のバカ話で気分転換するのもいい。
「いまはこんなんだけどさ、コイツは、高校時代、エースで四番だったんだ。それに、顔の造りがガイジンぽいから、女にもモテてさ。本性はひどい奴なんだけどな。ま、このオレがデキた女房ってワケだ」
美大のキャンパスから抜け出てきた感じの若い「フィアンセ」が、ショートボブの栗毛を店の照明に光らせて、桃色のカクテルと小ぶりな耳を傾けている。
「『女房』っていうのは、こいつがキャッチャーだったからだよ……」
バツの悪くなった「元エースで四番」の笠井が、割り箸を東に向けて説明を加える。
東のフィアンセは「桜井美花」という芸名みたいな名前だが、大きな八重歯を気にしているようで、表情を変えるたびにハンカチで口を覆っていた。
恋人の軽口に付き合う彼女を不憫に思いながら、笠井は相手の取り皿に卵焼きを一切れ乗せた。
「オレはさ、ホントはピッチャー志望だったんだぜ」
醤油の染みたホッケを突ついて、東が上目づかいになる。
野球のネタを好ましく思わない笠井の前に、緑色の制服を着た店員が冷奴(ひややっこ)を置いていく。
中学の頃、東一朗は県内の野球関係者に「トンイチ」という愛称で知られる強打者だった。
いくつかの大会でチームを優勝に導き、地元中学を卒業すると、表向きは一般入試のスタイルをとった体育推薦で、笠井と同じ私立高に進学し、三年・秋からの新チームでキャプテンを務めた。四番の座は笠井に譲ったものの、「脅威の三番打者」として、二年の秋季大会から頭角を現し、天性のリーダーシップでチームを引っ張っていった。
(4/9へ続く)
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