星団(2/9)
披露宴で仲人を務めてくれた専務の退職、会社のゴルフ会員権の名義変更――香苗に話すつもりだったことを胸の内に留めて、笠井はおとなしく頷いた。
そう、それに、慢性心不全で入院中の父のことも、今日は香苗に話す必要はないだろう。
「……だから、この先、幼児教室のある日曜日はダメなのよ。早めに日付けを決めておいたほうがいいわね」
言いづらそうに続ける元妻の言葉に、笠井は考えを巡らす。
日曜日は月に四回。そのうち二回が幼児教室とやらで潰れてしまい、残りの二回のうちの一回が接待ゴルフになってしまえば、和哉と会えるのは特定の一日になってしまう。この半年あまり、急な休日仕事も増えている……スケジュール変更はきっと許されないだろう。
返事を滞らせたまま、笠原はふうっと息を吐き、ガラス窓に視線を置く。
風が街路樹の細枝を揺らし、色づいた葉を宙に舞わせている。
いつの間にか、道路を挟む向かい側にコーヒーショップがあった。米国から上陸したチェーンの出店は、このカフェにも影響しているらしく、1ヵ月前は満席状態だったのに現在(いま)は空席が目立っている。
「和哉はとっても優秀なのよ。季節の花だって、月ごとの行事だって、もう暗唱できるんだから」
「暗唱?」
「そう、ちゃんと覚えてるわ。先生にも誉められたの」
息子への愛情と自尊心に満ちた眼差しで、香苗はグラスに出来た水滴を指で消していく。
「月ごとの行事か……」
「そう、七夕とか、お雛祭りとか、よ」
「男なんだから、雛祭りなんてどうだっていいだろ?」
ストローをアイスコーヒーに刺して、笠井は思いをそのまま口にした。
「テストの問題に男の子も女の子もないわよ。魚の名前とか動物の種類とか……いろいろ覚えなければいけないの。それに、ご飯の正しい食べ方や挨拶の仕方、日常の礼儀作法なんかもね」
義務教育の小学校に入るためにテストが必要なこと――つまり、世間で「お受験」と呼ばれる存在をようやく理解した笠井には、幼稚園児が足し算や引き算だけではなく、広辞苑に書かれているようなことまで覚えなければならないのが意外だった。
和哉のあどけない顔とそんな現実が結びつかない。たとえば、クリームソーダにも然るべき飲み方があるのだろうか?
「まだ幼稚園の年中(ねんちゅう)だけどね……そうは言っても受験まであと一年しかないの。教室に通い始めたのが遅いくらいだわ」
元の夫を説き伏せる話し方で、香苗はブランドものの腕時計を一瞥した。針を進めているのは、経済的にゆとりがある彼女の両親と周囲のお受験ママたちで、父親の時計とは明らかに違う時間を刻んでいる。
背中に人の気配を感じた笠井が重心をテーブルにかけると、クリーニングから戻ったばかりのシャツがコースターから染み出た水を吸い取った。
黒い羽虫はとっくに姿を消し、淡い陽射しがテーブルクロスに漂っている。
「教室が終わったあとであなたと会う方法もあるけど、本人は疲れているし、あいにく、今日は同じスクールの保護者たちと食事会があるの。ごめんなさいね」
目の前の二重目蓋の奥深くを、笠井は深く覗き込んだ。
恋人としてつき合っていたときも、夫婦として暮らしていたときも、香苗はいつも綿密な計画を立てていた。スケジュールをこなすというより、実行する計画を見つけるために生活しているようだった。最初は頼りにしていたそんな気質が、次第に鬱陶しく感じ、やがて疎ましくなった。
しかし、離婚しても、結局は赤い糸で繋がり続けるのではないか、前世の因縁なんかで結ばれ続けるのではないか――悪意のない彼女の笑顔を見るたび、笠井はそんなことを思った。
「たしか、あなたも野球を始めたのが五歳のときだったでしょ? 四、五歳の頃はね、脳がスポンジみたいな状態で、新しい知識をどんどん吸収できるの。和哉は、いまがその時期よ」
「オレの場合は脳じゃなくて、体だよ。それに、あんな小さいときに野球を覚えてもなんにもならなかった……」
苛立ちを隠さずに、笠井はストローで飲み物を一気に吸い上げた。
(3/9へ続く)
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