星団(5/9)
「野球に興味持たないで、東大出て父親のあとを継げばいいのにな。でも、そのガキがなかなかスジがよくってさ」
笠井はテーブルに置かれた東の拳をまじまじと見た。
あの頃、ゲームセットのたびに握手したその手は、いつしか、子供や父親という言葉が自然なくらいに大人のものに変わっている。
「ステキな話だけど……あなたがその子の本当の父親じゃないのが残念ね」
ショートボブに脇腹を小突かれ、東は体を揺らして笑った。
店員が三人に背を向けて、空になったテーブルを片づけていく。グラスとジョッキをまとめ、皿の上に枝豆の皮と紙屑を置いて、遠くの席からの呼びかけに気前よく挨拶を返す。
フィアンセがトイレに立つと、東はネクタイを解いて、笠井に顔を近づけた。
「おい。三井さんがお前によろしく言ってたぞ。たまたま会ったんだけどな。連絡先を教えてくれたよ」
真顔で言い、二口ほど残った焼酎を飲み干す。
「……ホントか? 三井さん、元気だったか?」
「相変わらず、野球バカだよ。少年野球の指導とか講演で急がしそうだ」
恩師の三井の名を、別れた妻とかつての女房役が重ねて口にするのを奇妙に感じながら、笠井はため息をついた。
「あのな、コージ。お前が野球を忘れたい気持ちはわからんでもないが、誰に聞いても、お前はいい選手だった。社会人でも、もっと長くやれたはずだ」
声のトーンを下げた東に対し、笠井は腕組みのまま聞き役に徹している。
口を開けば、言い訳や愚痴が出るだけで、自分の意見を発しても何もならないと思い、目蓋を閉じた。
「もう時効だから言うけどな……」
芯のある眼差しで笠井を捕らえ、灰皿でくすぶる吸い殻をグラスの水で消してから、東が続けた。
「オレたちの最後の夏のな、あの試合の、お前の最後の打席。あんとき、監督が……お前のオヤジさんが送ったサインは『思いきり振れ』だったんだぜ。送りバントのサインじゃない。右手で左胸を二度叩いてから、帽子のつばに人差し指、だ」
サインを東がジェスチャーで再現する。
「コージ、いまさら言いたくないけどな。あれはお前のサインの読み違いだよ。監督は試合の後で何も言わなかったけどな。一塁にいたオレは、お前がいきなりバントしたから、スタートが遅れた。それで、あの結果さ」
笠井は両腕の毛が逆立つのを感じた。父親と二人きりのときも、そんなことは一度も耳にしなかった。
「まぁ、ゲッツーになったのはお前とオレの足が遅かったからだけど……結局、お前とオレでゲームを終わらせちゃったな……あの頃はみんなにすまない気持ちでいっぱいだったけど、もう誰も気にしてないぜ」
東は空になったグラスを持ち上げ、通りすがりの店員におかわりを伝えた。それから、胸ポケットにたばこをしまい、笠井をまっすぐ見つめる。
「お前がオヤジさんとうまくいってないのも知ってるよ。でも、それは他人が口出しすることじゃない。それに、エースで四番の笠井幸司は、いつまでも過去を引きずる奴じゃないだろ。昔はさ、オレらは巨人の星を目指してたけど、いまは小さな星で十分だと思うぜ」
●
サインの読み違い。
うだつの上がらない友人を見兼ねて、東が嘘をついたのではないか? 酒の席を利用して、過去をねじ曲げたのではないか?
笠井の頭は金曜日の夜から靄がかかったままだ。
ティーグラウンドから飛ばしたショットがグリーン手前のバンカーに嵌まってしまう。キャディーからアイアンを受け取って、居酒屋での会話が脳裏をかすめる。
砂の抵抗を計算したサンドウェッジと呼ばれるクラブは、しかし、ボールをグリーンに運ぶことができない。
アゲインストの風に背を向けて、笠井はアンプレイヤブルを宣言した。
夕刻が迫り、進路を速めた寒冷低気圧の影響で、コース全体が斑模様の厚い雲に覆われ、折からの激しい雷雨にゴルファーたちはクラブハウスに避難した。
強く太い雨が窓ガラスを叩き、笠井はクライアントのおしゃべりに愛想笑いを返して、自分の掌を見つめた。伸びた爪のところどころに花粉みたいな黄色い垢がたまっている。
突然、ゴルフパンツの後ろポケットで、マナーモードに替えていた携帯電話が着信を知らせた。
郷里の姉からのメールだった。
心不全で入退院を繰り返す父親のカテーテルが、次の水曜日に行われる連絡だ。
返信せずに、笠井は雨に煙る景色を漫然と眺めた。
突風を受けた木立がシルエットを鋭角に変え、その上を鼠色の雲が左から右に濁流している。まるでこの世の終わりのような、ひどく荒んだ風景だった。
常磐道の三郷ジャンクションから外環道路に入った頃に、笠井のセダンはワイパーを止めた。
ヘッドライトに照らされた路面が雨雲の轍を残し、追い越し車線のテールランプが、制限速度ちょうどの彼の中古車を追い抜いていく。
やがて、笠井は月極駐車場でエンジンを切り、二十四時間営業のセブン・イレブンで弁当を買って、ひとり暮らしの自宅に戻った。
(6/9へ続く)
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