心(終)
それから、どれだけの時間が過ぎただろうか。
何もかもが静まり返るまで、座り込んでいたのかもしれない。
だから、それがわかったのだろう。
夜の空気の温度が、私の背中を撫でる。
ふと顔を上げると、開いた扉が、静かに閉まっていくところだった。
「……待って」
すぐにその言葉が出た。胸騒ぎがした。
私は駆け出していた。
私以外の、誰が扉を開けたのだろう。
全てが変わってしまう恐怖。私は何を変えてしまったのだろう。
「――待って、祐貴」
星の瞬く空の真下に、祐貴は立っていた。
祐貴は暗い町並みに一人で立って、とても珍しそうに、笑って世界を眺めていた。
遠くから、かすかな虫の声が鳴っている。
闇に浮かんだ旅客機の航空灯が、空をチカチカと横切っていく。
「ああ……姉さん、一人で大丈夫なの? こんな真夜中なのに」
「祐貴こそ」
それは私にとって、あるはずのない光景だった。
祐貴は一歩も家の中から出たりしない。
私が一人でも眠れるように作り出しただけの、ただの幻覚のはずだった。
「どうして、外になんか出てるの」
「外に出なきゃずるいって言ったのは、姉さんのほうじゃないか」
そう言いながら祐貴は、やっぱり笑っていた。
まるでその一歩が、なんでもないことだったかのように。
「姉さんが一人で歩けるなら、幻覚の僕には頼らなくていい。姉さんは、もう……恐怖と、友達なんだからさ」
「そ……そんなの嫌……。祐貴、いて。私が怖がっても怖がってなくても、一緒にいて。どこかに行かないで」
家族だから、一緒にいたいと思う。
お母さんは……とっくに死んでいた自分の子供を、ずっと離さずにいた。
それは娘の私を愛するのと、同じ気持ちだったのだろうか。
祐貴は私の家族だった。私の頭の中にしかいない、悪魔だったとしても。
「いつも一緒さ」
立ち尽くす私の手を取って、そう言った。
優しい声だった。どんな恐ろしい夜でも、私を安心させてくれる声。
「恐怖はいつだって、姉さんの中にある。僕だってそのひとつだ」
「でも……!」
お母さんと戦ったときにも流れなかった涙が、今は流れた。
私の恐怖を分かってくれた人は、ずっと、正木先輩だけではなかった。
けれど私は、彼のことを、本当はどれだけ分かっていたのだろう。
「祐貴! あなたは本当に……私の幻覚だったの?」
「そうなんだろうね」
誰も見ることのない、深夜の町並みに一人で立って。
何も存在しない虚空の闇へと、私は話しかけているのだろうか。
「ねえ……! あなたは本物の幽霊で……! 赤ん坊の死体は、あなただったの?」
「そうかもしれない」
祐貴は困ったように笑った。笑顔の他の表情を、知らないような子だった。
ずっと家の中から、一歩も出ることがなかったから。
私の安心や楽観主義を、全部持っていってしまったから。
「それとも……それとも、そのどちらでもない、悪魔だったの……?」
「……姉さんがそう思うなら、きっとそうだ」
笑っている。
自分のことなのに、祐貴は全てを受け入れてくれる。
私の弟は、幻覚でもあって、幽霊でもあって、悪魔でもあった。
けれど、ああ、もしかしたら。
「祐貴……あなたは、本当は――」
――生きている、人間だったんじゃないの。
幻覚なのに、お腹がすくはずがない。
ただの幻覚が、私の腕を引いて、止められるわけがない。
ずっと私は、ただ自分の目がおかしいだけだと考えていた。
けれど、本当はお母さんも……最初から普通ではなかった。
本当はいたはずの赤ん坊を隠して、この世にいなかったようにしていた。
お母さんがいるときには、私は祐貴を無視する。祐貴もそれを分かっている。
……お母さんは、どうだったのだろう。それを知る術もなかった。
私は、どうしてこんな目を持っているのだろう。
他の誰にも見えないものを見てしまう、幻覚の目。
もしも、その目に最初の理由があるのだとしたら。
確かにこの目に見えていたはずのものを……他の誰にも見えないものだと、そう思い込んだからなのだろうか。
「分からない」
祐貴は曖昧な笑いと共に、自分自身の手を見た。
私の手を握る手。私と同じように、温かな体温の通う手を。
けれど……それでも本当に、祐貴には分からないみたいだった。
「僕は……どっちだったのかな。……自分で自分が何なのかなんて、やっぱり僕には分からない」
「祐貴……私は……ずっと、ずっとあなたのこと……」
もしも祐貴が人間だったのなら。
それはどれだけ悲惨なことなのだろう。
そんなことはあり得ないと知っている。
誰にも気づかれないままご飯を食べて、誰にも見られないまま洗濯をして……
もしもそうなのだとしたら、誰よりも一緒に暮らしている私が、その痕跡に気づかないはずはなかった。
けれど、そうだ。私には――見えるはずのないものが、ずっと見えていた。
見えたもののことを、ずっと考えないようにしていた。
あり得ないはずの現実を見たとき、それこそが幻覚なのだと、見過ごしてしまってはいなかっただろうか。
この世の誰でも、自分だけの世界を見て生きているのなら……
現実と幻覚の境目は、果たしてどこにあるのだろうか。
「どっちでも、僕は構わないさ」
穏やかに笑って、祐貴は私の手を離した。
街灯の明かりが、目の前にいる祐貴の半分に黒い陰影を落としていて、彼はそのまま、闇の中へと消えてしまいそうに見えた。
「……ずっと、思っていたことがあるんだ。姉さんの見ている幻覚は、姉さんの見えないところでは、どうしているんだろう。僕たちは……誰かに見られたときにだけ現れて、本当はどこにもいないのかな――」
「それは……」
本当なら、それはどこにもいないはずだ。
だって私が見ているものは……私自身にしか見えない、ただの主観の幻で。
それは本物の霊視ですらない。
「だから、それを確かめたい。僕の願いは叶ったから……姉さんが一人で歩けるようになったみたいに。僕も、ここからは一人で行くんだ」
祐貴。私のただ一人の弟。
彼は私だけが見ている、幻覚だったのだろうか。
それとも、見えないだけで存在していた、幽霊だったのだろうか。
ただの、一歩も外に出ないまま育った、存在しない人間だったのだろうか。
その答えが出ないまま、弟はどこかに消えてしまう。
行ってほしくないと思う。
お母さんが子供の死体を隠していたように、祐貴を留めていたいと思う。
大好きな家族なのだから、いつまでも離れたくないと思う。
……けれど、私が選んだ道は、お母さんと同じではなかったから。
「ええ……そう。そうよね」
私は涙を拭って、笑ってみせる。
上手く笑えただろうか。
私は笑顔を浮かべたことが、本当に少ない。
自分が人間なのかどうかすら分からなくなってしまった祐貴は――
お母さんが消えて、全てが暴かれたあとだって、きっと現実に戻ってくることはできない。
だから今、何もかもを曖昧にして、どこか彼方へと消えていくのだ。
それは誰にも知られないまま、死んでもいないし、生きてもいない。
そうして本物の怪異となる。それでいいと思った。
なぜなら、それが私たちの愛した……大切なもので。
他の誰かが決めた、正しい価値や常識とも違う。
理不尽で、謎めいていて、美しい。夜の恐怖だったのだから。
「ありがとう。姉さん。いつまでも……世界で一番、姉さんが好きだ」
「私こそ……ずっと、ありがとう。祐貴」
祐貴はもう一度、私を抱きしめた。
その最後の体温を、今でもずっと覚えている。
「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
――私には弟がいた。
いつも笑っていて、楽しそうで、優しい弟だった。
―――――――――――――
静まり返った夜に秋の風が吹いて、電線を揺らす。
彼方に聳える鉄塔は、その影の隙間に明るい月を隠している。
都会の中でも冷たい星が瞬いて、まるで生きているように私に囁く。
私は、両手を広げて、道路の真ん中を歩いている。
いつか……正木先輩と一緒に、この道を歩いたことを覚えている。
……私の住む街。昼間の姿を、誰もが知る街だった。
けれどその全ては夜の神秘を浴びて、私たちだけが知る、美しい世界に変わる。
そうして、先輩と私は。二人で、思いつく限りの世界を探検した。
その一つ一つを、私は思い出していく。
人の噂で閉め切られた、廃病院を。逆向きに渡ると、物音に追われる橋を。罪人を追いかける、錆びた鋏を。公園のどこかにある、バラバラ死体のゴミ箱を。いないはずの子供が消えた、無人の民家を。人知れず取り壊されていく、市民体育館を。地下トンネルから伸びた、6番目の通路を。
もしかしたらその恐怖は、他の誰もにとって、価値のないものだったのかもしれない。
――それでも。
誰かと競う必要も、誰からも奪ったりする必要もなく、私たちは満たされていた。
夜の町並み。虚ろな幻。
私と先輩には、それさえあればよかった。
静まり返った踏切に、あの日の夕暮れを思う。
その向こう側で、淡く光る蝶の群れが、空を横切っていく。
「……綺麗」
他の誰にも見えないものを、私は見ることができた。
私は、はじめて一人で夜を過ごす。
空葬テラー 珪素 @keiso_silicon14
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