「そう」


 長い沈黙を隔てて、お母さんはやっとそれだけを言った。

 顔を覆った両手から、重い溜息が漏れた。


「……どうして分かったの?」


 柘植つげさんは、どうして家の元の持ち主を知りたがったのだろう。

 下の名前さえ分かれば、女性だったかどうかが分かった。

 あるいは、一緒に住む家族がいたのかどうかを気にしていた。

 赤ん坊を人知れず隠していた可能性があったかどうかを、知りたがった。


 ――もう一人いたのか。


 私の家にはもう一人、死体のことを知る人間がいたのだ。

 脱色の跡のある髪の毛は、私のものでも正木先輩のものでもない。


 最初に物置を見た夜、私は箱の木目に触った。

 その他の全部に分厚いほこりが積もっていたはずなのに、木目の感触に気づくことができた。

 ……それは、物置に出入りできた誰かが、頻繁に触れていたものに違いなかった。

 ずっと、お父さんはいない。

 だからそれがいつのことなのか、誰との間の子供なのか、私には分からない。

 どうしてそれを隠していたのかも知らない。


 けれどあの赤ん坊は、いつかお母さんが産んだ子だ。

 お母さんが家族にもひた隠してきた、罪の証拠だった。


「……本当に……お母さんなんだね」

「ごめんね……お母さん、もう、どうしたらいいかわからなくなっちゃって」


 机に突っ伏すように頭を抱えて、お母さんはそう続けた。

 ノックが聞こえたあの日と同じくらい、疲れきっているように見えた。

 

「あんたは知らないだろうけど……正木まさきさん、うちに泥棒に入ったのよ」


 そうだ。隠し続けていた死体がなくなったと気付いたとき、お母さんはひどく捜し回ったのだろう。

 他の陶磁器を、めちゃくちゃに壊してしまうくらい……必死に。


「勝手に物置をこじ開けたり……それで、ちょっとね……お母さんの、大事なものだったから……誰が盗んだかも分からないし、もう、パニックになっちゃってて……そしたら、夜の帰りに……正木さんが」


 お母さんは夜勤が続いていて、帰りはいつも遅かった。

 そしてあの日は起きてこなくて、私が一人で朝の支度をしていた。


「あの箱を持ってて」


 ――二度とやめろ。箱も返せ。


 正木先輩はその夜に返しにきた。そして。


「渡しなさいって言ったのに、すごく抵抗して……突き飛ばしたら……ああ……その時は全然、暗くて見えなかったのよ。目の……目の高さに、あんな柵が……助けようと思ったときは、もう……」

「……嘘だ」


 あの正木先輩が、抵抗したはずがない。

 正木先輩はひどい人だったけれど、柘植さんに責められても、一度も言い訳をしたりしなかった。

 罪の意識も後ろめたさもなく、微笑んで、箱を返したに違いなかった。


 なのにお母さんは、さらに先輩を突き飛ばした。


「先輩は……先輩は、素直に渡したんだ」

「だ……だって仕方ないでしょう!? あんなニコニコして……! 怖くて、もう私、目の前が真っ赤になって――」


 仕方ない。


 お母さんは……仕方ないと、言った。


 正木先輩は、祟られて死んでも仕方のないようなことばかりをしてきた。

 いつだって怖がらされてばかりで、良い思い出なんて、ひとつとしてなかった。

 だけど。


「……ねえ、もう……どうしよう。お母さんが捕まっちゃったら、あんたはこの後どうなるんだろうとか、お母さん……最近そういうことばっかり考えてて……逃げちゃったほうがいいのかとか、自首したほうがいいのかって……」


 お母さんは、いずれ相応しい裁きを受けることになるのだろう。

 全てを知った柘植さんは、あの後すぐ、警察かどこかに、私の保護の手立てを探しに向かったに違いなかった。

 そのわずかな一日だけ、何も気づかず、姿の見えない呪いに立ち止まっていれば、それで全ては終わったはずのことだった。

 だけど。


「……それだけなの?」


 あの通夜の日の、父親の嘆きを覚えている。

 私の心の、半身を喪ったような孤独を覚えている。


 ――あの人だけは。

 一時の怒りの、稚拙な殺人なんかに、汚されていい人ではなかった。


「ねえ、答えて……! 本当にそれだけなの、お母さん!」

「ああ……そうね。正木さんが、あんたをいじめてたから……それで、懲らしめようと思ったのも、あったのかも……」

「そんな……そんなことじゃない!」


 強く目を閉ざして、私は叫んだ。

 お母さんと私の世界がこれほどまでに断絶していたことを、信じたくなかった。

 どうしてこの人は、恐れることができないのだろう?


 一人の人間を、殺してしまったのに。

 何もしていない私でさえ、ずっと恐ろしくてたまらないというのに。

 夜の全てに、死の世界の全てに、どうして平然としていられるのだろう。


 缶ビールを飲みながら、恋愛か何かのドラマを見て。

 幼い頃に恐れた暗闇に、いつも無神経でいられる、大人に――いつか誰もがなってしまうのだろうか。


「私は……」


 ……この人は、かけがえのない夜の恐怖を踏みにじった。

 この世でただ一人、私と一緒の世界を生きた人を殺した。

 その罪に、気づきすらもしない。


 私は、はじめの一言を告げた。


「私は知ってるよ」


 お母さんのことを愛している。私には、裁く資格なんかないと思う。


 けれどそれは、私の世界の全てだった。

 許せない。


「なに言ってるの、七子……」

「――ねえ、お母さん。取り返した箱に、赤ん坊は入っていなかったんでしょう」


 私は正木先輩の、深く、黒い色を思い出している。

 最初に出会ったときのあの瞳を、どうして馴染みのある色だと思えたのだろう。

 今の私はその理由を知っている。


 ――夜色のまなざしを、私は開いた。


 私に見えているものを、この人にも見せてやる。


「赤ん坊は……どこに帰ればいいのか、わからなくなったんだ」

「な、なんで……? なんであんたが、あの子のこと」

「あの子は、生まれてすぐに……不幸なまま死んだから。死んでからも、誰にも弔われないまま、ずっと隠され続けてきたから」


 お母さんの狼狽をまったく無視して、畳み掛けるように言葉を続けた。

 そうだ。私にだけははっきりと見える。今も、ずっと見えている。


 後ろを追いかけ続ける、這いずる音が。

 日常を蝕むように漂う、死の匂いが。

 この世から見捨てられた、誰かの呪詛が。


「だから……誰か代わりの母親をほしがってた」

「やめて……! やめて! やめてよ! あんたに何が分かるの!?」

「お母さんも聞いたでしょう!? あの扉の、すぐ前まで這ってきた! 中に入れてくれる人を、探してたんだ!」

「嘘よ!」


 嘘だ。

 何もかもが嘘だと、私は知っている。

 すべては幻視で、いつも起こるはずのないことばかりを私は見ている。


 それはこの世のものではない。霊視ですらない。

 私が持っているのは、自分自身を怖がらせることしかできない、目だけだった。

 何のためにこの目を持って生まれてきたのか、それがようやく分かった。


「ねえ……お母さんも聞こえるでしょう! ズルズル、カサカサって……ずっと、ついてきてる!」

「嫌……! 何なの!? あの子が……あの子が私を恨んでるはずない! どうしてそんな酷いこと言えるの!? 私の娘なんでしょう!? あなた、七子なんでしょう!?」


 お母さんは立ち上がって、唇を震わせて叫ぶ。そして何度も、確かめるように自分の後ろを振り返る。

 私はただ歩みを進めて、瞳にその姿を映している。


「正木先輩は……先輩は扉を開いて、赤ん坊を、家の中に入れてあげた。そうでしょう? だから先輩は、箱を持ってた! なのに、お母さんは先輩を殺して……そのとき奪った箱の中には、どこにも赤ん坊はいなかったんでしょう!」


 ――そうね。……私が持って帰ったの。


 そうだ。先輩は正直に答えていた。あの日、先輩は箱だけを持っていった。

 だから箱だけが物置に戻って、その中身はからっぽだった。

 お母さんは、何かの物音を遮ろうとするように、自分の耳を塞いでいた。この世のどこからも聞こえない音に、それは無意味だった。


「ああ、もう……どうして……! おかしいのよ……あなた、頭がおかしいのよ!」

「私の頭はおかしくなんかない!」


 私は、はっきりと叫んだ。

 私の頭も、目も、おかしくなんかない。


 この世の誰でも、自分だけの世界を見て生きていることを、私は知った。


 正木先輩が、ただ一人で夜の世界の美しさを見ていたように。

 柘植さんが、誰よりも正しく、霊魂や呪いの正体を見ていたように。

 先輩のお父さんが、噂とは正反対の、無邪気で愛しい娘を見ていたように。

 お母さんが箱の中に、存在しない赤ん坊の姿を見ていたように。

 ……私の目は夜の暗闇に、他の誰にも見えないものを見ていた。


 それはきっと、他でもなく。私が心に望んだことだったのだろう。

 この目に見えてしまうものを恐れる自分を、嫌悪していた。

 けれど、見えなくなってしまえばいいなんて、一度だって思ったことはなかった。

 誰にも否定させない。16年も、私をここまで歩ませてくれた、頭と目だ。


「私にははっきり見える! 地面を這って……ずっと、追いかけてきている……! 今すぐにも、お母さんに追いつく! それが……正木先輩を殺した、罪なのよ!」


 今は私自身が、恐怖を紡ぐことができる。

 私はどこにもない空想を告げる。


 恐ろしいと思う心は、一体どこから来るのだろう。

 私は、どうして何かを恐れるのだろう。


 ――全ての恐怖は、最初から私の内にある。

 誰かに恐怖を与える術を、今の私は知っている。


「もう、いい……もういいから……これ以上、そんな、怖いことを言わないで。もう何するか、お母さん、分からないから……!」


 まな板に置いてあった包丁を、構えたのが見えた。先輩にそうしたように、それで私を黙らせようと思ったのかもしれない。

 これが柘植さんの恐れた結末のひとつだったのだろう。

 けれど、お母さんは知らない。


 人間よりも、お化けのほうが怖い。


 お母さんは知らない。現実が揺らぐような幻覚に、ずっと耐え続けてきた。一人で歩けない夕闇の孤独を、ずっと味わってきた。先輩と一緒に夜を歩いて、本物の呪いを、死者の情念を、ずっとこの目で見つめてきた。

 その儚く尊い恐怖を、何ひとつ知らない。


 この人にとっての現実の恐怖なんて、ただ痛くて、死ぬだけだ。

 私は――人間の悪意や狂気ごとき、いまさら何も怖くはない!


「ほら……もう聞こえるはずよ! あの子が来る! すぐ近くにいる!」

「やめて! 七子! あなたみたいな、狂った子は……」


 金切り声と一緒に、包丁の光が振り上げられたと同時。

 私は、ずっと携えていたスポーツバッグのジッパーを、思い切り引いた。

 それはまるで産声のような音だった。



「――ここに!」


 まるで切り開かれた子宮のように、バッグが開いて――

 そして、干からびた赤ん坊が、その目を見た。



「うっ……ああ。う……うぅぅ……」


 振り上げられた包丁も。お母さんの瞳の動きも。何もかもを。

 すべての時間を、恐怖が止めた。


「――ひううううぅぅぅぅぅ……!!! うううううあああああああ!!!」


 悲鳴が全てをつんざいて、お母さんは逃げ出した。

 扉を開け放って……得体の知れない、夜の暗黒の只中へと。



 そうして、二度と戻ってくることはなかった。 



 残された私は、膝を崩したまま、スポーツバッグをじっと見下ろしていた。

 この世から去ってしまった正木先輩が、ただひとつ残したものだった。


「先輩――ようやく、分かりましたよ」


 頭のおかしな人だった。

 私には、先輩の考えていることが分からなくて。

 先輩だって、きっと私の心を分かっていなかった。


 ……柘植さんが、箱のことを問い詰めたとき。

 先輩は、じっと私を見つめていた。何かの合図を送ろうとしたように見えた。 


 置き忘れられた重いスポーツバッグを、私がわざわざ返すわけがなくて。

 その中にはずっと、先輩が持ち去ったはずの、箱の中身が入っていた。

 きっと、私は怖がっただろう。それはとても素敵なことに思えた。

 ……理不尽で、謎めいていて、美しい。

 正木先輩と、私だけが愛した……夜の恐怖だった。


 ――ねえ、七子さん。恐怖と友達になることはできない?


 この世でただ一人、先輩だけが私の心を分かっていた。

 やっと私だけが、先輩の心を分かった。


 残された私は、一人ぼっちの、からっぽの赤ん坊を抱きしめている。

 ……どうして、そうしたいと思ったのだろう。

 ストールに包むように死体を抱いて、私は夜の目を静かに閉じる。


「……先輩」



 そうだ。私と先輩は、友達だった。

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