正木まさき先輩に出会った日のことを覚えている。


 一年生の通常授業が始まって、帰りが夕方になってしまうその日にも、私は一緒に帰ってくれる友達を見つけることができなかった。

 誰もが互いの距離を測りかねていて、中学の頃とはすべてが違っていた。


 一人また一人と教室から人が消えはじめた頃、私は部活動の声に人の気配を求めた。美術室を、化学室を、体育館をうろうろとさまよって、孤独の幻覚から逃げ回る、むなしい抵抗を。

 いっそのこと、誰か先生を見つけ出して、私の事情を洗いざらい話してしまおうかと考えたりもした。けれど見かける人たちは誰もが急がしそうで、私のような、おかしな子供の話を聞いてくれそうな人など、一人もいないように思えた。


 校庭から響く運動部の声もまばらになって、足元から夜の指先が這い登ってくることを、私は恐れた。

 帰る勇気を持てないまま、闇が追いついてくる。そうしたら、きっと恐怖が心を押しつぶしてしまう。


 廊下に座り込んだ私は、窓の向こうを淡く染める、藍と緑の、夜の兆しを見上げる。

 そして私の前に、正木先輩があらわれた。


「どうしたの?」


 誰もが当然思うであろう疑問を、そのときの正木先輩も口にした。

 しかも私は、すぐに答えることができなかった。


 初めて見たときから、正木先輩は、月が舞い降りたように綺麗で――

 この世の人とは、とても思えなかったから。


「あ、え」

「一年生の子ね。どこか、具合が悪い?」


 膝を抱える私のすぐ隣に行儀よくしゃがんで、先輩は私の目を覗いた。

 深く、黒い色だった。どこか馴染んだ色のような気がして、けれどそのときには思い出せなかった。


「よ、夜が……怖いんです」


 ……そう答えるしかなかった。誰にも理解できない恐怖を、誰かに打ち明けてしまいたかった。

 そして先輩は、心底不思議そうに訊く。


「怖いだけで、動けなくなるものなの?」

「……そうです。一人で帰ることも、できないくらい。何かが潜んでいそうで。戻ってこれなくなりそうで」


 遠くの部室の中から、男子たちが誰かの冗談に笑う声が聞こえた。


「私の目には、お化けが見えるんです」


 どうしてこの人の前では、素直にそう言えたのだろう。


「そう。うらやましいわ」


 ――おかしなことを言う人だ。

 自分のことを棚に上げて、私はそう思った。

 私にとっての恐怖は、精神を苛む障害でしかなかった。ましてや羨むことなど、あり得ない話だった。


「私は夜もお化けも好き。生まれつき、怖いものが好きなの」


 そうして正木先輩は、ぽつぽつと自分のことを語った。

 夜の散歩は、昼間とは何もかもが違っていて……静かで冷たい景色が、いつもの町に広がっているように思えるのだと。

 そこには信号機の光と、星だけがただ瞬いていて、道路の真ん中を歩いたり、線路に入ったりしても、誰も咎めたりしないのだと。


 整然と並ぶ電線の影が、明るい月光に差し掛かって。

 一人寂しく、かすかな川のせせらぎを聞いて。


 そうしていると、どこか本当に向こうの世界の、恐ろしいものに出会えるような気がするのだと言った。


「私は変かしら」


 先輩はそう言って、くすくすと笑う。

 初対面の人間にそんなことを話す先輩は、やっぱり変だった。


「……いいえ……素敵な……」


 ――そうだ。そのときの私は、確かにそう言った。


「素敵なことだと、思います」


 きっと、そう思えた。

 この人の語る夜の世界は、私の夜とは違って、とても美しいものに満ちているような気がした。


「ねえ。よかったら、一緒に帰りましょう」


 ――ああ。

 どうして先輩は、私に声をかけてくれたのだろう。

 恐怖を恐れる私と、恐怖を愛する先輩とでは、何もかもが正反対だったはずなのに。


 そうして、先輩と私は。二人で、思いつく限りの世界を探検した。

 人の噂で閉め切られた、廃病院を。逆向きに渡ると、物音に追われる橋を。罪人を追いかける、錆びた鋏を。公園のどこかにある、バラバラ死体のゴミ箱を。いないはずの子供が消えた、無人の民家を。人知れず取り壊されていく、市民体育館を。地下トンネルから伸びた、6番目の通路を。


 大人だって耐えられないような恐ろしい目に遭いながら、それでも私は夜を歩いて行けた。

 隣には正木先輩がいた。


「ねえ七子ななこさん。怖いと思う心だけは、本物なの」


 いつか先輩が、そう言ったことがある。


 笑わなければいけない。悲しまなければいけない。怒らなければいけない。

 そのようなとき、人は感情を偽ることができる。

 けれど……恐れなければならない、と思うことだけはないのだからと。


「だから私は、七子さんが好き」


 その時の微笑みを、思い出せる。

 私といるとき、先輩はいつだって嬉しそうだった。


 ――恐ろしいと思う心は、一体どこから来るのだろう。


 私は、どうして何かを恐れるのだろう。


―――――――――――――


「……姉さん?」


 心配そうな祐貴ゆうきの声が聞こえて、私は静かに目を開いた。

 椅子に座り込んだまま、いつの間にか夜を迎えていたことを知った。


「ごめん。祐貴……心配かけたね」


 とても長い間、考え続けていたような気がする。

 柘植つげさんと別れてから、ずっと彼女の言葉の意味を考えていた。


「電気、つけなくて大丈夫だったの」

「……うん。平気。もう少しだけ、このままでいさせて」


 自分でも不思議なくらい優しい気持ちで、そう言うことができた。

 私だけが一人、恐怖の断崖に取り残されて。

 あの夜みたいに、何もかもを捨てて狂ってしまうべきだったかもしれない。


 けれど、踏みとどまっていたかった。何かをしなければならないと思った。

 柘植さんが私の心に、その勇気を残していてくれた。

 いつか、今の気持ちが嘘みたいな恐怖が蘇るのだとしても、それは今ではなかった。


 ――恐怖と戦う。


「私は、見えたものの意味を考えたらいけないって思ってた」


 ……それはきっと違ったのだろう。


 考えなければ、分からない恐怖に怯えたままだった。

 学校の成績も悪くはなかった。本当は、私は考えることができたはずだ。ずっと。

 あのとき柘植さんに真実を気づかせたものを、私も同じように見ていた。


 私を苦しめる恐怖の正体を、私はきっと知っている。


「ねえ祐貴。物置を最初に見たとき……私は、本当に赤ん坊を見たのかな」


 自分自身の胸の内と対話し続けるように、暗闇の祐貴に向かって問う。

 今の私は、二人分考えていることができる。


「……それは、たぶんそうだ」


 答えは、闇の中から返る。


「その時は、姉さんと、正木さんがいた」

「……けれど私は、幻覚を見ていたかもしれない。正木先輩は、嘘をついていたかもしれない。赤ん坊があった証拠は、どこにもないよ」


 自分自身が信じられないから、いつも世界が不確かだ。

 だから私は、ひとつひとつ、信じられるものを見つけていく必要があった。


「じゃあ姉さんは、どうしてそう思うの?」

「柘植さんが見ている」


 ――子供か。


 レストランで、柘植さんに会った日。

 私が何かを言う前から、その存在をはっきりと霊視していた。

 物置での柘植さんは、見つかるはずのものが見つからなかったことに狼狽していたのだ。


「たとえその場にいなかったとしても、柘植さんは私と違って……本物の目を持ってた。だから……やっぱり赤ん坊の死体は、あったんだよ」


 そうだ。そこから考えを始めることができた。全ての始まりは、あの死体なのだと。

 そうして、一番大きな違和感に進むことができる。


「柘植さんは……どうして、私を怖がらせるようなことを言ったんだろう」

「元気づけてくれたんじゃないの? わざわざ、怖がらせることを?」

「……うん」


 私は頷いた。今ではそう思う。

 柘植さんはきっと本気で私を心配して、助けたいと思ってくれている。


 ……だからこそ、恐ろしい何かを仄めかして、何も教えてくれないことだけは、何よりも普通でなかった。

 姿の見えない恐怖に怯える人を安心させることが霊能者の仕事で――柘植さんには、その才能があったのだから。


「柘植さんは……たぶん、嘘をつけなかったんだと思う。だから一番大切なことを言ってしまわないように、隠そうとした……」

「……姉さんに知られてしまうと、いけないことだった?」


 柘植さんの言ったことはすべて本当のことだったと、信じることができる。

 だから、言わなかったことにこそ、この呪いの真実がある。

 いつも単純なぶんだけ……何かを誤魔化すときには不器用な人だったから。 


 私が不幸になることは決まっていたから、安心させる言葉を言えなかった。私が恐れで考えを止めることが必要だと思っていたから、恐怖を解く言葉を言えなかった。

 ――そしてとっくに、柘植さんには手の施しようのないことが起こっていた。


「待ってれば、全部終わるって言われたの。だから本当は、ここから先を考えちゃいけないのかも」

「……それでもいいと思うよ。僕は」


 ベッドに腰掛ける祐貴の影が、身じろぎした。


「姉さんが自分から怖いことを考えて苦しんでるのは、似合わない。なんか……見ていて辛いよ」

「でも祐貴は、恐怖と戦えって言ってくれたじゃない」

「それは、そうだけどさ」


 ばつの悪そうな声が返ってきて、私は小さく笑った。

 そうだ。もしも柘植さんの思いを裏切ってしまうのだとしても――

 私は真実を知りたい。


 たとえ恐怖に直面することになったとしても、自分自身を救いたい。


「……じゃあ、あと二つだけ。祐貴は、藤上篤敬って人のこと、知ってる?」

「知らない。前に住んでた人かな」

「うん。姉さんも、知らない。……柘植さんはどうだったのかな。でも……あれも必要な質問だったんだ」


 もしかしたら、藤上という人が、霊能者の間で知られた恐ろしい呪術師で……

 柘植さんすら勝ち目のない呪いを、物置へと残していった。

 そんな無意味な想像をする。


「残り一つは?」

「最初に……正木先輩と、物置に入ったときね。箱に、指が触れたの」

「……うん。それで、赤ちゃんの死体を見つけたんだよね」

「そのときは不思議に思わなかった。でも……私は」


 ――指。


 後に立て続いた、あまりにもたくさんの恐怖に押し流されてしまって。

 その怪異は、無意識に胸につかえた、かすかな違和感でしかなかった。

 けれど、それが私が最初から得ていた、答えなのだ。


「木目に触れたの」


 机の下には捻じ曲がった、四肢のない猫がいて、緑に光る目で私を見ていた。

 私は座ったまま、じっと目を合わせている。今はそうすることができた。


 恐ろしいと思う心は、一体どこから来るのだろう。

 きっとその答えを得た。


「聞いてくれてありがとうね、祐貴。じゃあ、行くから」

「行くって……どこに。こんな時間に」


 私は、先輩がただひとつ残したスポーツバッグを肩に提げる。

 重い工具の金属音が、中で小さく響く。

 それが必要になる気がした。

 

「待って……! 姉さん、一人じゃないか! もう外は真っ暗なのに!」

「大丈夫」


 手を握って、私は笑ってみせた。

 祐貴のように、うまく笑えただろうか。今度は、誰かを安心させられる顔ができただろうか。

 私が何もかもを止めてしまいそうだったとき……支えてくれたのは、存在しない弟だった。


「私は一人で歩いていける。きっと終わらせられる」

「僕は……」

「大丈夫だよ。祐貴。今まで、ありがとうね」

「そうか……そうなんだね」


 後ろに残した祐貴がどんな顔をしているのか、私には見ることができない。

 でも、どこにもいない弟は、どこか満ち足りた笑いを浮かべたような気もした。


「姉さんがそうなれたなら、良かった。……僕がいたことは、無駄じゃなかった」


 階段を降りていく。ずっと慣れ親しんだ私の家。

 廊下から見えるリビングでは、いつもみたいに、お母さんがテレビを眺めながら、ぼんやりとお酒を飲んでいる。

 胸の中から、思い出が涙になって溢れてしまいそうだった。

 

 祐貴もお母さんも、大切な私の家族だった。

 毎日食べたご飯の味も、姉弟で一緒に眠った日も、感想文の賞を喜んだことも、仕事を放り出して夜に迎えにきてくれた日も、覚えている。

 私は、闇を歩くことのできない目を持って生まれてしまったけれど、それでも私の人生は、幸せだったと信じられる。

 ――家族だから、どこかに行ってほしくないと思う。

 祐貴の心は、私の心でもあった。


 その遠い温かさを、永遠に失ってしまう。

 私はもう、柘植さんが私に知らせたくなかったものを知ってしまった。

 これまで遭遇してきた怪異と、何もかもが異なるもの。

 全てが変わってしまう恐怖を。


「ん? なに? ……七子」


 私の提げるスポーツバッグを見て、お母さんが怪訝な表情を浮かべる。

 別れを告げなければいけないことが苦しくて、リビングへと向かう自分の足が止まればいいと、強く願った。


「……お母さん」


 けれど、そうできなかった。



 許せない。



「正木先輩を殺したんだね」

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