柘植つげさんは、すぐに返事を返してくれた。

 ずっと私を心配してくれていたことが、短い文章からもよくわかった。

 正木先輩のことについて知ったのも通夜の後だったそうで、その時にはもう、私のほうが全部の連絡を絶っていた。

 ……本当に馬鹿だ。


 それでも、私は恥を重ねる勇気を出さないといけない。

 住所を告げて、お母さんのいない昼間に、柘植さんと会った。


七子ななこちゃん、大丈夫?」


 柘植さんの車は前に見たときと違っていたけれど、前と同じくらいには傷だらけに見えた。


「今日は、おつかれって言わないんですね」

「……ごめん。でも七子ちゃんが無事でよかったよ」


 柘植さんは、なぜか謝った。

 気遣いを悟らせてしまったことを言っているのなら、人が良すぎると思った。


「ちょっといい?」


 私が何か答えるよりも早く、柘植さんの手が私を抱き寄せている。

 小柄な身長で背伸びするようにして、私の髪に顔をうずめる。


「……よーし、ちゃんと風呂入ってるな。ご飯も食べてる? 偉いぞ」

「ちょっと、恥ずかしいですよ」

「へへ! まあね。あたしもだよ! そう思ってくれるのも、やっぱりいいんだ。恥ずかしいってことはさ、自分のことがどうでもよくないってことだろ」


 わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でられて、私は笑いたいような、泣きたいような気分になった。

 柘植さんの目はいつも険しくて、怒っているようだ。なのに本当は、全然違う。


「……物置、見に行きますか」

「いや。パンケーキだ。パンケーキ食おう。どうよ七子ちゃん、あたしはパンケーキも食うようになったぞ。おしゃれなやつをな……! 二人分持ってきたからな」


 自慢げに持ち上げた洋菓子屋の袋には、透明なプラスチック容器の中にカットされたパンケーキが確かに入っていて、綺麗に飾られたそれは、どちらかというとパフェか何かのように見えた。

 いつでも、柘植さんは本気で努力をしていた。彼女のなりたい姿になってほしいと、心から思う。


 リビングには朝にお母さんが淹れていったらしい、コーヒーメーカーの残りがあって、それを温めて、二人分のカップに注いだ。


「……おいしいですね」

「まあまあかな! フフフ」


 少しの間だけ、私たちはそんな当たり障りのない話だけをした。

 恐怖で頭がいっぱいになっている相手にこそ、そういう手順が必要だった。


 日差しが窓から差し込んでいて、私の目だけに、駆け回る小さな影を映している。

 誰かのいない昼間の家は、とても平和な世界のように思えた。


「……ごめんなさい、柘植さん」

「んー? 何が?」

「柘植さんも……皆も心配してるのに、私は、こんなで。連絡も取れなくて……情けないです」

「馬鹿言うな。あたしも他の連中も、好きで心配してんだ。人間には心配欲ってのがあるんだよ。俺が見てるぞって言うだけで、誰かが助かるといいなって思う、怠けの心がさ。自分勝手なんだ」


 頭を下げた私にそう言い放って、柘植さんはふと遠くを見た。

 自分勝手な人のことを思い出したのかもしれなかった。


 カラスが飛び立つ音が聞こえた。


「正木はなんで死んじまったんだろうな」

「……先輩は」

「いや、いい。起こったことは大体知ってるからさ。でも……やっぱり、納得行かない」


 顎の下で両手を組んで、真剣な声色で言った。


「あいつに何も憑いてなかったのは確かなんだ。あたしはあの時点でできることをした」

「……わかってます」

「だから……本人に何も憑かせずに、そういう気配もなしに、何かができる仕掛けがあるんだとしたら――どういうやつなのか、あたしには正直見当もつかない」


 たとえば、サシエツミのときのような。

 柘植さんの力でも、どうにもできない相手かもしれない。

 彼女はそう言っている。


「よっし、じゃあ物置行くか」

「あ、えっ、はい!」


 突然柘植さんが立ち上がるせいで、裏返った、変な声になってしまった。

  

「怖いか?」

「……いえ」


 まばたきを忘れて、私は首を振った。


「怖くは、ないです」


 今が、昼間だから。昨日の祐貴ゆうきの言葉があったからだろうか。

 あるいはきっと、柘植さんの優しさのおかげで、これまでのようには怖くはなかった。

 あの夜の探検から、初めて……もう一度あの物置へと行ける気がした。


「信じるよ」


 それ以上を聞かずに、柘植さんは先を歩いてくれた。


―――――――――――――


「……七子ちゃん、何もいないぜ」


 物置の扉を開けながら、柘植さんは念を押すように言った。


「七子ちゃんにも、何も憑いてない。大丈夫だ」

「……は、はい……はい」


 私は、頷くというよりも、項垂うなだれるように答えた。


 足元には、血のようなタールのような、粘性の何かが絡みついている。

 物置の中から溢れ続けるそれが、私を沈めて、地面の底のどこかに連れて行こうとしている。

 そういう感覚の全てを、幻覚だと信じ続けていなければならなかった。


「……荒れてる」

「えっ」


 柘植さんの小さな背中に隠れて、物置を覗く。

 そこには破片が散乱していた。

 中に置かれていたたくさんの陶磁器が、まるで嵐の後みたいにひっくり返されている。


「正木はこんなことするか?」

「ち、違います……私たちの時は、こんなじゃなかった」

「だろうね。あいつは乱暴なやつじゃなかったよな」


 やっぱり、この物置こそが怪異の震源なのだろうか。

 足元を浸すぬかるみの幻覚が、不快な体温を帯びたように思えた。


「……妙だ……妙だ」


 柘植さんは、苛立ったようにぶつぶつと呟きながら、物置の中へと入っていく。

 人の暮らす住宅街の片隅にある、小さな、何の変哲もないプレハブ小屋にしか見えていなかった。

 それはずっと私の家にあって、ただ、人の目に触れていないだけの場所だった。


「七子ちゃん」


 視線を少し上げて、柘植さんが棚の上を睨んでいる。

 見覚えのあるものだった。


「箱っていうのはあれだな」

「なんで……」


 頭を殴られたような感覚に襲われて、私は壁に背をついた。どうして。

 ――戻ってきている。あの夜に、返されないままのはずだった箱が。

 そうだ。先輩の遺品の中に赤ん坊のミイラが見つかったなら、もっと大きな事件になっていておかしくなかった。

 なのに、それはどこにもなかった。私の家にあったのだ――


「……そこはいい。こいつが返ってきてるのは分かる」


 口元に手を当てて、柘植さんは冷静に呟いていた。何が分かるというのだろう。

 私の困惑を置いて、柘植さんはもう箱を開いている。


「例えば正木が返したとして……いや、おい。どういうことだ、七子ちゃん」


 それでもすぐに、柘植さんの声に動揺が走った。


「七子ちゃん、何を見たんだ」


 箱を覗き込んだまま、半分笑うように言った。

 何か、あり得ないものを見たに違いなかった。


「本当に赤ん坊の死体だったのか? これはちょっと……ヤバいぞ」


 そう言って、箱の中身を見せた。


「……う、うっ」


 呼吸が乱れて、止まらなくなる。そんな。私は、確かに見ている。先輩も見ていた。

 箱の中には……白い布の奥には。


 何も入っていなかった。からっぽだった。


「違う、違うんです……柘植さん。私、嘘なんかついてない……!」

「……深呼吸。深呼吸しろ。どこでも酸素はある。生きてる奴らのための空気だ」

「でも、どうして……!? 箱はあって、中身は……中身だけが、消えて……!」

「分からない。分からなくなってきた。ヤバいな」


 柘植さんは親指を噛んだ。まだ、何かを考え続けてるように見えた。

 その視線が、私と、からっぽの箱を往復した。


「分かってる。七子ちゃんのほうを信じることにする」


 私の目がおかしいだけだと知っているはずなのに、そう言ってくれる。


「箱はいい。中身がないのは、絶対におかしいんだ……どこに行った? どこにある」


 それから、ふと思い立ったように、箱の中から何かをつまみ上げる。

 色褪せて縮れた、髪の毛のように見えた。


「そうか」


 柘植さんは愕然として言った。


「――もう一人いたのか」


 私は、その言葉の意味を尋ねようとする。

 柘植さんは自分の頭を壁に叩きつけた。2回、3回。

 目の前で起こるなにもかもに追いつけなくて、私は見ていることしかできなかった。


「ああ、くそっ……そうか。そうか……そもそも、そういうことだったのか」

「あの、柘植さん」

「七子ちゃん。この家の前の持ち主、どういう奴だ。家族はいたのか」


 前に住んでいた人。この物置の、本当の持ち主。

 その日の朝、隣のお婆さんにその人のことを尋ねたとき、持ち合わせのすべての勇気を使い果たしていたかもしれない。

 震える声で言う。


藤上ふじがみさんって人が、一人で」

「下の名前!」

「ふ、藤上ふじがみ……篤敬あつよし。70歳くらいの……人付き合いのない、お爺さんで。四国のほうに越していったって」

「藤上篤敬」


 名前を確かめるように、柘植さんは低く呟いた。

 そうしてもう一度、壁に強く頭を打ち付けた。

 額からは血が流れていた。


「なるほどね……オーケー。オーケー……。大体……いや、まだ……分かんないか。そうだとしたら、赤ん坊の死体が、消えたことだけが……」


 血を拭って、私を振り返った。


「ごめん七子ちゃん。あたしは大馬鹿者だ。もしあの世に行くときは正木に謝らなきゃな」

「何、何言ってるんですか。変なこと、言わないでください……。何が起こってるのか……あの、教えてくださいよ、柘植さん」


 柘植さんには、いつもすべてが見えている。何が私たちを恐れさせているのかを、教えてくれる。

 現象を止めることが恐怖の終わりではない。

 ただ一つ、知ることだけが……恐怖を終わらせられるのだという。


「駄目だ」


 必死に考え続けているようだった。私にかける言葉を。自分のやるべきことを。

 柘植さんの足元から、泥のような血溜まりが、ずっと溢れ続けている。本当にそれは、私だけに見える、錯覚だろうか。


「……最初から、あたしの手に負えるようなものじゃなかった。こんなのは、専門外だ」

「嘘……! 柘植さんは、なんだって解決してきたじゃないですか! どんな幽霊にも勝てるって言ってたじゃないですか!」


 柘植さんは俯いたまま、私の肩を叩いた。

 それでもその弱弱しさは、まるで私の肩を支えにして立っているかのようだった。


「七子ちゃん。悪いけど何も教えてやれない。理由も七子ちゃんには言えない。七子ちゃんも、この物置のことは……もう探ったり考えたりするな。それで終わる」


 無敵の柘植さんが諦めるなんて、あり得るはずのない出来事だった。


「できるわけないじゃないですか! だって私はこんな、弱くて……いつもいつも、恐ろしくてたまらないのに!」

「待つだけでいい。何もせずに待ってれば、七子ちゃんは大丈夫だ。大丈夫なようにする。今は行くところがある。そっちで何かあったら、すぐ連絡しろ」


 ――教えることはできない。柘植さんの手には負えない。けれど、私に害を及ぼすことはない。

 わからない。わからない。わからない。この呪いは、わからないことだらけだ。

 生温い、とてつもなく嫌な予感だけが、私の裏側を這い回りつづけている。


 そんな私を慰めるように、柘植さんは爪先で背伸びをして、私の額に額を当てた。


「……これからのことにだって、耐えられる。七子ちゃんには、何も憑いていない。本当は……その目は、すごい才能なんだ。七子ちゃんは、自分で思っているより、ずっと恐怖に強い子だよ」


 私は恵まれている。こんなに沢山の人に気にかけてもらえて、なのに何もできない。


「強くなれよ、七子ちゃん」


 知らないうちに、涙を流していた。柘植さんでも手に負えない恐怖が恐ろしくて。

 柘植さんだけにすべてを背負わせていることが、ひどく悲しかった。


「柘植さん!」


 私は、去っていこうとする柘植さんの後姿を追った。

 その日の柘植さんは、緑色のチュニックに白い花柄のスカーフで、やっぱり全然似合っていなかった。


「お願いです! 教えてください。教えて……」

「それは無理だって言ったろ」


 柘植さんは苦しそうに笑った。


「違う……! そんなことじゃない! 柘植さんは、なんで私なんかを助けてくれるんですか! 私だけじゃない、皆! 柘植さんには、なんの得もないのに!」

「ははっ……なんだよ。今更か」


 ポケットに手を突っ込んだまま、柘植さんは振り返る。

 いつでも怒っているような顔だった。


「あたしが無敵の霊能者だからに決まってんだろ」



 何が起こっているのか。何が起こりつつあるのか。私には全てが分からないままだった。

 ただ、小さくなっていく柘植さんの車の影を見ながら、ずっと泣いていた。


 もしかしたら、本当は分かっていたからなのかもしれない。

 柘植さんが逃げたわけではなかったということも。

 何も教えてくれなかった、その理由も。


 その日の夜にはもう、何もかもが変わってしまったから。

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