それから数日は、昼も夜も、部屋の中に篭って暮らした。

 一緒に帰ってくれる人がいなくなって、お母さんに、あんな無様な姿を見せて。

 恥と恐怖で、もう私は、真昼に外に出ることすらできなくなった。


 幻覚とも現実とも区別のつかなくなった怪異だけを、私は見ている。

 磨りガラスの向こう側にいる何かが、ずっと部屋の中を伺おうとしている。

 窓の外の物置からは、タールのような何かが溢れ続けて、庭を浸している。

 そして、祐貴ゆうきだけがずっと一緒にいる。


 結局……何がいけなかったのか、私には分からない。

 赤ん坊を見つけてしまったことか。あの物置を暴いてしまったことか。それとももっと前。正木先輩と夜を歩きはじめた頃から、こうなることは決まっていたのか。

 何に呪われているのかすらも分からないまま、私は死んでいこうとしている。


 それは立ち上がれなくなるほど理不尽で、抗いようのない恐怖だった。


「外に出なきゃ駄目だ」


 祐貴はそう繰り返す。心の奥底で、私がそう思っているのだろうか。


「本当におかしくなるよ。朝のうちなら大丈夫じゃない」

「……私は、おかしいもの」


 膝の間に頭をうずめる。

 あの通夜のときに、壊れてしまったわけではないのだろう。

 私の頭は、とっくにおかしい。生まれた時から、きっとそうだった。


 それに、外に出たところで、何か意味があるとは思えなかった。

 どんな霊障も寄せ付けなかった正木まさき先輩すらも死んでしまった呪いから……私なんかが、どうやって逃げればいいのだろう。

 私が持っているのは、自分自身を怖がらせることしかできない、目だけだった。

 未来の望みが絶たれた中で何かをマシにしていくことなんて、到底できるとは思えない。


「それに、外に出ろっていうなら、祐貴こそ出なきゃおかしいよ。ずっと家に篭りっぱなしなのに」

「そうかなあ」


 祐貴は、困ったように笑った。私がこんなに追い詰められているのに、いつも変わりのない、緊張感のない笑いだった。


「出るときは、僕と一緒じゃなきゃ嫌?」

「嫌とかいいとかじゃなくて……祐貴は……ずるいよ。なんで幻覚のくせに笑ってられるの……? 人間じゃないのに、私の悩みなんて分からないでしょう」


 私は、ひどく滑稽だ。

 何も解決しないまま、自分で自分の弟の幻覚に八つ当たりをして、甘えている。

 完全におかしくなった人間の振る舞いだった。


「そういえば、なんでだろうなあ」


 祐貴は笑っている。私と違って少し癖っ毛で、髪の色も薄くて、一歩も家の中から出ないから、とても綺麗な顔をしている。

 もしも私に弟がいたのなら、きっとこんな顔をしていたのだろうと思う。


「ずっと怖がったり、悩んだりしてる姉さんの幻覚なら、僕もそうなるほうが自然なのに。なんだか、いつも笑ってるよね、僕は」


 祐貴は、まるで他人事のように言った。


「でも――そうだな。例えばホラー映画を見るとき、隣ですごく怖がってる人がいるとさ。自分はあまり怖くないって話を聞くでしょ? それと同じなのかも。姉さんが何でもかんでも怖がってくれるおかげで、僕はあんまり、世の中が怖くないんだな」


 私は、正木先輩の微笑みを思い出そうとする。

 祐貴とは全然違う笑いだったけれど、あの人も、私といる時には、いつも微笑んでいた。

 ――だって七子さんは、私の代わりに怖がってくれるじゃない。


「……じゃあ、私の安心とか楽観主義とかは、みーんな……祐貴が持ってっちゃったんだね」

「そうかもね。ごめん」


 笑ったままで、祐貴は素直に頭を下げた。

 ずっと、子供の頃から、祐貴と一緒にいれば、私は安心できた。

 もしもこのままおかしくなって死んでしまうのなら、そのときは祐貴と一緒がいいと思う。


 この世のどこにもいない幻覚だけれど、私の弟だった。


「――ねえ。このまま私が死んじゃったら。祐貴はどうなるの?」

「消えるのかな。幻覚だったら消えるよね。でも、消えなかったらいいな」

「……悪魔かもしれないもんね」


 悪魔のほうがいい、と、今では思う。

 部屋の壁紙が、無数の虫が這うような形に盛り上がっている。

 壁と床の境目がずっと、柔らかく広がって、暗いどこかの陥穽が覗いていた。


「だからさ。なんていうか……やっぱり姉さんには生きてもらなわきゃ困るよ。僕は悪魔かもしれないけれど、本当に幻覚かもしれないんだから」

「……もう、無理だよ。もう、皆、私のことをおかしな子だと思ってる。学校にもずっと行ってないし、きっと授業だってついていけない。……学校からだって、帰れない」

「普通だよ」


 祐貴は、大げさに両手を広げた。


「知り合いがひどい死に方をしたんだから、学校なんて一週間や二週間、一年だって休むよ。そんなの仕方ない。学校なんて早退すればいい。正木さんが死んだのを利用するんだ。ショックで午後まで授業なんて受けられないよ」

「……駄目。そんなの、やっぱり……普通じゃないから」

「普通のまま死んだって、誰も褒めてくれないよ」


 祐貴の説得を聞いても、私の心には無力さの波紋だけが広がっている。

 私だって、本当は普通が好きなはずはなかった。

 ただ、ずっと恐ろしかった。


 いつの間にか、他のどこにも、私と同じ人がいなくなってしまうことが。

 お母さんや柘植さんみたいな、私の好きな人たちに見捨てられてしまうことが。

 それなのに、普通ではない何かに惹かれてしまう自分の心が、恐ろしかった。

 正木先輩は……私のそういう心の部分を、向こうの世界へと、ごっそりと持っていってしまった。


「……祐貴。今までありがとうね」

「ありがたくないよ! 話終わってないだろ!」


 祐貴が、私を止めようとしている。

 何もかもが、ただの幻覚なのに。私だけは、祐貴の体温まで錯覚できる。


 けれど、私には見えていた。


 ――正木先輩が、すぐそばにまで来ている。

 あの人の白い素肌を、もう扉越しにも見ることができる。

 見る影もなく崩れきった部屋の向こうに、あの人がいる……


「……先輩」

 

 そうだ。普通じゃなくてもいいのなら、向こう側に行ってしまったほうがいいのだろう。

 祐貴がいなければ、正木先輩がいなければ、とっくにそうなっているべきだった。

 どうにもできない恐怖と絶望が待っているなら、そうしたほうがいい。

 この祐貴だって、ただの狂気の産物に他ならないのだから。


 ……いつの間にか、私はふらふらと歩き始めていた。

 緩い寝間着が肩を滑り落ちて、夜の冷気がさざなみのように染み込んでくる。


 近くで見た先輩の瞳を、白い肌を、微笑みを、澄んだ匂いを、私ははっきりと思い出せる。

 先輩のことが、大嫌いだ。けれどもう一度、連れて行ってほしい。


「お願い」


 私から奪っていった、夜を愛せる心を、返してほしい。


「また、二人で……」



 けれど手を伸ばしたところで、私の足は止まった。


「――駄目だ」


 反対側の手を、祐貴が掴んでいた。

 これまでの柔らかな態度が嘘みたいな力だった。

 私を引き戻そうとしていた。私を見ている。


「行っちゃ駄目だ」

「……どうして」


 笑っていない祐貴と、私は初めて目が合った。


「私、もう死んじゃうんだよ! 目が、串刺しになって、死ぬの! 怖いのは嫌……もう嫌なの……! 嫌……嫌……もう、おかしくなりたい……」


 それ以上の力は入らなくて、手を引かれるように、祐貴に寄りかかって倒れた。

 あの日のように蹲って、泣くしかなかった。

 扉の向こうの影は、ぶくぶくと形を崩して、どこか恐ろしいところへと消えていく。

 ……そうなのだろうと分かっていた。


 私の背中を、祐貴の手が撫でている。


「うまく言えないよ。でも、僕は……姉さんに、ここにいてほしい」


 優しい声だった。どんな恐ろしい夜でも、私を安心させてくれる声。

 何よりも得体の知れない悪魔のくせに、いつも。


「普通じゃなくても、いてほしいと思うし、普通でも、どこかに行っちゃうのは嫌だ。家族ならそう思うんだよ。だから駄目なんだ」

「――でも、幻覚じゃない。あなたは……私の見ている、幻覚じゃない。ねえ……祐貴……」


 ……ああ。

 私が、あなたを作り出しているのに。

 私は、お姉さんなのに。


 祐貴は全然、言うことを聞いてくれない。


「……もしも姉さんが見ているのが、本当にどうしようもない、逃げられない呪いだったとしてさ。姉さんが引っ張られて倒れたくらいで、今は逃げられちゃうんだよ」


 顔を上げて、部屋を見た。壁紙の虫も、扉の向こうの影も、今は見えない。

 いつもみたいに笑う祐貴の顔は、涙の視界に滲んで見えた。


「じゃあ、どうしようもないってことはないよ。相手は油断してるんだから。何でもいい。戦うんだ。姉さんのできることでも、今なら戦える」


 そう言って、強く私の両肩を掴んだ。


「恐怖と戦うんだ」


 恐怖と戦う。


 それはさっきの言葉と同じような、根拠も何もない、詭弁だった。

 恐怖を愛する正木先輩にも、恐怖から逃げようとする私にも、誰にも似ていなかった。


「――柘植つげさんに」


 自分でも、その一言が口をついたことに驚いたのだと思う。


「柘植さんに、もう一回頼めれば……私には、何もできないから。……誰かに、頼るしかないから」

「そうだね」

「あと……あと、前に……住んでた人のことを調べる。どうして、あんなものがあったのか……」

「そうだ。そういうことだってできる。……それは、姉さんだからだよ」


 ゆるゆるとベッドへと戻る私の背中を、祐貴はまだ撫でてくれている。

 携帯電話の電源を、随分久しぶりに入れた。

 メールアプリを開いて、短い言葉で、やっとメッセージを送る。


 ……ただそれだけで、ひどく力が抜けて、眠りに落ちてしまいそうになる。

 それを見て、祐貴はいつものように窓の方へと離れていく。


「待って」


 今度は私が、その手を弱く掴んだ。


「――一緒にいて」

「ええー……参ったなあ」


 祐貴は、今度は照れたように笑う。

 気の抜けたような、緊張感のない笑いだった。


「姉弟だけど、もう添い寝するような年じゃないよ、僕ら」

「……幻覚でしょう」

「でも、お腹すいたから」

「……嘘つき。幻覚なのに、お腹なんてすくはずないよ」


 気恥ずかしそうに笑いながら、祐貴は背中を向けてベッドに並んだ。

 本当は、いないはずなのに。私の頭がおかしいだけのはずなのに。

 その背中は温かくて、こうして抱きしめることもできた。


「……ごめん……ごめんね……ごめん」


 私は泣きながら、彼の背中へ顔を埋める。

 恐ろしい。苦しい。申し訳ない。死んでしまいたい。

 私は、まだ踏みとどまっていられるだろうか。


 少なくとも、祐貴に触れている間だけは、そうできるような気がした。


「大丈夫。大丈夫だ」


 この世に存在しない弟は、まるで子供をあやすように、静かに、繰り返し言った。

 それが自分自身の幻想に逃げ込んだ、惨めな救いだったとしても。


「世界で一番、姉さんが好きだよ」


 

 私の呼吸は、少しずつ静かになる。

 いつかのような、穏やかな眠りがやってくる。

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