顔
思えば、私が通夜に出る義理なんてなかったのかもしれない。
あの人にはいつだって怖がらされてばかりで、良い思い出なんて、ひとつとしてなかった。
納棺された先輩の顔を、興味本位で覗きにきただけのような男子生徒も見た。
第一発見者の私は警察で軽い聴取を受けたけれど、ただそれだけだ。
先輩は深夜に死んでいた。他のことは、何もかも不明のままだった。
皆が囁いている犯人などが、果たして見つかるのだろうか。
恐怖を覚えない大人たちの、浅い想像のように思えてならなかった。
痴情のもつれで殺されたのだろう、という噂が聞こえてきたとき、私は洗面所で吐いた。
正木先輩の死に、そんな汚らしい理由を押し付ける考えが信じられなかった。
頭を上げた鏡の背後に、まったく同じ背丈で立ち並んだ、眼窩のないたくさんの顔を見て、もう一度吐いた。
……そのことの他は、うまく感情を動かさないまま、式を終えることができたと思う。
夜の幻視はあらゆる不吉な想像をかき立ててきたけれど、
何もかも、先輩の自業自得だ。
いつ祟られて死んでも仕方のないことを、正木先輩はしていたのだ。
いくら
正木先輩を襲った呪いや、物置の夜への想像を、止めていなければならなかった。
「あなたが、
法要が終わった後で、横合いから呼び止める声があった。
まったくそんな心当たりはなかったので、その一言に随分肩を縮めたと思う。
「はい。そうです……けど」
「ああよかった。いつも、娘から話は聞いていました」
声をかけてきたのは、正木先輩の父親だった。
喪主挨拶のときに見て、やつれて疲れきったような印象を覚えていた。
この人が……あんなに美しかった先輩の父親だとは、とても信じられなかった。
「あの子が随分、ご迷惑をおかけしたと思います」
「いえ……そんなことは、全然」
私は嘘をつくしかない。
先輩には迷惑をかけられてばかりだった。どうやって埋め合わせをするつもりなんだと、棺に問い詰めたっていいくらいだった。
そういう気持ちを押し殺して、まだ、まともな人間のようにいられた。
「……私にとっては、可愛い娘だったんです」
先輩の父親は、弱々しく呻いた。
話しながら、また泣きそうになっているように見えて、私はすごく困った。
「あの、わかります」
「だから……本当に、お礼を伝えておきたくて」
「――お礼」
「はい……はい。あんな子でしたけど、一人だけ、友達ができたと」
友達。
この人は嘘をついているのではないか、と思う。
その言葉はそれほどに――私が想像もしていなかった表現だった。
「……ここ一年くらい、娘はずっと楽しそうでした。私と仲良くしてくれる子がいるって……あの子の口から……そんな言葉を聞いたのなんて……は、初めてで」
私の戸惑いをよそに、父親は話し続ける。
「家にいるときでも、ずっと寂しそうでした。わかるんです。中学から……高校に行って。話の合う友達も、どんどん少なくなって……親の私も、こんなですから……」
いつかの、夕焼けの踏切の光景。
先輩は笑っていただろうか。それとも別の表情だっただろうか。私には何も思い出せない。
たとえ夕陽の影に隠れたのだとしても、
寂しそうな先輩の表情を、私は思い描くことすらできなかった。
――寂しいのは怖いわ。でも、どうすればいいのか分からないから。
「友達に。友達になってくれて……ありがとうございます。すみません……娘のことをわかってくれて、ありがとうございます。きっと、あの子も幸せだったと思います」
「いえ……。その、ああ……違うんです、そんな、これ……泣いてるんじゃなくて」
ボロボロと涙が流れて、自分では止められない。
……違う。違うと言いたかった。嘘をつきたくなかった。
私は、先輩のことなんか分かっていなかったのに。
先輩だって、きっと私の心を分かっていなかったに違いないのに。
正木先輩のことが大嫌いだった。
「すみません、すみません」
父親も、私と同じように涙を流しながら、私の両手を強く握っていた。
正木先輩の体温とは何もかもが違う、痩せた、温かい手だった。
「もう一度……もう一度でいいので、お別れを言ってやってくれませんか。寂しくないように。すみません……ど、どうして……私みたいな親から、あの子が生まれたんでしょうね……」
私は何も言えずに、しゃくりあげながら立ち尽くしている。
「もっと……もっと、美味しいものを食べさせてあげればよかった。もっともっと、友達と遊んでほしかったんです。もっと……私は、それだけで……あの子の好きに生きて、楽しんでくれれば……」
――正木先輩の評判で、悪い噂を聞かない日はなかった。成績もひどいと聞いていた。
誰もが、先輩のことをおかしな人だと思っていた。
こうして、棺の中にいる先輩を見ても、そう思える。そう思いたかった。
私の心に湧き上がってくる、理不尽な悲しみの波が許せなかった。
「き……綺麗でしょう。顔は……女の子の、宝ですから……だから、それは本当に、専門の方に……してもらって……」
嘘だ。生きていた先輩は、もっと綺麗だった。
幽霊のように透き通って、白骨のように白くて。
こんな、本物の死体ではなかった。
「こんな綺麗な子が生まれて……だから、い、生きてた頃みたいに……綺麗に……」
――嘘だ。嘘だ。
私は知っている。
誰も、正木先輩の本当の姿を知らない。
月光の下で、夜を歩いて、恐怖を紡ぐ先輩は、もっとずっと綺麗だった。
「……」
あの日のカラスの羽音が、まだ私の頭の奥底で鳴り響いている。
幻覚のはずなのに、私の後ろでは、ずっと何かが這いずっている。
秒針の音が、カチカチと進んでいる。
言葉を告げられないまま立ち尽くしていて、
泣きはらした父親がどこかにいなくなっても、私はずっと先輩を見下ろしている。
「――ひどいですよ、先輩」
長い沈黙の後で、その一言だけが言えた。
方法が分からないからって、ひどいことをすることはなかったじゃないですか。
あなたは私を怖がらせて、楽しんでいたじゃないですか。
どうしてお父さんを残して、危ないことばかりをしていたんですか。
……私は、どうすれば先輩を分かってあげられましたか。
何を言っても、もう伝わることはない。
まるでどこにでもいる人間みたいに焼かれて、区別の付かない灰になってしまう。
あの父親にとって、何かの間違いで授かったような、ただ一人だけの人だったのに、何もかもが分解されて、なくなってしまう。
ふと、ネズミが何かを引っ掻くような音が聞こえた。
……顔を上げると、私だけを残して、辺りは夜の帳に包まれている。
もともと少なかった参列者は、もうとっくに会場から立ち去っている。
「ああ」
少し開いた扉の隙間からは、白い手がぞろぞろと生えて、縁を掴んでいた。
換気扇の向こうから、人ではない何かが、ひそひそと話す音が聞こえてくる。
――そして、やっと理解する。
「ああ……あ……」
もうこの世のどこにも、私と一緒に帰ってくれる人はいないのだと。
「……いや……」
力が抜けて、腰が崩れる。自分の呻きが、自分のものではない。
ここには私一人だ。私を取り囲んでいるのは、恐怖しかいない。
「……いや……!! いやだ……!」
正木先輩がいなくなって、私は。
夜の闇の中に一人で残されて、もう一歩も歩き出すことができない。
「いやぁぁっ!! あああああああ!!! うあああああああああっ!!!」
私は叫んでいた。
まるで頭のおかしい人みたいに、臆面もなく、蹲って、泣いて、悲鳴を上げた。
ずっと――これまでずっと、そうではないように装えていたのに。
それを聞いた誰かが迎えの車を呼んでくれるまで、そうしていたのだろう。
正木先輩は死んだ。
そのときの感情が恐ろしさなのか、悲しさなのか、後悔なのか、
私にはなにもかも分からなかった。
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