柘植つげさんの話をしたい。

 テレビに出るような霊能者ではないから、きっと分かる人は少ないと思う。

 そもそも、霊能者と呼ぶことすら適当ではないのかもしれない。

 けれど……怪異を祓うことにかけて、柘植さんは間違いなく天才だった。


 その手の肩書きを名乗る人たちの――その大半はインチキで、しかも先輩が面白半分に連れてきたものだけれど――誰もが手の施せないような呪いの正体を、柘植さんだけがはっきりと見て、こともなげに解いてみせたことが、何度もあった。


 私の視覚が本物の霊視ではないことも、その出会いの中でわかった。

 それは存在する怪異とは何の関わりもない、的外れな恐怖の像でしかなかったのだと。


 そして柘植さんが待ち合わせに使う場所は決まって、その日のようなファミリーレストランのチェーン店だった。



「おつかれ七子ななこちゃん。大変だね!」


 5分遅れて現れた柘植さんは、まず私に向かって片手を振った。

 怪異を祓う相手への第一声として、そういう縁起でもない冗談を好む人だった。


 私は席を立って、きちんとお辞儀を返す。


「……お世話になります、柘植さん」

「おう。……で、正木まさき


 そのまま柘植さんは向かいの席に乱暴に腰を下ろして、私の隣に座る先輩を睨んだ。


「お前いい加減にしろよ?」

「――こんにちは、柘植さん」


 正木先輩は、アイドルみたいに整った笑顔で、その鋭い視線を受け流している。

 私にはとても理解できない。


「300万」


 不機嫌な声で続ける。


「相場で、取るとこあるらしいんだよね。あたしは取らないけど。でも正木お前、このまま続けるようなら、マジで取るぞ。あたしの大学の学費がいくらか知ってるか? お前払うか?」


 柘植さんの格好も、その頃は最初に会った時の黒コート姿から随分変わっていた。

 この日は淡色のブルゾンに赤いフレアスカートだったように思う。彼女の姿はいつも、ファッション誌から懸命に継ぎ接ぎしたような、無理をした装いのように見えた。

 いつも何かを睨んでいるような表情のせいで、そんな印象を抱いてしまうのかもしれない。


 ……それでも、そうして柘植さんが普通の女子大生のように装っていく姿は、まともな人間になりたいという願いを、自分の手で少しでも近づけているように見えた。


「柘植さんに無理なら、私はいいのよ。きっと楽しいから」

「お前がよくても七子ちゃんが駄目だろうがよ。ほら、七子ちゃん」


 柘植さんは舌打ちして、ぶっきらぼうにメニューを放る。


「なんか頼め。遠慮しなくていいから。嫌なことあったんだから、その分いい思いしろ」


 ――柘植さんはお金を取らない。

 生まれつきできてしまうことなのだから、取らないのだと聞いたことがあった。

 理由のない才能に生活の手段を頼ってしまったなら……いつか理由もなくそれが失われたとき、困るのは誰でもない、自分自身なのだからと。


「こいつのほうは自腹だけどな! へへーっ! バーカ! 呪い死ね!」


 さらに正木先輩を指差して笑う。

 先輩は、お構いなく、とでも言いたげに微笑んで、首をかしげる。


 柘植さんの優しさに甘えている自分を、情けなく思う。柘植さんは私なんかよりもよっぽどしっかりしていて、なのに私はこの人に対して、何の見返りも差し出すことができない。

 ……けれど、正木先輩と柘植さんの3人でいる時間は、この目に苛まれていた私にとって、居心地がよかった。

 姿の見えない恐怖に怯える人を安心させるのが霊能者の仕事なら、やっぱり柘植さんには、間違いなく霊能者としての才能があったのだろう。


「で、何が起こった?」


 私に無理にデザートを注文させたあとで、柘植さんはようやく尋ねた。

 彼女のやり方では、怪異のことを一旦忘れさせてから聞くのだ。

 恐怖で頭がいっぱいになっている相手にこそ、そういう手順が必要なのだと。


「……私の家に……庭に、前の人の時から置いてある、物置があるんです」

「ああ、そう」


 柘植さんは特に真剣な風でもなく、気怠げに肘を突いて、窓の外を眺めていた。


「先輩と一緒に……その中を一度調べてみよう、ってことになって」

「おい正木、殴るか?」

「うん」


 何に対しての『うん』なのか、柘植さんと一緒にいるときの正木先輩は、大抵はとても機嫌がよかった。

 柘植さんはとにかく正木先輩のことを毛嫌いしていて、それが面白かったのだろう。


「それで……その中で見つけたのが」

「箱か。布――木の箱か」


 よそ見をしたままの柘植さんは、窓の外の何かに焦点を合わせているように見えた。


「はい。そ……それで、中に」

「子供か」


 返す言葉もなく、私はこくこくと頷いた。

 一方で隣の先輩は、嬉しそうに、黒い瞳を輝かせていた。


「オーケー。オーケーだよー……大体わかった。で? 七子ちゃんはどう思う? 七子ちゃんは、その捨て子を拾ったわけだ。それで今、何が起こってると思う?」

「それ……は」


 私は口籠った。柘植さんは、私の目が狂った妄想を見ていることを知っている。

 それでも、信じて話さなければ、きっと逃れられない恐怖だった。

 だから柘植さんに頼るしかなかったのだ。


「……赤ちゃんが……ずっと、私の後ろをついてきます。たぶん、決まった形のない影みたいになって……音が聞こえるんです。ズルズル、カサカサって……」


 見えたもののことを考えてはいけない。それは私が、自分に課したルールだ。

 考えてしまえば、狂気の沼には際限がない。私はそれを自覚している。


「……だ、だから、私たちを恨んでいるんだと思います。誰かが、何か……儀式か、呪物とかで。あの物置に封じてたんだと思います。でも私たちが鍵を外して、中を暴いて、それで――」

「それで、何が起こった」

「……」

「具体的にどうよ?」


 深呼吸をして、私は心を元に戻す。あの夜のことを思い出そうとする。


「それが、玄関のドアを、叩きました。トン、トンって……軽い音で。ノックの位置が、すごく低かったんです。きっと、這ってきたから……! それに……正木先輩の玄関にだって、来てたんです。その夜にすぐ、私のところにも……」


 沈黙が、少しだけ続いた。

 店員がハンバーグセットを柘植さんの前に置いて、ようやく柘植さんはニヤリと笑った。


「……いいね。前から思ってたけど七子ちゃんさ。作家になると、きっといいよ」


 その笑い方で、自分がすごく愚かなことを話したような気になって、私は狼狽した。


「ば、馬鹿にしてるんですか。本当にあったことなんです。本当に……嘘じゃないです……」

「ああごめん、これ褒めたつもりなんだけどな」


 ばつが悪くなって、ティラミスに口をつけた。ただのバニラアイスのような味がした。


「じゃあさ。その箱、どこにある。当ててやろうか。正木のとこだ」


 付け合わせのポテトを食べながら、柘植さんは左手で正木先輩を指した。

 それは、私も同じ考えだった。


「だろ? 正直に言えよ」

「そうね。……私が持って帰ったの。楽しそうだから」

「な……んで、そういうことするんですか」


 正木先輩は、じっと私を見つめた。何かの合図を送ろうとしているように見えた。

 夜の色の瞳。私には……先輩の考えていることが、何も分からない。


「それならさ、なんで正木の家の中にいる奴がわざわざ外に出てドアをノックするんだよ」

「えっ」


 私たちを追いかけてきているのは、あの赤ん坊だと思っていた。

 でも、確かにそれはおかしいような気もする。


「……し、死体が置かれてたのは私の家だから、その……霊は、物置から出てきてるとか」

「余計におかしいだろ。じゃあ赤ん坊が庭から正面玄関に回り込んで入ろうとするわけか。庭にすぐつながってる戸口があるんじゃないのか」


 柘植さんの言う通りだった。

 廊下の先を覗いたところで、庭までが見えるわけがないのに。


「あとお前、正木。お前んちは団地だっただろ、確か」

「そうね。行ってみたいの?」

「大馬鹿者。赤ん坊は階段の上までワープしたのか? そいつができるなら、なんで直接、自分の死体の置いてある部屋の中には行けないんだよ」

「そ……そんな。どういう意味なんですか、それ」


 いくら柘植さんが変わったタイプの人とはいえ、あまりに霊能者らしからぬ物言いだった。

 そもそも、怪異に対してそんなを求めて良いものなのかすら、私には判断できない。


「まあはっきり言うけど、七子ちゃんにも正木にも、ひどいものはついてないよ。正木には軽い水子がついてるけど、それくらい」

「でも、それが……あの子供なんですよね?」

「多分ね? でも、そもそも水子って、それ自体は大したことしないよ。産んだ本人なりが気を病むほうが、むしろ問題としては大きいわけでさ」


 話しながら、柘植さんはポケットから道具を取り出している。

 全体がびっしりと赤黒く錆びついた、古いはさみだった。


 そうして正木先輩の横に回り込んで、つむじを掻き分けるように探る。


「えーと、オンサンマヤサトバン……はい終わり」


 頭の上でさくりと鋏が閉じて、他の誰にも見えないものを切った。

 柘植さんの浄霊はいつも、そのようなものだった。


「ありがとう、柘植さん。とても困っていたの」

「嘘をつけ」


 唾を吐き捨てそうなほど凶悪な人相で、柘植さんは毒づいた。


「犯人はこいつだ」


 ――私は絶句して、正木先輩を見た。


「そもそもこいつの言ったことは大嘘だよ。七子ちゃんを怖がらせようとして、変なこと思いついたんだ。どうだ正木。そこのところは」


 ドン、と肘を突いて、刑事みたいに問い詰める様が、あまりにも似合っていた。

 とにかくその時の私は、そんな間の抜けた考えしか思い浮かばないくらい、放心していた。


「――そうね。どうしてそう思ったのか……」


 正木先輩には微塵の動揺もなく、憂うように目を伏せて、コーヒーに口をつけた。

 首を傾けると、白い肌の上に一筋髪が流れて、滑稽なほど絵になる光景だった。


「あの日は寂しかったの。嘘をついてしまったわ。ごめんね」

「嘘って」


 ああ、そうだ。ようやく理解する。この人は正木先輩だ。

 誰にも分からない悪意で、人を振り回すことのできる悪魔だと、わかっていた。

 でも。そうだとしたら。


「でも……! 私、聞いたんです。幻聴じゃない! お母さんもノックの音を聞いて……!」

「だから、そこだよ」


 柘植さんは、呆れたように頭を掻いた。


「なんで赤ん坊がノックしたって思った?」

「だって、赤ん坊は……這うものだから。這わないと、あんなに低いノックなんて」

「だよな。七子ちゃんは、赤ん坊が這ってきたって……正木から聞いたんだよな」


 これはなんだろう。作り話の呪いなら、どうして現実に起こっているのだろう。

 それとも現実に起こしたことだから、作り話なのか。思考がぐるぐると堂々巡りをしている。

 まるで私が本当にバカみたいだ。


 トン、トン、と、足元で音が鳴った。


「……ほら。こんなの普通だ。分かるだろ、七子ちゃん」


 足元の音。私は、テーブルの下を見た。


「――足」


 ……足で、蹴ればいいのか。


 ひどい。

 頭がくらくらするようだった。こんな馬鹿らしい結論があっていいのか。


「ふふふふふふ。柘植さん、やっぱりすごい」


 コーヒーを手にしたまま、正木先輩は楽しくて仕方ないように笑った。

 私を怖がらせるためだけに、家の前まで来て。

 その音を私がどう受け取るか、保証もないのに。


「……信じられない」


 それだけを呻くのが精一杯だった。

 ……恥ずかしい。悔しい。情けない。

 そうだ。正木先輩は、本当は誰よりも分かっている。私がどんな物音にも怯えて、どんな恐れからも逃げたがっていることを。


 柘植さんはずかずかと歩いて、正木先輩の頭を思い切りはたいた。


「大馬鹿者。二度とやめろ。箱も返せ」


 そうして先輩は、まるでいつもの事件の終わりみたいに、綺麗な微笑みを向けるのだった。


「ごめんなさいね。七子さん」



―――――――――――――


 翌日の朝は、お母さんの代わりに、一人でパンを焼いて、野菜を洗って、そのせいなのか、逆にいつもよりも早く家を出てしまった。


 昔から、一人で下校することができない。

 夕陽が沈んで、空が夜へと変わっていく時から、私の恐怖は始まる。

 太陽が出ている登校の道でだけ、幻視は恐ろしくなかった。


「……なんだろう」


 電信柱の上の方でパクパクと開閉を繰り返すだけの唇を見て、そんなどうしようもない独り言も呟いたような気がする。

 追いかけてくる物音の幻覚は、もうどこにも見えなくなっていた。

 私は……あれだけ心を苦しめた恐怖が、こんなにも簡単に霧消してしまったことに対して、むしろ言いようもない理不尽さを覚えているのかもしれなかった。


 夜の闇は、いつも気まぐれに私の心をかき乱して、朝日と一緒に、嘘みたいに消えていってしまう。

 恐れて戸惑う私の気持ちは真実であるはずなのに、まるでその気持ちが偽りだったように思わされてしまう。

 それなら、いつも朝ならいいと思う。夜を夢だと思えるから。


 ……きっと、今日も私は正木先輩と帰るのだろう。

 あれだけひどいことをされても、夕闇が空を覆う頃には、それこそ今の気持ちが嘘みたいに、恐ろしくてたまらなくなっているはずなのだから。


 お母さんにどれだけ心配されても、柘植さんにあれだけ忠告されても、

 結局のところ私は、悪魔に振り回される、哀れな犠牲者のままだ。

 なにひとつ成長しない。


 薄青の朝に包まれた住宅街を行く。開きっぱなしの踏切を過ぎて、蜘蛛の巣のような電線を私は見上げている。

 朝のカラスたちが、ガアガアと忙しそうに鳴いていた。

 人通りのない路地を曲がって、いつもの帰り道のように、意味のない近道をした。


 そうして、いつも見慣れた柵に、誰かが寄りかかっているのが見えた。



 ガアガアとカラスが鳴いていて、吹き抜けた風が、長い黒髪をサラサラと流す。

 その人は、いつものように、黒い制服を着ている。


「……先輩?」


 はっきりそう口にできていたかどうかは、今でも分からない。


 目線の高さの柵だった。

 その尖った先端に、眼窩を深く串刺しにして、正木先輩はもたれていた。


 それ以外は、何もない。朝の住宅街の光景だった。


「ああ……」


 膝から力が抜ける。ずっと、頭の上で、ガアガアと鳴く声が聞こえる。

 先輩を取り囲む電線にびっしりと並んで、カラスの群れが見下ろしていた。

 その全部の顔には、人間の指が出鱈目に生えている。


 眼窩から柵を伝ったはずの血は、とっくに赤黒く固まっていた。

 夜を映していた美しい瞳には、今は無機質な光だけがあった。

 


 けれど。


 肌だけが……まるで生きているみたいに白くて、綺麗だった。

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