足
翌日の放課後の空は、雲の流れる様子が見えるくらい、強い風が吹いていた。
夕焼けはオレンジというよりピンク色に近くて、天頂の紺まで続く鮮やかなグラデーションが、電線の隙間からでもよく見えた。
ストールを抱くようにして校庭を進むと、風に揺れる長い黒髪が見える。
「……バッグ」
肩をぶつけるように、私は先輩を小突いた。
「私の家に忘れたままじゃないですか。どうするんですかあれ」
「そうだったの。じゃあ次は
「……やるわけないじゃないですか、あんな重いの」
言葉とは裏腹に、私は泣きそうな気持ちでいっぱいだった。
あの夜からずっと、恐ろしくてたまらなかった。
足が震える。背中を追って、何かが這う音が聞こえ続けている。
これまでとは違って、他の誰でもなく、私自身に関わりのある怪異だった。
自分の家こそが恐怖の震源だとすれば、他のどこに逃れればいいのだろうか。
先輩がいつものように待っていなければ、きっとそのまま、恐怖に押しつぶされてしまっただろう。
こんなにも怖い思いをしているのは、他でもない先輩のせいなのに。
情けない。恐ろしい。どうして、私の心は弱いんだろう。
「……先輩。先輩は平気だったんですか」
「どうしたの?」
「だって……あの赤ん坊は、あれは」
――先輩が持って帰ったんじゃないですか。そう言いたかった。
ずっとベッドで震えていて、あの後のことは見ていない。
それでも、きっとそうだ。
他に何か持っていくものがあったから……バッグを持ち帰ることができなかった。
警察や市に届出を出すとか、この人にそんな考えがあるはずがない。
……けれど例えば、あの赤ん坊が身元不明の死体として扱われて、あの箱に詰めた人間も分かって。
全ての呪いが解かれたなら、この私の恐れもいくらか消えてくれるのだろうか。
とてもそうは思えなかった。
「七子さんは、本当に怖がりね」
先輩はやや困ったように笑って、私の指先に触れた。
そこで初めて、先輩の制服の裾を強く握りしめていたことに気付く。
こんなに密着していたのか。あの、頭のおかしい正木先輩と。他の子たちにどう思われただろう。
死体のように滑らかな肌。
先輩からは、人ではなく、夜の空気の澄んだ匂いがした。
「怖いですよ。本当にこんなのがいいんですか、先輩。怖いのは、いやですよ」
「……それでも、私にとっては羨ましいものなのよ」
正木先輩は、穏やかに目を閉じて呟く。それは本心からの言葉のように思えた。
ずっと遠くで、信号機の光がチカチカと点滅している。
「先輩は……ずっと思ってたんですけど、先輩は、怖いって思ったことはないんですか。何か、怖かったことって」
気恥ずかしさと悔しさで、一歩遅れるようにして、私は先輩の後ろを歩いていく。
足元の側溝の隙間で、何かがまばたきをしている。
目線の高さでは、尖った柵の先端に、呼吸する奇妙なかたまりが刺さっている。
私を追って這う音は、ムカデのようなカサカサという足音に変わる。
けれどそのどれも、先輩に告げる気にはなれなかった。
しばらく歩いた後で、先輩は長い睫毛を開く。
「――そうね」
そうして、薄い月を見上げた。
「寂しいのは怖いわ。でも、どうすればいいのか分からないから」
先輩は、恐怖を解決する方法を知らない。生まれつき恐怖したことがないから。
生まれつき恐怖の見えてしまう私は、彼女に恐怖を与える術を知らないのかもしれなかった。
いつか、単調な踏切の音が、私たちを阻んだ。
甲高い夕焼けの音。
先輩が振り返ると、黒いスカートが遅れて翻る。
「ねえ、七子さん! 恐怖と友達になることはできない?」
そして、おかしなことを言った。
「……友達って、誰とですか」
踏切越しに見える電線には、カラスの影がいくつも並んでいて、そのうちの一羽からは、人の指が生えている。
生き物の原型も留めないほど、顔や嘴や羽根の隙間から、出鱈目に生えていた。
サシエツミの事件のときは、こんな幻覚をよく見た。
黄昏の中でも、私にはそれだけがよく見える。他の誰にも、見えないはずのものが。
「恐怖って……正木先輩のことじゃないんですか。こんな目や、頭と、友達になれっていうんですか。怖い思いをしてるのだって、正木先輩のせいじゃないですか!」
綺麗な微笑みだけが返る。いつだって、先輩のことを綺麗だと思う。
電車の轟音が、黒髪の後ろを通り過ぎていった。
頭のおかしな人だった。私には彼女の考えていることが分からない。彼女の価値観が分からない。
先輩のほうだって、私の心をきっと理解してはくれない。
だから……私は本当に、正木先輩のことが大嫌いだ。
「七子さん。私のところには、来たの」
日はいつの間にか落ちて、月光が先輩の後ろにあった。
……恐怖を語る正木先輩は、いつだって、とても幸せそうだ。
「あの子が……扉の前まで」
そしてその笑顔のままで、私を追い詰めることだってできた。
「――這ってきたのよ」
―――――――――――――
蓮根と鶏肉の煮付けだったと思う。けれど、その日の夕食は喉を通らなかった。
ドラマに集中しようとしても、どうしても物置の方角が気にかかった。
「どうしたの。食べないの?」
テーブルの向かいに座るお母さんが、怪訝な顔で私を見る。
夜勤明けで疲れているだろうに、心配をかけてしまっている。
「あのねー。まずいならまずいって言いなさいよ」
「ん……ごめん、そうじゃないから」
お母さんの機嫌が少し悪くなったことが分かる。やっぱり、疲れている。
箸を動かして、味のしないお米を口に含む。
「あんた、まだ正木さんに付きまとわれてるの?」
機嫌が悪いからだろうか。心配しているような、責めるような口調に聞こえた。
先生や……大人たちの言う正木先輩の評判で、悪い噂を聞かない日はなかった。成績もひどいらしいと聞いていた。
「付きまとわれてるっていうか」
「いじめられてるなら、親に言うから。変な人と付き合わないほうがいいよ」
「……うん」
お母さんは、それが簡単にできることのように言う。
缶ビールを飲みながら、恋愛か何かのドラマを見るお母さんは、血がつながっているはずなのに、私とはまったく違う人種のようだ。
……私も将来、そうなるのだろうか。
触れてはいけない人には近づかないで、女手ひとつでも子供を育てられて、暗闇を恐れたり、迷ったりもしない――大人に。
「僕は、正木さんのこと好きだけどな」
自分は何も食べないくせに、お母さんと私が食事する様子を眺めているだけで、どうやら幸せみたいだった。
「ああいう変な人、なかなかいないなって思うし。いつも楽しそうなのがいいなあ」
――顔が好きなだけじゃないの、と、心の中だけで思う。
他の誰かがいるときには、私は祐貴を無視する。祐貴もそれをわかっている。
今日も食卓には、お母さんと私だけがいる。
……だけど、私の頭もおかしいことを、お母さんは知らない。
「授業はどうなの? ついていけてる?」
「うん。それなりだけど」
「そ。じゃあよかった」
私は、正木先輩とは違う道に行けるのかもしれない。
先輩とは違って、少ないけれど友達はいるし、人と話を合わせられるし、成績だって悪くはない。
誰かに連れ出されないのなら、夜の探検にだって出たりはしない。
ただ、恐ろしいだけなのだ。
これから先の何十年も、一人で夜に歩くことを恐れ続けなければいけないのだろうか。祐貴のいない家で、私は一人で眠ることができるのだろうか。幻視はいつまで続くのだろう。私が異常だと知られてしまうのは、いつのことだろう。
恐ろしい、というただひとつの感情が、私の人生を狂わせている。
それはとても理不尽で、理由のないまま、目の前の道が閉ざされているようだ。
「姉さん」
最初に気付いたのは、祐貴だった。
トン、トン、と鳴る、かすかな音が、テレビの音声に混じって聞こえた。
玄関のドアから、音が。
「……そんな」
私は呻いた。
「ノック? ……誰」
お母さんも硬直したように、玄関を見ていた。
だからその音だけは、私だけに聞こえる幻覚ではなかった。
「……出ちゃ、駄目。お母さん」
とても軽い音だった。ただの来客ではないことが、私にはわかる。
来客であるなら、チャイムのボタンを鳴らすはずだった。それを押せるからだ。
「だって、それ」
ドアの下へと、視線を下げた。トン、トン。
――扉の前まで、這ってきたのよ。
「ノックの位置が、低い」
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