指
サシエツミ、という言葉を聞いて、心当たりのある人は多くはないと思う。
人に聞いた話だから、それが正しい名前なのかどうかも定かではない。
ともかく、閉館した市民体育館を探した日に、私たちはそれを見た。
いつもの探索とは違って、その日の私はそれほど怖がってはいなかったはずだ。
その時は休日の昼間で、隣の公園からは子供達の喧騒が響いていたし、閉館直後の体育館は綺麗に整頓されていて、何かが起こりそうな気配もなかった。
「小学生の頃を思い出しますよね」
などと、愚かなことを話した記憶すらある。
今になって思うと、正木先輩には、恐怖を探り当てる、ある種の才能があったのかもしれない。
あるいは、私たちが知らないだけで……日常を送る町並みの裏側には、いくらでもそういったものが隠されているのかもしれない。
できれば、前者のほうを信じていたいと思う。
「ねえ
杭打ち用ハンマーで体育倉庫の鍵を破壊する人を本当に見たのも、それが最初だ。
私が驚いていたせいもあるだろうけれど、窓からの逆光で、その時の先輩の表情の記憶もない。
「あれって、なんだろうね」
……マッチ棒を積んで、『井』の形に組んだもの、という印象だった。
その『井』を二段重ねたような白い物体が、床の中央にあった。
倉庫の中は、とても綺麗に片付けられていた。
まるでその物体を避けているみたいに、不気味なほどに。
後に起こったことについては、誰に話しても気分のいいものではないだろう。
結論から言えば、その物体を組んでいたのはマッチ棒ではなかった。
親指を除いた、人差し指。中指。薬指。小指。
それを両手で合わせて、8本。
一人分の人間の指先を、それぞれ四方に向けるようにして……積み木のように、骨が組まれていたのだ。
――一晩の間に、部屋の中が赤い指紋で埋め尽くされていることがあった。
恐怖の幻覚の中にも、異様なくらいに指のイメージが混じり込むようになった。
咳き込むと、私のものではない歯が、喉の奥から出てきたことがあった。
いつも笑っている
正木先輩については、翌日に用水路の中で目覚めたらしい。
夜のうちに少しでも増水していれば、そのまま溺死していたはずだと聞いた。
信じがたいほどの幸運で、どんな霊障も効かないように思えた、あの正木先輩が。
外を歩くと、学校にも家にも辿り着けないらしく、届くはずの携帯の電波が届かないことがあった。
あらゆる扉の先や、曲がり角の先が、知らないどこかへと繋がっているように思えてならなかった。
もしかしたら、そのまま永遠に戻ってくることはなかっただろう。
「一応、覚悟しててほしいんだけど。今回ばかりは駄目かもしれないよ」
私たちの知るかぎり、一番の霊能者の
それでも八方手を尽くして伝手は辿ったらしく、何もかもが手遅れになってしまうギリギリのところで、学者さんみたいな、妙な人を連れてきた。
手順を知っている人でなければ、対処することはできないのだと。
ちなみに正木先輩は、その時でも危機感なく、ニコニコと笑っていた。
サシエツミ、という名前は、その学者さんから聞いたものだ。
……本当なら、触れた正木先輩だけでなく、見ただけの私もとっくに死んでしまっているはずの、とても強い呪いだったらしい。
霊能の強い柘植さんだけではどうにもならない仕組みで、手順に従って解かなければ、さらにひどい事態になってしまうのだと聞かされた。
その人と、柘植さんとを合わせた4人で集まって、呪いを解くことになった。
「これは……おかしいですね」
その時の学者さんの第一声に、ぞっとした感覚を覚えている。
「指が逆向きに組まれてる」
手順に沿って解かなければ、さらにひどい事態になる。
迷わずそうするであろう人を、私は知っていたのだ。
「――正木先輩」
それ以上の言葉は、出てこなかったと思う。
「どういう組み方なのか、見てみたかったから」
先輩は、涼やかな声で答えた。
私も学者さんも……気丈な柘植さんですら、凍りついたように先輩を見ていた。
「……最初の日に崩しちゃった。やっぱり、やってみてよかった」
そうして、無垢な少女のように笑うのだった。
――正木先輩は、きっと悪魔に愛されていた。
この世の一切の恐怖を、受け付けることのない心を持って生まれてきた。
サシエツミの呪いですらも、正木先輩を恐れさせることはできない。
だからこそ……未だ自分の知らない恐怖を求め続けているのかもしれなかった。
誰もが使っていた体育館に、誰が、どういう意図でサシエツミを置いていたのか。
それは今でもわかっていない。
―――――――――――――
……私が庭に辿り着いた時には、案の定、南京錠は切り落とされていた。
ボルトカッターを片手に下げたまま、先輩は姿勢正しく待ち受けている。
左手にはアウトドア用のフラッシュライトだ。
もう少しくらい、自分の見た目の異様さを自覚してほしいと思う。
「早く行きましょう」
「先輩一人でいいじゃないですか。人の物置、勝手に壊して」
どうして私が、と、いつも考えている。
答えは分かりきっているのに、口をついて出てしまう不満だ。
「だって七子さんは、私の代わりに怖がってくれるじゃない」
そう言って、くすくすと笑うのだった。
私が2人分怖がるだけで、何ひとつ得にならない理屈だ。
「何も起こりませんよ。私の家ですし」
そうであってほしい、と願っている。
正木先輩には、恐怖の源を探り当てる、ある種の才能があった。
「ほら、見て」
一足早く物置に踏み込んだ先輩が、嬉しそうに何かを持ち上げる。
「お皿?」
「フリスビーじゃないですか?」
長年積もり続けた埃にまみれた物体は、呪いや異物の判別以前に、懐中電灯で照らしても、正体の伺い知れないものばかりだった。
先輩の持っていたものの埃を払うと、どうやら古い皿のようではある。
前の家の持ち主の趣味だったのだろうか、陶磁器らしい輪郭が多い。
「前はここ、どんな人が住んでいたの?」
「……さあ」
生返事を返したけれど、実際知らなかった。
そもそも小さな頃に引っ越してきた家で、この物置を意識するまでは、前の住人がいたことを考えすらしなかった。
もしかしたら本当にここが呪いの家で、物置や天井裏には恐ろしい呪いが隠されているのかもしれないけれど、私はずっとこの家で――目の他には――大きな病気もなく、16年間過ごしてきたのだ。
「確か、
「あはっ」
奇妙な声が響いた。
壺を調べていた正木先輩が飛び退いて、笑う。
「七子さん、あははっ、ねえ、七子さん」
「どう……どうしたんですか」
何がいるのだろうか。何を見つけたのだろうか。
咄嗟に懐中電灯を武器のように構えた私は、かなり無様だったはずだ。
「すごい、ふふ、こっちの壺の中、虫がびっしりいて……!」
「……む」
もうすっかり恐怖を覚悟していた私は、その遣り場を見失って叫んだ。
「虫って!」
「あははははは」
真昼の学校でも常に夜を纏っているような、陰鬱で美しい先輩は、夜の探索では、本当によく笑った。
他の子が彼女の本当の姿を知ったとしたら、どんな風に思うのだろう。
……正木先輩は、頭がおかしくなっているという噂がある。それは何も間違っていない。
「ふざけるの、やめてくださいよ……! 私がどんなに怖いと思ってるんですか」
「ふ、ふふふっ……ごめんなさいね、でも、楽しくて」
「もっと真面目に――」
身を乗り出して、手をかけた部分が動いた。
木目の感触があって、それは戸棚にひとつだけ積まれた箱のようだった。
「……これ」
胸に抱えられるくらいの大きさの箱。
桐か何かでできていて、中に何かが入っているように思えた。
「靴箱でしょうか」
「そうかも? ね、開けてみましょうよ」
「靴箱だと思いますけどね」
狭い物置で腕の中を覗き込むから、先輩も私に密着するような形になる。
滑らかな髪が、私のストールに絡む。
静脈が透けそうなほどに綺麗な肌は、暗闇の中ではますます死人のようだと思う。
「……あの。先輩がやってくださいよ」
「駄目。私の代わりに怖がって」
どうしてその言葉に従ってしまったのか、思い返しても本当にわからない。
私は先輩のことが大嫌いで、彼女との夜の探検はいつでも憂鬱だった。
……そしてその夜は、殊更にひどいものだった。
見てはならないものを見てしまうことに、気づけなかった。
後悔は今でも、私の胸に巣食い続けている。
物置に入ってからの私は……一度も、恐怖の幻覚を見ていなかったのだから。
「――ああ」
箱の中で白い布に包まれていた中身を見て、先輩は優しく目を細めたようだった。
「赤ちゃんだ」
干からびた胎児と、確かに目が合った。
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