空葬テラー

珪素

本編

 『結局は、お化けよりも生きた人間のほうが怖いのだ』――という言葉が、子供の頃から嫌いだったように思う。

 そんな物言いひとつで心の内の恐怖を克服できてしまう人間なら、そもそも心の底から何かを怖がりはしないのではないか。

 誰かが闇の中に垣間見る恐怖は、人間の本性程度で消し飛んでしまうほど薄っぺらなものなのか。

 子供心に、そんな反発心を抱いていたのかもしれない。


 ……私は人間よりも、お化けのほうが怖い。正木まさき先輩のような人間を知った今でも、そう思っている。



 カーテンの隙間から見える空の色がいやに青黒くて、夏の名残りの涼しさだけが染み込むような夜だった。

 その日は学校から帰ってすぐ、ベッドで浅い眠りについていた。

 目が覚めたのは、階下でチャイムが鳴っていたからだ。


「おはよう、姉さん」


 祐貴ゆうきはごく自然に私の部屋にいて、誰が訪れたのかもとっくに分かっているようだった。

 制服のままの私を見て、どこか愉快そうに笑う。


「正木さんが来てるよ。姉さんがいつも話してる人」

「……おはようって時間じゃないよ」


 体を起こしたままぼんやりしていた私は、それだけを返す。

 憂鬱な目覚めだった。


「でも、10時間早起きしたって思えばよくない?」

「10時間寝るなって意味じゃない、それ」


 部屋の電気をつけると、時計は9時近くを指していた。

 もっとも、家から一歩も外に出ない祐貴にとっては、そもそも時間なんてどうでもいいことなのかもしれないのだけど。

 チャイムがもう一度鳴った。


「待たせるのも悪いし、僕が出ようか」

「冗談やめてよ……。それに、待たせて帰ってくれるなら、このまま帰ってもらったほうがいいもの」

「でも、友達なんでしょ?」

「……どうかな」


 ニコニコと窓の下を眺め続ける祐貴を背にして、姿見の前で制服を脱ぐ。

 着慣れた薄緑のワンピースの上に、分厚いストールを羽織る。少し湿った髪に櫛を通して、まっすぐにする。

 床に目を向けたとき、黒い影が、裸足の足元を撫でるようにして通った。


「姉さん?」


 祐貴は窓の方を向いたままだ。

 あり得ないほどに細い、捻じ曲がった形の猫――のように見えた。手足のない体で這って、ドアの方へと抜けていった。

 私は、悲鳴を噛み殺して……予定通りにストッキングを履く。見えたもののことを考えてはいけない。


「きれいな人なんだね。正木さんって」


 祐貴の言葉には答えない。

 あの人のことを知らないから、そう言えるのだ。


 急ごしらえの格好で階段を降りながら、もう少し待たせてもいいくらいだった、と思う。

 ドアを開けると、やっぱり正木先輩は姿勢正しく、玄関の前で待ち続けていた。

 私とは違って、きちんとした、真っ黒な制服姿のままだった。


「こんばんは、七子ななこさん」


 先輩は一言も私を非難することなく、完璧な微笑みで、少し首を傾げてすらみせた。

 長く艶めいた黒髪が、頭の動きを追ってサラサラと流れる。

 ……すごく、嫌な感じだ。


「……どうしてこんな遅い時間に来るんですか、先輩」

「そっちのほうが怖そうだから。……小屋を見せてくれるのよね。庭は裏のほうにあるの?」


 小さく弾むような足取りで上がり込んできて、私の肩越しに廊下の先を覗こうとする。

 そうしたところで、庭までが見えるわけがないのに。


「ねえ、七子さん。この家、誰か死んだことある?」


 その上、当然そうあるべきだ、とでも言いたげに囁いてくる。

 本当に呆れた人だ。


「そんなに事故物件が好きなら、お墓にでも住んでみたらどうですか」

「ふふ。いつかそうしようかな」


 学校の皆が噂するように――それ以上に、正木先輩の頭はおかしかった。私はよく知っている。


 先輩は、恐怖や怪異の存在に強く執着する人種だった。取り憑かれていると言ってもいい。

 入ってはいけない場所に踏み込んで、呼んではいけないものを呼んで、祟られることを望んでいるようにすら見えた。


 その先輩が私の家の物置に興味を示したきっかけは、よく覚えていない。

 前の住人の頃からいつの間にかあったもので、一度も開けたことのない、古いプレハブ小屋だ。いかにも先輩が好みそうな話で、知られてしまったことを随分後悔したと思う。


 これまでみたいに、子供が失踪した家だとか、物音に追われる橋だとかを連れ回されるよりはずっとマシなのかもしれないけれど、それでも先輩はそういう場所と同じように私の自宅を見ているわけで、やっぱり気分が悪い。


 そもそも、廃墟だとか、人の家の物置とかをひっくり返して喜ぶ人間なんて、正木先輩の他にいるのだろうか?

 何も見つからなかったとしても、私を怖がらせる材料さえ見つかるなら、それでいいと思っているに違いないのだ。


「……変なことしたら、本当に通報しますからね。住居侵入罪とか、不退去罪とか」


 無論私が訴えるまでもなく、この人の余罪はいくらでもあるはずだった。

 駐輪違反も犯さないような顔をしているのに、怪異の探検と称して、どれだけの土地に不法侵入して、何枚の窓ガラスを割ったのか、私には推測すらできない。


「その時は七子さんも共犯ね? ほら、もう上がっちゃった」

「先輩が教唆犯きょうさはんじゃないですか……ああ」


 玄関のドアを閉める寸前に、また嫌なものを見た。鍵をかけて、それが私の家に入ってこないよう祈る。最悪だ。


「――何が見えたの?」


 さらに最悪なのは、先輩が私の怯えを目敏く見抜いて、聞き出そうとしてくることだ。

 死人みたいに真っ白な肌が、少しだけ朱を帯びている。

 彼女は子供のように目を輝かせて、両手を合わせてすらいた。


「ブロック塀の……さっきまで先輩が立ってたところから道路を挟んで、すぐ後ろなんですけど」


 私はこめかみに指を当てて、玄関を振り返らないようにする。


「子供が、塀のすぐ前に……こっちに背中を向けて、立ってました。何度も、顔を上下に動かしてて……ずっと塀に、ガリガリと、自分の顔をこすりつけるようにしていて」


 正木先輩はおかしな人だ。

 ……けれど実のところ、私の頭もおかしい。子供の頃からずっと、治っていない。


「顔の……前半分が削れて、もうなくなってるのに」


 他の誰にも見えていないものが、暗闇の中に見えた。私の目には、見えるべきでないものが見えてしまう。


 これはどうやら霊視ですらないのだ。たとえ怪異に直面しているときでも、見えているものが噛み合わない。

 精神病の一種なのではないかと思っている。

 実害すらもない、私の心を恐れさせるだけの幻視で、この世の誰にも、証明する手立てが見つからない。


「素敵ね」


 先輩は振り返って――扉の向こうの塀に思いを馳せるように、目を細めた。

 私を気まぐれに振り回す悪魔が正木先輩なら、私の幻視を信じてくれる人間も、正木先輩一人しかいなかった。


「さっきも、体がほどけた猫を見ました。蛇みたいな見た目なのに、どうして猫だって思ったのか……分からないですけど」

「どうしてほどけてるんだろうね。面白そう」

「さあ? いつものことですけど……怖いですよ。慣れません。今日は、私しかいないですし」

「私がいるでしょう」

「だから怖いんですけど」


 お母さんは、今日は泊りがけの仕事に出ている日だった。

 この家には私しかいない、と正木先輩には言っている。


「ねっ、先に物置を見てきてもいい?」


 先輩は大きなスポーツバッグを床に降ろしている。

 中からはガシャリ、と不穏な金属音が鳴って、私を恐れさせた。


「鍵は南京錠なんきんじょうかしら」


 前腕ほどの長さの、赤いボルトカッターだった。

 白く透き通るように儚い先輩は、しばしばそのような危険な道具を好んだ。


「……余計なこと、しないでくださいね」


 私は、それだけを返すのが精一杯である。


「うん」

「余計なことしないでくださいね!」


 廊下の奥へと向かう先輩の足取りを見ながら、もう一度言った。


 ……私は、自分のことを怖がりだと思う。

 子供の頃から、暗闇の奥に潜む何かが、恐ろしくて仕方がない。

 恐怖のあまりに、私の脳は不安の幻像を結んでしまうのだろうと思っている。


 高校に入って、夕暮れを一緒に帰ってくれる友人がいなくなってからだ。

 高校一年にもなる私が、夕方の街を帰ることができないと信じてくれた人は、一人しかいなかった。

 ……どうしてあの人と一緒に、恐怖を探し続けるようになってしまったのだろう。

 恐ろしさから逃げたいのに、誰よりも怖がりなのに、まるで矛盾している。


 いつも考えているのに、答えは出なくて、逃れることができない。


 玄関の蛍光灯がちらついて、鮮明な誰かの影が、壁に浮かんだ。苦痛の顔。

 何もかもが私の心が作り出した幻だと、私は知っている。


「姉さん、行かなくていいの?」


 いつの間に立っていたのか、庭に向かった先輩と入れ替わるようにして、祐貴が階段を降りてきていた。

 

「……ん。ちょっと、考え事してたの」

「やっぱり早起きしすぎたんだなあ」


 私は少し笑って、振り返った。

 祐貴はいつだって汚れひとつなくて、色んなことを涼しげに俯瞰していて、そして笑っている。

 一歩も家の中から出ないから、とても綺麗な顔をしている。


「……祐貴。あなたって、なんなんだろうね」


 私の目には、霊や妖怪が見えているわけではない。

 けれど。だとしたら。


 私を姉さんと呼ぶ、この祐貴はなんなのだろう、と思う。


「僕に聞いても、分かるわけないじゃないか」


 祐貴は階段の手すりに腰掛けて、私を見下ろしている。まるで本当の人間みたいに。


「普通の人だって、誰かに教えてもらわないと、自分の人種や血液型なんて分からないよ。だから……前に姉さんが言ってたように、ただの幻覚かもしれない。姉さんがそう言うならそうだ。でも、もしかしたら僕だけが、本物の幽霊かもしれない」


 お父さんはいない。

 ……お母さんは、今日は泊りがけの仕事に出ていて、この家には私しかいない。

 祐貴はいつも私の部屋にいる。他の誰もそれを知らない。

 一人では下校もできない私が、祐貴がいてくれるおかげで、まだ恐怖に狂わずにいられる。


「――それとも、悪魔かなにかかもしれないね」


 祐貴の笑いは、いつでも天使みたいに無邪気に見えた。

 玄関の扉を隔てた向こうでは、秋の温度の風が、夜の木々を鳴らしている。


 私は……人間よりも、お化けのほうが怖い。

 正木先輩や、私自身のような人間を知っていても、今でもそう思う。



 ずっと、そう思っている。

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