小をなす者たち

拾捨 ふぐり金玉太郎

本編

 西暦20××年。

 ここパブリックトイレには今日も男たちが集う。


 彼らはオシッコをする者たち―――『オシッカー』である。


 パブリックトイレに入るとすぐに目に留まるのは、整然と並んだオシッコポータルだ。

 白色のセラミックで整形された縦長のものは、パブリックトイレにおいては最も普及した代表的オシッコデバイスである。


 オシッカーは常にその最前線に立つ。それがルールだからだ。

 まるで思考が並列化されたかのようでありながら、実際に彼らのとるオシッコスタイルは個々人の特性にアジャストされている。


 彼を見よ。


 スラックス、そしてインナーと二重に取り付けられたソーシャル・ウィンドーからまろびだしたランチャーを、二本の指でホールドしている。


 多くのオシッカーに見られるスタンダードなオシッキングスタイルであり、扱いやすい。

 ランチャーからポータルへとオシッコを放射キャストした後、ランチャーの先端を数回振り残滓を払う(これは一般にアフターシェイクと呼ばれる)。


 ランチャーのホールド・スタイルはオシッカーの個性が現れる部分である。


 ランチャーを指で支えるのではなく、下から握る者もある。

 安定性に勝るこのスタイルは、利便の側面だけでなくランチャーの重さ、巨大さを演出・誇示する威嚇的効果を持つだろう。


 ランチャーはオシッカーが生まれつき備える器官であり、その形状、サイズ、性能は多様だ。


 オシッカーの誇りを体現する器官であるが、現在の国家法ではランチャーをみだりに露出することは固く禁じられている。

 ランチャーを露出しオシッコをキャストすることを許されているのはパブリックトイレなどの限定的な空間であって、オシッカーはその場所でのみ束の間の特権階級となるのだ。


 そのような事情から、オシッカー同士が他者のランチャーを目にすることも稀で、それゆえに自身のランチャーの相対的な価値について思い悩む者も少なくない。


 たとえば、ランチャー先端を覆うカウルの存在がそうだ。


 カウルの仕様にはも個体差があり、オシッカーの成長とともに先端部が完全に露出するオープンカウル、任意あるいは自動的にカウル状態が切り替わるセミカウル、そして完全に先端を覆った状態で固定されるフルカウルに大別される。


 カウルの有無は放射されるオシッコの初速や、事後のマズルシェイクに要する時間にも影響すると言われる。

 一般的にはカウルレスでのオシッキングが有利とされるが、カウルにサイレンサーやバレルとしての効果を主張する熱心な一派もあるという。


―――むきますか むきませんか―――


 かつてこのような言葉を遺したオシッカーが居たが、カウルの有無が果たして斯様に運命をも分かつものであるかどうかは、未だ歴史的証明の途中である。


 別つと言えば、キャストされたオシッコが二股の軌道を描く現象がしばしば観測される。


 『ディバイド』と呼ばれるこの現象は、メカニズムの分析が進んでおらず、ランチャーのブラックボックス構造に起因するものと見られている。

(近年、オシッキングよりも更に秘匿性の高いランチャー運用が『ディバイド』現象の要因として指摘されてはいるが、憶測の域を出ない)


 ディバイドは、時としてオシッカーに多大な危機感をもって迎えられる。

 そう、オシッコのアウト・オブ・コントロールだ。


 オシッコが制御を外れることはオシッカーにとってきわめて不名誉な事態を引き起こし得る。

 ここに挙げるのは一つの悲劇だが、パブリックトイレにおいては日常茶飯事である。



 ある男がオシッキング中、下腹部のランチャーの更に下方に違和感を覚えた。


 彼のランチャーはフルカウル・タイプであり、かつディバイドを引き起こしていた。

 不運であったのは、ディバイドによりコントロールを失ったオシッコはランチャーのマズル下部にバックロード。瞬く間にソーシャルウィンドーの縁にまで後退した。


 当然のことながら、パブリックトイレに居る彼にとってこの場は出先である。


 オシッコにより汚染されたズボンを交換することは容易でない、否、不可能。

 さりとてこのまま帰途につくにはオシッコによる汚染領域は致命的なまでに拡大していた。


 オシッカーとして母胎より独り立ちしてから、20数年。

 自他共に認めるキャリアを持つその男にとって、バックロード汚染の痕跡を衆目に晒して帰途につくことを彼の自尊心と羞恥心が許すであろうか。


 彼は狼狽することをたちどころに止め、高速で思考を巡らせる。


 周囲に他のオシッカーが居ないタイミングを見計らい、ウォッシングスペースへ素早く移動。

 十分に過ぎる程の流水で手指の洗浄を行い、然る後、濡れそぼった両手を自らのズボンになすりつけた。


 オシッコとは異なる水分が彼のズボンに新たなる染みを作ってゆく。

 彼は些細な不作法でもって、更に重大な不名誉をカムフラージュしたのである。


 あとは何食わぬ顔でパブリックトイレを後にし、道すがらズボンが自然乾燥するのを待つばかりだ。

 だが、ズボンが乾いたとしても彼のオシッカーとしての誇りについた傷は癒えるわけではない―――



 繰り返されるこのような悲劇を未然に防ぐべく考案されたのは、従来のスタンディングオシッコスタンスに代わるクラウチングオシッコスタンスである。


 座位をとり真下へとキャストするこのスタイルならば、ディバイドによる軌道の乱れはさしたる問題にはならない。

 ディバイド問題における最善手と言えよう。


 だが、福音と目されたこの方法も完全無欠たり得ない。

 クラウチングオシッコスタンスはオシッカーにあらずといった論調も未だ根強い。


 単にクラシカルな形式に善きものを見いだすような、オシッカーの美学的矜持だけではない。最も大きな障害は、クラウチング対応デバイスの不足である。


 パブリックトイレには万人のクラウチングスタンスを受け入れるだけのオシッコインフラが充分に整備されていないという社会的な問題が常に付きまとうのだ。

 パブリックトイレに存在するもう一つのマジョリティ、ダイベナーの受け皿を侵すものでもあり、彼らの反発も看過できない。


 問題は今日に至るまで明解な方策を打ち出し得ぬまま、保留されている。


*


 今日もオシッカーはパブリックトイレに集う。


 欺瞞を、対立を、危険を傍らに置きながら。


 此処に於いて水に流してしまえるのは、ただオシッコだけである。

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