【サンプル】マザーグースマザー
豆崎豆太
二〇一七年 木藤彩花
実母である遠藤久美子が死んだという報せが木藤彩花の元に届いたのは久美子の死後一週間、遺体が発見された翌日のことだった。曰く、脳梗塞で倒れたらしいとのことだった。実母は一人暮らしだった。叔母に「最後だから」と電話口で拝み倒されたものの、彩花は通夜にも葬式にも出席せず、弔電も香典も送らなかった。
母の死を報されて一週間と三日、彩花の住む家に小包が届いた。送り主は唯一連絡を取っていた母方の叔母だった。
訝りながらも宅配便のダンボールを受け取り、朝食の片付けをして、洗濯物を干し、遊びたがる娘の相手をして、姑と娘の分の昼食を作り、自分の分はできる限り急いで胃に詰めて、娘を寝かしつけ、様子見を姑に任せてようやく受け取ったダンボールを開いた。
入っていたのは分厚い日記帳で、それが誰のものなのかはすぐに思い当った。彩花は怒りのままに携帯電話を取り、電話口に出た叔母に開口一番で「どういうことですか」と投げつけるように問うた。
彩花は四歳から二十二年、母親に会わなかった。保護施設で育った彩花にとって母は憎悪の対象であり、死すら悼む相手ではなかった。久美子が彩花に奮った暴力は叔母も知っているはずで、実母の死を無視したことに何も言わないのだから、今まだ許していないことを理解しているのだと思っていた。
それなのに何故、という意味のことを受話器に向かって一方的に捲し立てた彩花は、それに対する叔母の「ごめんなさい」の一言で我に返った。
「でも、もし良かったらでいいの、読んでみてくれないかしら」
叔母は縋るような声で言い、そのことが彩花の神経をますます苛んだ。苛立ちに奥歯を食いしばりながら、彩花は努めて冷静を装う。
「許せって言うんですか、今更、私に、あの人を」
「許せなんて言わない、無理に読んでとも言わない。ただ本当に、ただ気が向いたらでいいの」
「気が向くことなんてありえません。こうして送りつけられただけで不愉快です」
「ごめんなさい。でも」
「もういいです。こっちで捨てます。急に電話して、怒鳴りつけてすみません」
「あやちゃん」
まだ何か言おうとする叔母の言葉を遮って、彩香はそのまま電話を切った。胃の奥が引き絞られるように痛む。
母はヒステリーだった。彩香の覚えている母の顔はその大半が怒りの形をしていた。同じく、記憶にある母の声はヒステリックな絶叫だけだった。腕を捕まれ引きずり回され、何度も打たれた。そんな母に愛想を尽かしたのか、父は彩香が三歳のときに帰ってこなくなった。母が彩香を捨てたのはその直後だった。
叔母がわざわざ送りつけてきたのだから、この中にはおそらく母の心情が書かれている。彩花に関係することだ。だがそれを知る気も、ましてや慮るつもりも彩花にはなかった。今更何かを知ったところで、失った何かが戻ってくるわけではない。母に殴られて視力の落ちた目も、歪んだ指も、親の居ない子どもとして暮らした十年も。
「どうかしたの? 顔色があんまりよくないみたいだけど」
姑の恵子に問われて彩花は曖昧に笑む。恵子は善人だ。明るく優しく愛情に溢れ、三人の子供に慕われていて、それゆえに親子の確執というものにひどく疎い。彩花が保護施設出身だと知ったときも、彩花当人より母親に同情した人だ。きっと何か事情があったのだと言って譲る気配はなく、そのときも彩花は曖昧に笑んで話を断ち切ったのだ。
「なんでもありません。大丈夫です」
「そう? 何か困ったことがあるなら頼ってね、あなたなんでも抱え込むんだから」
「ありがとうございます」
心にもない礼を口にしながら、この家に生まれたかったと彩花は心底から思った。この家に生まれて、この優しさを素直に受けられる人間に育ちたかった。
陽菜が起き出してきたので彩花はその相手に戻り、合間を縫って家事をした。彩花が陽菜の相手をしているときは恵子が洗濯物を畳んでくれ、陽菜が恵子と遊びたがるときには彩花が掃除をする。それなりにうまくやれている、と彩花は内心でため息をつく。他人に自分の下着を畳ませるのはどうも、慣れない。だがそんな不平不満は贅沢というものだろう。
陽菜を義母に任せて買い物へ行き、夕食を作って与える。陽菜の分、義母の分、自分の分、夫の分。義母は油気を嫌う。夫は青臭さを嫌う。陽菜はまだ離乳食だ。いくつもの皿を食卓に並べ、夫の分にはラップを掛け、義母が陽菜に食事を与えると言うので彩花は自分の分の食事を腹に収めるとそのまま風呂掃除に向かった。帰ってきた夫を出迎え、夕食を出して、夫が陽菜を風呂に入れている間に食器を洗い、夫から陽菜を受け取って体を拭き服を着せ、入れ替わりに入浴して寝室に戻ると、陽菜を寝かしつけてくれていた夫が件の日記帳を手に持っていた。「これ何?」と訊かれて瞬間的に吹き出た狼狽と嫌悪とを疲労と諦めが通り越していく。
「中身見た?」
「いや見てない。見ていいの?」
「よくない。返して」
伸べた手の上に、ずしりと重い日記帳が乗る。大事なものではなく、むしろ捨てようと思っているものなのに、彩花は半ば抱きしめるようにしてそれを胸に抱えた。
「それ何? 表紙は日記っぽかったけど」
「……日記。母の。叔母さんから送られてきたの」
「なんで?」
「私が知るはずないでしょ」
「読めってことじゃないの? 急に送られてきたの? 叔母さんに電話してみた?」
弘忠は問い詰めるような調子で質問を重ねた。詰るような口調に他意が無いことは知っている。浮かんだ疑問はすべて口にせずにいられない人だ。
「読んでみてくれないかって。読むはずないのに」
「読んでみればいいじゃん、何かわかるかもしれない。彩花と理由とか」
これだ。彩花は辟易を隠そうとはしなかった。どうして私が母を慮らなくてはならないのか。もしも母に何かの事情があったとしても、何かが戻ってくるわけではない。母に殴られて視力の落ちた目も、歪んだ指も、親のいない子供として暮らした十数年も。
大体にして、「離れなくちゃいけなかった」なんて言葉を選ぶ時点で弘忠は母の側だ。親が子供と離れるからにはそうするより他にない真っ当な理由があると思っている。
「読みたくない」
「自分で読むのが怖いなら、俺が代わりに読もうか」
「やめて」半ば悲鳴のように答えてから、彩花は一度ため息をついた。一秒かけて心の外側を整える。「わかった、読む。でもお願いだからあなたは読まないで。知られたくないこともあるかもしれないから」
言うと夫は「わかった」と頷き、安堵の笑みを浮かべて「きっと大丈夫」と続けた。大丈夫。夫は何についてもそう言う。いつでも、誰に対しても。
彩花は三歳から施設で育ち、高校卒業と同時に施設を出た。寮付きの会社に就職し、そこで夫となる弘忠に出会った。弘忠は彩花よりも三つ年嵩の男で、業務上の上司あるいは先輩ほどの立場にあった。弘忠はおおらかで奔放で、なんでも不安がる彩花とはほとんど正反対の性格をしていた。彩花にとって弘忠は太陽のような人だった。彩花の孤独と不安とをいつも笑顔で受け止めてくれる弘忠に、彩花は急速に惹かれていった。仕事のことで何度も助けられるうちに親しくなり、やがて恋人関係になった。
付き合ってみると、弘忠はおおらかにすぎるところがあった。しかし、仕事では助けられる一方の彩花はそんな弘忠の世話を焼くことに充足を感じた。
「おれは彩花がいないと本当にだめだなあ」
弘忠がそう言って彩花の頭をなでた時、彩花は心底から幸福だと思った。私はこの人がいれば大丈夫。この人は私がいれば大丈夫。そう思った。
弘忠のそれが単なる浅慮と無責任によるものだと知ったのは、結婚したあとのことだった。交際当時話を聞いてくれていた同僚は、彩花の愚痴を聞いて「惚気と内容が変わっていないのだけど」と苦笑いした。はたから見れば、最初からそうだったのだ。
彩花が母の暴力について打ち明けたときも、「暴力ぐらいうちでもあった」「子供を躾けるのにある程度の暴力は必要」と言って引かず、
一応読むとは返答したものの、それを落ち着いて読める場所は家の中には無かった。義母の目に触れさせたくはなかったし、娘からもまだまだ目を離すことができない。結局彩花が母の日記帳を紐解いたのは、読むと宣言してから一ヶ月も経った後のことだった。夫は仕事、義母は友人と昼食に行くと言って出ていき、彩花は眠っていた。
叔母さんに頼まれたから。夫に読まれるよりはマシだから。ただ少し読んでみるだけ、腹が立ったらすぐに捨てる。いくつも自分に言い訳を立て、それなりに緊張して開いたページにはしかし、全く普通の母娘の姿が書かれていた。彩花は少し、というかだいぶやんちゃな子供だったようで、砂壁にクレヨンで大きな絵を書いてくれたとか、おもちゃを振り回して窓にヒビを入れたとかがこまごまとした文字で綴られている。彩花が母の筆致を見たのはこれが生まれて初めてのことだ。
どんな姿をしていたのか、どんな声をしていたのか、彩花はもうはっきりと思い出すことができない。何せ母の記憶は三歳以前のものだ。怒鳴られた、叩かれたという事実だけが胸の奥で焦げ付いていて恐怖と怨嗟の対象でしか無かった母を、生まれて初めてひとつの人間として眺めた瞬間だった。
三月八日
新しくスプーンを買った。彩花が気に入ってくれるか不安だったけど、私が別のスプーンで食べさせようとすると嫌がり、自分のスプーンで食べようとする。気に入ってくれたみたいで嬉しい。まだ上手に使えないからテーブルは汚れるし、よだれかけは嫌がるから服も汚れる。しばらく色の濃い料理は控えようと思う。あと汁物。
三月十七日
「床に落ちたものは食べてはいけない」と教えたせいか、彩花が嫌いな野菜を床にわざと落とすようになってしまった。頭がいいと言っていいのか……子供は難しい。
四月二日
今日は彩花がたくさん喋った。何を言いたいのかわからなくて何度も聞き返していたら「ちがう!」と泣かれてしまった。結局何が言いたかったのかはわからずじまい……本人も明日には忘れているのだろうし、確認のしようがない。何が言いたかったんだろう。
何ページかまとめてめくってみても、それはただの育児日記だった。書かれている日付から計算して、彩花が一歳か二歳の頃のものなのだが、母の様子があまりにも記憶と違うために、彩花はそれが本当に自分の母親のものなのか訝ったほどだった。
母の筆致が乱れたのはそこから一年ほど経って、日記内の彩花がが三歳の頃。
父の浮気がわかったときだ。
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