4 五度目の策略
信号が青に変わる。カイロがわりの携帯電話を握りしめながら、横断歩道を渡る。
その彼と再会を果たしたのは大学三回生の初夏、アルバイト先でのことだった。海辺のレストランの繁盛期直前、大量に採用された学生の中に彼はいた。「よーっ溝上」と言って笑った彼の頬には変わらないえくぼが浮かんでいた。
一度は故郷を離れた彼だったが、新設されたキャンパスに学部が移動することになって、実家に戻ってきたとのことだった。二日に一度はバイト先で顔を合わすことになり、私は旧友らしい距離を保ち続けた。毎夜男友達とつるんでいるところを見ると付き合っている女性はいないようだったが、小学校の頃から変わらない人懐っこい笑顔で男女問わずモテる人だった。
そしてついに今年、五度目の正直に賭けることにした。
この私が手作りチョコなど渡すのだ、本命じゃ重すぎる、義理チョコで受け取ってくれれば幸いだ――と考えた末、ダミーのチョコレートも作ることにした。彼に渡す本命チョコと先輩に渡すダミー。中身は同じだが、個数が倍近く違う。彼と先輩が同時に開封して数比べをすることさえ避ければ問題ない、と知恵をふりしぼった。
深夜0時、口から飛び出しそうになる心臓を押さえながら、彼に小箱を渡した。目を丸くして私を見つめる彼に、いっぱいあるうちの一つだけどね、なんて素振りでダミーの小箱も見せた。彼は「なあんだ勘違いするだろ」と言ってふざけた様子で私の肩を叩いた。
叩かれた肩が燃えるように熱かった。「同級生の溝上」ラインを越えるのが怖かった。
私の作戦は万事うまくいくはずだった。この私の中で特別感があればそれで十分だった。彼がいる前でダミーの小箱を先輩に渡せばミッションクリアのはずだった。
一緒に仕事を上がるはずの先輩の姿がない、おかしい、と探していると、彼は制服姿のままホールで動き回っていた。どうやらインフルエンザで欠勤したバイトの代わりに、勤務時間の延長を命じられたらしい。
渡すはずだったダミーの小箱は持ち帰るほかなく、彼に渡したチョコレートは正真正銘の本命に格上げされた。
一人勝手に気まずい空気の中、彼と従業員室を出る。立待月の夜空を見上げて彼が白い息を吐く。
「あれ……誰に渡すつもりだったんだ?」
彼の言わんとすることはすぐにわかった。さすがの私もそこまで阿呆ではない。
「あれ……はねー……ええっとー……」
「上条先輩とか?」
眉を下げて言ったその言葉に、思わず私は首をふってしまった。横にぶんぶん振り回してから、私はいったい何をやっているのだと後悔した。
「違うの?」
「……違うっていうか女友だちにあげようと思ってたというか……」
思ってもない言葉がつらつらと口から飛び出す。こういうときに限って口がよく回るから困る。耳たぶが燃えるように熱くなって、思わず両手で隠してしまう。
「じゃあ男でもらったのって、俺だけ?」
「事実としてはそういうことに……」
彼がどんな表情をしているのか見るのも怖くて、目を反らし続けた。いつもの交差点にたどりついて、彼はいつものように「じゃあな」と離れていく。
私は信号を渡るのも忘れて彼の背中を見つめた。黒いダウンジャケットが雑踏の中に消えていく。
ミッションは遂行できなかったが、ともかくも彼に渡すことができた。明日もいつも通りバイト先に行ってキッチンにいる彼からいつも通り料理を受け取る。それだけのことだ――
駅に着いた私は電光掲示板を見上げた。最終電車まであと十分以上ある。暖房のついた休憩室に入って腰を下ろす。
ふとトートバックに入った小箱が目に入った。先輩に渡すはずだった例のチョコレートだ。地味なその小箱を見ているうちに、腹の虫がなった。無性に甘いものを口にしたくなってリボンを解く。
中には小さな銀紙におさまったチョコレートが四個入っている。本命の彼の箱には十個入っている。そのことを知っているのは私だけだ。つまらない意地だが、渡せただけで十分だ。これは自分への褒美として食べてしまおうと思った。
銀紙を外して不細工なチョコレートを口に放りこむ。溶かして固めただけなのだ、味の保証はある。なのに――
ひとつ食べても、ふたつ食べても、チョコレートは涙の味しかしなかった。
高校三年生の冬、友人が彼に渡すはずだった手作りチョコと同じ、わずかな塩味――
鼻の奥から逆流してくる涙をこらえながら、どうしてダミーなんか用意したのだろうと思った。素直に本命チョコだけ作って、ちゃんと告白すれば彼はどんな反応をしてくれただろう。
想像することさえ怖い――中学の時から変わらない、情けない自分がいる。
待合室には他に人がいるというのに、涙がこぼれ落ちてしまった。恋に真剣だった友人が渡せなくて、ごまかした私が渡せてしまったチョコレート。あれだけモテる彼なのだから、もっと立派で素敵な本命チョコをもらっているに決まってる――
私はアレルギーで目がかゆいんですと言わんばかりに目じりをこする。
またひとつチョコを口に入れる。深夜のチョコレートは口腔にしみわたって、胸の痛みを呼び覚ます――
するとその時、ポケットの中で携帯電話が振動した。涙でみじめに濡れてしまった指をぬぐって画面を見る。
着信:大谷――
やっぱりあんなもの受け取れないんだろう、と思いながら震える指で画面を押す。
「……もしもし」
「溝上、今どこ?」
「どこって……終電待ってるんだけど」
「今からそっち行っていい?」
彼の言っていることが理解できず、私は「はあ?」と声を上げる。
「大谷君を待ってたら、終電逃すんだけど」
「そうなったら朝まで付き合ってやるからさー」
「何言ってんのよ!」
思わず声を荒げてしまい、冷たい視線を投げかけられる。私は膝の上に乗せていた小箱をトートバックに放りこみ、あわてて待合室の外に出る。
「あ、おまえ今やらしいこと考えてたな。駅前のファミレスに決まってるだろ」
「どっちだって同じことでしょ! どうして待たないといけないのよ」
駅のホームではもうすぐ最終電車が着くというアナウンスが鳴っている。もしかするともう近くまで来ているのかもと、携帯電話を耳に当てたままあたりを見回す。
「電話でもいいかなって思ったんだけど、やっぱり顔見て言いたいからさ」
「……何を?」
膨張した心臓が全身を支配するように鳴り始める。ホームに駆け込んでくる人の波を見つめながら、耳に神経を集中させる。
「おまえにチョコもらったの、嬉しかったから」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓はぎゅっと縮んだ。彼の言葉をどう受け止めればいいのかわからなかった。ただ「……うん」とうなずいて、携帯電話のスピーカーから聞こえる街の音に耳を澄ませる。
「すぐ行くから、待ってて」
私が返事をするのも待たず、通話は切れた。熱を帯びた携帯電話を握りしめたまま、私は立ちつくす。
最終電車に乗る人の群れが背中を押し始める。私はあわてて列の外に飛び出す。ホームにいた人たちがみな電車の中に吸い込まれる。笛をくわえた車掌が訝し気な目で私を見つめてくる。
私は首を横に振った。車掌が笛を吹いて、電車は静かに発車する。
人生で初めて最終電車を逃してしまった――白い息を吐きながら、去っていく電車のライトを見つめる。左手の中には最後のチョコレートが残っている。
深夜のチョコレートをかみ砕く。やっぱりそれは涙の味しかしなくて、古傷にピリピリと染みこんでくる。
黒いダウンジャケットが見える。えくぼを浮かべた彼が手を上げる。
立待月の下、私は涙をぬぐって大きく手をふった。
(完)
深夜のチョコレート わたなべめぐみ @picoyumeko
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