3 四度目も渡せず
高校三年のとき、友人が「バレンタインデーなのに彼が会ってくれない」と泣きついてきた。付き合っている彼のひとりもいなかった私は、めんどくさい話だと思ったが、手作りチョコを抱えて泣いている彼女があまりにも不憫で協力することになった。
雪が降るような寒い夕方、今ではほとんど見ることのなくなった電話ボックスに入って、彼の電話番号を押してやった。当時、携帯電話を所有している高校生はあまりいなくて、押したのは自宅の番号だった。なぜかすいすいと指が動いて、懐かしい感触がよみがえってきた。
知っている番号だった。小学生の時も、中学生の時も押した例の番号――
「はい、もしもし」
電話に出たのはあの彼だった。当時の友人たちに押し切られて無駄に電話をかけてはまともに会話もできなかった、そして三度もチョコレートも渡せなかった彼だった。
「あの……私、二神さんの友だちの溝上って言いますが」
「……溝上?」
鼓膜の奥で心音が爆発しそうな勢いで鳴っている。緑色の大きな受話器に耳を押し当てて彼の声を聴く。友人にドンと背中を押されて、あ、しまった次は私が話す番だった、と気づいた。
「えーと、あなたの彼女さんが会ってほしいって言ってるんで、会ってやってくれません?」
「……はあ?」
もっともな答えだと思った。私だって自分が何を言ってるのか理解しがたい。涙目になった友人がぐいぐい押してくるので、ひるまず口を開く。
「だからー今日はバレンタインなんで、チョコを渡したいってことです」
「……俺、今日は予定があるから会えないって言ってあるけど」
私は受話器の口を塞いで「予定あるって言ってるけど」と友人に言った。彼女は「そんなの知ってるよ!」と声を上げる。私は思わず「はあ?」と言いたくなるのをこらえながら、場を丸く収める手段を考える。
「明日になったらチョコ腐っちゃうかもしれないし、受け取った方がいいと思いますけど」
「何言ってんの? チョコが一日くらいで腐るわけないだろ。ていうかおまえ、溝上って言ったよな。そのしゃべり方、やっぱり中学一緒だった溝上?」
思わぬ返答に私は息を飲む。友人がしきりに彼の返事を聞きたがるが、心音がうるさすぎて何も考えられなくなる。
あなたに三度もチョコレートを渡せなかった溝上です――とは言えず、私は生唾を飲み込む。
「なんでおまえが電話してくんの?」
全くその通りだと思った。数学だけは学年一位だった彼の理路整然さは失われていない。なぜ私が電話をしなければならないのか私も不思議で仕方ない、と受話器を見つめる。
「ちょっとー、彼、なんて言ってるの?」
さっきまで半泣きだった彼女がぷりぷりと怒っている。怒られているのは、バレンタインデーに会ってくれない彼ではなく、渡す相手もいないこの私だ。
妙に重たく感じられる受話器を再び耳に当てて、なぜ私が電話をしているのか考える。
「友人として当然のつとめかと」
ぼそりとつぶやくと、突然彼は吹き出した。電話口のむこうで盛大に笑い始める。
「どうして笑うんですか」
「……おっかしいなー。おまえのそう言うクソ真面目なとこ、ぜんっぜん変わってないのな」
彼の声のトーンが、友情モードに切り替わった。「彼女の友人」ではなく「中学時代の同級生」に対する話し方になっている。受話器越しだというのに耳を当てている彼の熱がすぐそこにあるようで、体温が上がっていく。
「おまえ、彼氏とかいんの?」
それは世間話だったのかもしれない。けれどクソ真面目な私はクソ真面目に受け取ってしまって胸がつぶれそうになる。
「……いないけど。本命受かるまで遊ぶ暇もありませんから」
「おまえのことだから、国立とか受けんの?」
「……まあ。センターも悪くなかったし、本命で勝負かけるつもりだけど」
「おまえ五教科全部できたもんなー。ただでさえでも英語と社会は太刀打ちできないのに、最後は数学まで抜かされちまってさー。おまえんとこの高校に落ちたときは、まあしゃあないかなーって思ったよな、正直なとこ」
初めて聞く話だった。その後三月の試験にも落ちた彼とは、卒業後一度も会っていなかった。さばけた様子でそういう彼は、今どんな顔をしているのだろうと懐かしさがこみ上げてくる。
「大谷君は、どこか受けたの……?」
「あー推薦でもう決まってるよ。俺、世界史と古典ぜんっぜんだし、物理と数学で受かるとこ見つけたから。晴れて自由の身よー」
「じゃあ彼女さんに会ってあげなよ」
友人の睨みがきつくなってきたのもあって、私はそう言った。その言葉に彼女は目を輝かせてウンウンとうなずいた。
「いいよもう。どうせ別れるつもりだったし」
「はあ?」
それはこの日一番の怒号だった。私がいったいどんな剣幕をしていたのか知らないが、友人が目をぱちくりとさせる。
「そこにいるんだろ? そう言っといてよ」
「……なに言ってんのよ、ばかじゃないの! なんで私がそんなこと言わなきゃいけないのよ!」
「いいじゃん、昔のよしみで」
「ふざけんな、この甘ったれが!」
つい弟に怒るときの言葉が飛び出してくる。しまったと思ったときはすでに遅し――彼は電話口でゲラゲラと笑い転げているようだった。
「懐かしいねーその切れキャラっぷり。クラスの男子連中がさー、溝上だけは怒らせんなって口そろえて言ってたんだよね」
「話をごまかすな! ちゃんと本人に言いなさいよ!」
「わかったよ。明日言う」
「なんで明日なのよ!」
「もとからそのつもりだったんだ。四月から遠距離になるし」
彼の落ち着いた声が、胸の中にすとんと落ちていく。湯気が出そうなほど煮えたぎっていた頭が、急速に冷えていくのを感じる。
「電話をかけてきてくれたのが溝上でよかったよ。おかげで決心ついた。ありがとな」
「……どういたしまして」
思わずそう返答してしまう。ありがとうと言ったのは十五歳の彼のままで、今の彼がどんな表情をしてその言葉を口にしたのか、見えないのがもどかしかった。
「……くくっ、ほんとクソ真面目だよな。溝上も大学でいいやつ見つけろよな」
「……大谷君みたいな人ではなく?」
「そう、俺みたいなサイテーなやつじゃなく。じゃあな、切るよ」
「じゃあね……」
話の流れのまま、私は受話器を置いた。チンというむなしい音が響いてテレホンカードが吐き出される。呆然としていた私に、友人がすかさずつかみかかってくる。
「彼、なんて言ってたの? 会ってくれるって?」
私は無言で電話ボックスを出た。彼との会話は一言一句漏らさず記憶している。その中から、彼女に伝えるべき言葉を探す――
藍色の空から粉雪が降り落ちてくる。言葉は何も見つからない――
「……会えないみたいだし、帰ろっか」
にこりと微笑むと、友人はまた涙目になった。彼女を何とか慰めたくて、肩に手を置く。
「作ったチョコレート、私でよかったら食べるからさ」
その言葉にさすがの友人も悟ったのか、こくりとうなずいた。私は彼女の背中をぽんと押した。うつむいたまま歩き出した友人の肩は震えていた。
雪が降る中、ふたりは公園のベンチに腰を下ろしてチョコレートを食べた。
彼女が作ったチョコレートはとびきり甘いはずなのに、涙の味しかしなかった。
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