高木くんのバレンタインデー

江田 吏来

高木くんのバレンタインデー

 俺の上司は女で、しかも仕事の鬼だ。吊りあがった目でいつも眉間にシワを寄せて、俺が面白い冗談をいっても、ヘの字の口はピクリとも動かない。入社したての頃は本当に苦手で、この世から月曜日がなくなれば良いと、無駄なことばかりを考えていた。

 しかし、入社して一カ月後に気がつく。口やかましい上司、村上むらかみ杏奈あんなは乳がデカい。

 均整美を保つありがたい膨らみは、「やり直しッ」と書類を叩きつけるたびに、プルルンと揺れる。彼女がかがみこむと、ブラウスの隙間からふわっふわの白いボールのような半球がみえることもある。

 薄着万歳と、エロをモチベーションにして働いてきたが、夏が終わり、冬が来て……。気がつけば、上司からの苦情や皮肉がない。それどころか、仕事が順調にまわりはじめて、期待の新人と背中を押される。


高木たかぎー、新人のくせにまた契約取りやがって。今月も調子がいいな」


 入社したての頃は、ゴミクズをみるかのような冷たい視線で「つかえない」とつぶやいていたのに、今ではニカッと白い歯をみせて笑う村上さん。バシバシと背中を叩くのは変わっていないけど、本当に嬉しそうな顔をするから、目頭が熱くなる。

 新人でも大人の男が、女から激しい叱責を受けて、殴ってやりたいと思ったことが何度もあった。だけど、「ネクタイはもっと明るい色にしろ」とか、「大人は知りませんがいえない生き物だ。だから営業に出るときは、もっとゆっくり話せ。親切、丁寧を忘れるな」と、ガサツな俺に営業マンとしてのノウハウを叩きこんでくれた。


「村上さんのおかげです。そうだ、これから飲みにいきませんか?」

「は? 今日は二月一四日だけど」


 軽い気持ちで誘ったのに、村上さんの言葉にハッとする。世間ではバレンタインデーとかいう、モテない俺には一生無縁のイベントがあった。


「あ、すみません。村上さん、これからデートでしたか?」


 上司といっても三つ上。知性があふれる端整な顔と、男ならかぶりついてみたくなる、果実のようなふたつの膨らみ。仕事には厳しいが、時々みせる笑顔には心が癒される。

 彼氏がいてもおかしくないのに、村上さんはフッと笑った。


「高木がヒマなら付き合うよ。そうだ、いい店があるからついて来い」


 二月一四日に女と飲みにいく。ただの上司だけど、女と縁がない俺は感動していた。昔からバレンタインデーには「涙」しかない。それなのに、女性と肩を並べて歩いているのが不思議で、飲む前から足取りがふわふわしている。

 デキル女、村上さんが紹介する店にも胸が高鳴った。


「よぅし、ここだ。オッチャン、ビールふたつね」

「あいよー」


 威勢のいい声が飛びかったが、俺は呆然と立ち尽くす。

 お世辞にも綺麗とはいえない居酒屋で、相当年季が入っているようにみえる店内は、手狭でどこか薄汚い。

 村上さんは慣れた様子でカウンターに腰をおろし、「本日のオススメ」と書いてあるメニューをながめるから、俺も横に座った。

 年配のオッサン臭が漂う狭い空間に、酔っぱらいの野太い声がうるさいほど響いて居心地が悪い。だが、村上さんはスッとメニューを差し出し、くすりと笑った。


「ホント、高木は顔に出るよな。素直といえば素直だが、営業では不利になる場合もあるから、気をつけるんだぞ。それに、ここは柳田やなぎだ部長のお気に入りの店だ。知ってて損はない」


 軽い気持ちで飲みに誘ったのに、どんな時でも仕事に結びつける村上さんには敵わないと思った。本当にいい上司に巡り合えたと、今なら心の底から感謝している。

 大きな喧騒に包まれて落ち着けない居酒屋だが、刺身がとても美味い。ビールがドンドンすすみ、三杯飲んだあたりですっかりできあがっていたのかもしれない。普段なら口にしない愚痴や、些細なことも話した。

 村上さんはイヤな顔ひとつせず、うんうんと頷いて聞いてくれるから、気分がいい。


「で、俺は本当にモテなくて、バレンタインデーなんか大っ嫌い。……聞いてくれます?」

「高木の話なら、いくらでも聞くよ」


 ほがらかな笑顔にドキッとしたが、ジョッキの底に残ったビールを流し込み、中学時代の話をはじめた。


「俺には幼なじみの女がいたんですよぅ」


 女の名前は美鈴みすず。家がとても近いから、毎日一緒に遊んで、小学校も同じ登校班だった。

 いつもそばにいるのが当たり前だったのに、ある日突然からかわれるようになった。小学生あるあるかもしれないが、からかわれるのがイヤで、美鈴とは口をきかなくなった。それどころか、地味で大人しい美鈴を男連中とつるんで、積極的に……いじめた。


 勉強はよくできるのに運動が苦手で、走るのが遅い美鈴。グランドを走るときは必ず「のろま~」といって抜かした。虫を怖がる美鈴にセミの抜け殻を投げつけて、泣き出したら笑い者にする。我慢できずに怒れば、その姿を指差してはやし立てた。そんなことが続くから、美鈴は俺から距離を取り、顔をあわせることもなくなった。


「もう、当時の俺を、ガツンとぶん殴ってやりたい。中学になると地味で控えめだった美鈴が、いつものひとつ結いをやめて、髪をおろすようになって……。そりゃもう、かわいいの一言では済まされない女に変身ですよ。女って髪形ひとつでコロッと変わるでしょ」


 もともと大きかった目はさらに潤いと、愛らしさをまとい、あの瞳でじっと見つめられたら、どんな男でも落ちるだろう。きっと、「芸能活動をやってます」とウソをついても、疑われない。 

 美鈴をいじめることなく、幼なじみのままでいたら、今ごろどうなっていたのか。そればかりを考える。

 もしかして、見た目は不細工だが、なんでも話せる唯一の男になっていた?


 小さい頃は、面白いヤツか運動神経が良いだけでモテる。カッコよさが関係してくるのは、十歳ぐらいから。

 顔で勝負できないから、それまでにやさしい人間だと認識してもらわなければならなかったのに、俺は本当に愚かな男だった。

 深いため息をついても、モテモテの美鈴には手が届かない。それどころか、見た目の悪い俺と幼なじみだということが、美鈴にとって黒歴史のようだった。

 ニキビで肌がゴツゴツに荒れた、野球部のハゲ。これが美鈴からみた俺の姿。声をかけるとすごくイヤな顔をされる。


「それでも俺は未練たらしく、美鈴をみていたわけですよ。そしたら、気がついたんです。美鈴が吹奏楽部の先輩に恋をしてるって。それも、サックスなんかを吹いて、女どもから黄色い声援があがるイケメンに」


 ドンッと空になったジョッキを叩きつけた。

 思い出すだけで胸がザラザラとして気持ち悪い、中学時代の二月一四日。美鈴がバレンタインデーに告白をする。そんな話を偶然、耳にした。最低だが俺は真っ先に、その告白がうまくいかないことを願う。

 美鈴がフラれて泣く姿、それをなぐさめる俺。……おバカな妄想は止まらない。

 告白をするなら、きっと部活が終わってから。場所は学校近くの公園に決まっている。「夕日をバックに告白すれば両想いになれる」なんて変なジンクスがあるから、占い好きの美鈴なら、必ず公園で告白をするはず。

 俺の予想はピタリと当たった。


坂井さかい先輩、好きです。付き合ってください」


 燃えるような赤い夕焼けの中に響いた、鈴の音が転がるような声。美鈴の一世一代の告白だったが、坂井とかいう男はハッキリと断った。


「ごめん、これから彼女の家にいくから」


 美鈴がフラれたッ!! 俺の出番がきた。

 ライバルはもういない。ここでやさしい言葉をかければ、完璧。……でも、フラれたばかりの女にかける、やさしい言葉なんてガサツな俺には思いつかない。


「なんだよ、美鈴、フラれたのか? ちょっとかわいくなったからって、モテモテになったと勘違いしてない? あのイケメンが落ちると思ったの?」


 どうして俺は、こんなにもダメな男なんだ?


「……高木くん、みてたんだ」


 ひどく落ち込む美鈴の顔が、かわいそうなほど心に突き刺さってくるのに、気の利いた言葉ひとつ出てこない。


「それ、いき場を失った惨めなチョコレート? ホワイトデーには倍返ししてやるから、俺がもらっておこうか?」


 ふざけた声のトーンで、からかうようにいった。

 すると、泣き出しそうな美鈴が、キッと目をつりあげて俺を睨む。


「あげてもいいわよ。でもこのチョコは、国際フェアトレード認証のドミニカ産カカオ豆を焙煎して皮をむき、時間をかけて細かく丁寧に砕いてから湯煎にかけて、フランス菓子専用の高級砂糖を加えてできたチョコよ? あんたなんかに、倍返しできるのかしら?」


 まくしたてるような声に、たじろぐだけの俺。


「大っ嫌いッ! いつも私を笑い者にして。なれなれしく下の名前で呼ぶのもやめて。気持ち悪いのよッ!!」


 沈みかけた夕日が赤々とすべてを照らす公園で、告白をすればうまくいく。そんなジンクスがあったのに、美鈴の恋も、俺の恋も、粉々に砕け散る。

 女の子に面と向かって「気持ち悪い」といわれたことがショックで、俺の人生は、さらにモテずに悲惨なことの連続になる……。


「村上さん、俺はね、大人になれば勝手に彼女ができて、自然と結婚するもんだって思ってたんですよ。それなのに、人生ハードモード。お先真っ暗ですよ」

「ははは、でもそれは初恋が潰れただけだろ。初恋なんて実らないもんよ。なぜだかわかるか?」

「さぁ?」

「簡単なことだよ。初恋は恋愛経験ゼロからのスタートだから、どうしたらいいのかわからない。仕事だってそうだよ。高木は使えない社員だったけど、今では期待してる人もいる。なんでも経験と積み重ねが必要なんだよ」

「でも、聞いてくださいよ。高校の時も二月一四日は、悲惨だったんですよ」


 高校は工業技術科の技術探求コース。共学だけどクラスに女子は五人だけ。男子校のような雰囲気で、いじられ系の人間はとことんいじられるから、やりすぎて殴り合いになることも。幸い俺は野球部で鍛えあげた彫刻のような筋肉と、不細工だがいかつい顔のおかげで、友達に不自由することなく高校生活を送っていた。

 それでも、忘れられない二月一四日がやってくる。


「……入っていたんですよ。アレが」

「アレ?」

「机に教科書をいれたら、ガンッてなにかにぶつかって。何度かガンガンやっても教科書が入らないんです」


 俺は不思議に思って机の中をのぞき込んだ。すると、小さな箱がみえた。一度顔をあげてもう一度のぞき込むと、ピンクのリボンがみえる。赤いハートがいっぱいの紙で、美しく包装されたプレゼントボックスがある。

 ボッと火がついたかのように、顔が熱くなるのを感じた。

 黒板には「二月一四日」の文字。つ、ついにこの日が来たと、全身の血が沸騰するようだった。


 クラスの女子は五人しかいない。そのうちの誰が俺の机にチョコをいれたのか。そのことを考えると、ドキドキしすぎて手に汗を感じる。一番かわいい佐藤さとうさんなら嬉しいが、それはあり得ない。三番目にかわいい松田まつださんぐらいなら、付き合ってもいいかな。幸せな気分でそんなことを考えていたのに、チャイムが鳴ると、熊みたいに図体のデカい担任がニコニコしながら教室に入ってきた。

 幸福感を噛みしめている俺は、きっと顔をほころばせていたんだろうな。担任は俺に目を向けると、だぶついた腹を毛むくじゃらな手でかきながら、殴り飛ばしたくなるようなことを口にした。


「おはよう。今日は二月一四日、バレンタインデーだ。モテないジャガイモ男にはツライ一日だろ。だから、先生が男子の机にチョコをいれておいたぞ。ガハハハッ」


 豪快な笑い声が響いたが、殺意しかない。

 生まれてはじめて女から本命チョコが来たと思ったのに、現実は壮年期を過ぎたむさ苦しい独身男からのチョコ。「ふざけるなッ」と叫びたかったが、あまりの屈辱に体が震えて、涙をこらえるのに必死だった。

 幸せな時間が一瞬ではじけ飛ぶと、俺はバレンタインデーを腹の底から憎んだ。


「あの熊野郎は、純真無垢な高校生の男心を粉砕したんですよ」


 当時のことを思い出し、また泣きたくなったのでぐてーんと机に突っ伏した。


「そりゃ災難だったな。でも、大学ではどうだ? そこそこ名の通る大学に通ってたんだろ?」


 なぐさめるような言葉遣いで、村上さんは俺の頭をなでてくれたけど、声がどこか震えている。笑いをこらえているようだった。

 チラッと村上さんをみると、やはり笑うのを我慢していた。俺はむくっと起きて、枝豆を指でもてあそびながら大学時代の話をする。


「ずっと野球をやってましたが、大学はちょっとチャラいサークルに入ったんです」

「女にモテたくてか?」


 意地の悪い表情を向けられたが、彼女が欲しくて入ったサークルなので、返す言葉がない。村上さんの質問は無視して話を続けた。


「一年の頃は、ほぼ奴隷。先輩が幅を利かせて女をぜーんぶ持っていく。二年、三年になれば、先輩たちのように一年生をこき使い、彼女ができると信じてました」

「ほぅ。それは随分と下衆なサークルだな」

「……そうですね。下衆の集まりだから、先輩が罪を犯してサークルは解散。で、そのサークルにいた俺はなにもしていないのに、犯罪者扱い。女はみんな警戒して……。あーもう、俺はきっと一生このままで、ひとり寂しく死んでいくんだぁーッ」

「そっか。それなら、コレやるよ」


 カバンの中をゴソゴソと探りはじめて、四角いものを取り出す。

 クールな村上さんらしい、シックな包装紙のプレゼントボックス。赤と黒のリボンが大人っぽくて、思わずイスから落ちそうになった。

 驚きすぎて目を丸くする俺に箱を押し付けると、村上さんはスッと立ちあがる。


「高木はよくがんばったからな。女の上司にイヤな顔もせず、ついてきてくれた。さ、そろそろ帰らないと電車がなくなる」


 伝票を持って、スタスタとレジへ。


「あ、ちょっと。今日は俺がおごります」

「あのなぁ、バレンタインデーだぞ。ここはお姉さんに任せなさい」


 手をヒラヒラとふって、先に出てろと合図をする。

 仕方がないので外に出ると、黒く塗りつぶされた空から、綿わたのような白い雪がふっていた。

 雪は、ビールと突然のチョコで熱くなった体を気持ちよく冷やしてくれたけど、胸がバクバクと波打っている。


「おまたせー」


 明るい声の村上さんが店から出てくると、俺は深々と頭をさげた。


「ありがとうございます。おごってもらったうえに、こんな立派なチョコまで。女性からチョコをもらうことなんて、もう二度とないと思うので、このチョコは一生大切にします!」

「ははは、ホント高木は良いヤツだね。私からのチョコがそんなにも嬉しいなら、来年もあげるからサッサと食え。なんなら一生あげてもいいぞ」

「えっ?」


 驚いて顔をあげると、何杯飲んでも顔色ひとつ変えない村上さんの頬が赤い。


「ちょっと飲みすぎたかな?」


 そういって、両手で頬を隠した村上さん。

 本気なのか、冗談なのかわからない。でも、仕事にとても厳しい上司の意外な姿に、眠っていた俺の恋心がきゅんと音を立てた。

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