濡れ鼠である理由。


ポタポタと前髪と、睫毛と、顎から水が滴る。目を開いた。私は極めて冷静に、自分のグラスを掴んで、奈桜にむかってぶちまける。

そう来るとは思っていなかったのか、目を開いたままそれを浴びた。目をぱちくりとさせて、口をきゅっと結ぶ。あ、泣くかな。


「……ずるい」


掠れた声が聞こえる。

どうしてここにいるのだろう。というか、どうして私がここにいることを知ったのだろう。


「そうやって逃げてきたんだ、ずるい」


この水は自分で持ってきたのだろうか。


「そうやって、逃げ続けるつもりなの?」


デジャヴなのか、どこかで見た気がする光景だった。奇跡的にノートには水がかかっていなかったので、パタンと閉じた。紙ナプキンに手を伸ばしかけて、これよりタオルだと思い返した。

奈桜はどうするのだろう、と顔を見た。奈桜は泣いていた。嗚咽を漏らさずに。


思わず鞄からタオルを出して、「ご、ごめん」と言いながらその顔を拭いてあげた。立ったまま泣いているので私も中腰になる。ちょっと待って、可笑しいよね。私が急に水を掛けられたのに。

世の中は、結局泣いたほうが強い。弱いものの方に味方はついてくる。泣かない方が悪いと決めつけられる。もういいや、謝ってしまったし、そういうことを考えるのは面倒だ。私はいつも面倒なことは諦めてしまう。


「修羅場……?」


後ろから声がした。千尋は振り向いた私を見てぎょっとした顔になる。

千尋がこの子を連れてきたらしい。その手にはウーロン茶があった。奈桜が持ってきたのが水で良かったと思う自分がいる。

漸く座った奈桜は、私のタオルで自身の水滴を拭い始めた。私も濡れてるんだけど。千尋がどこからかタオルを持ってきてくれた。それで前髪と顔を拭く。ファンデーションが落ちた。


「こんな所で眠るなら、家に帰ってきてください。母が気にしてます、ちゃんとしてください、大人でしょう?」


奈桜は私を睨む。隣に千尋が座った。煙草と煙の匂いが微かにする。居酒屋バイトの後に来てくれたらしい。

大人、か。数年前は私も制服を着ていたんだよ、と言ったら驚くだろうか。


「嫌なら、きちんと理由を話すべきだと思います」

「あの家だと眠れない」

「え?」

「少し前は眠れてたんだけど、最近急に眠れなくなったの」


思ったよりあっさり理由を口にした私に、ぽかんと口を開けながらそれを聞く奈桜。千尋は黙っていた。賢明な判断だと思う。


私と奈桜は血は繋がっていないけれど姉妹。一ヶ月程前に義理の姉妹となった。

私の父と奈桜の母である裕香さんが結婚したから。同じ職場だったというのはぼんやり聞いた。私は別に反対はしなかったし、お父さんがしたいならすれば良いと思った。

考え方が少し甘かったなと今でも思う。結婚するということは、一緒に暮らすということ。一緒に暮らすということは、他人が生活の中に入り込み、自分も他人の生活に入ることだ。

最初は違和感があったけれど、なんとか慣れた。裕香さんの作ってくれたご飯を食べて、裕香さんの洗って干してくれた服を着て、裕香さんの掃除してくれた部屋で眠る。

裕香さんは優しい人。いつもにこにことしているけれど、奈桜とは親子喧嘩をよくしていた。私にはいつも笑顔を向ける。それに気付いて、私とは親子ではないから喧嘩が出来ないのだと気付いた。

そういう思考に辿り着いたときにはもう、ほろほろと崩れるように落ちるように悪くなっていった。

眠れないって、とても怖い。あと少しで眠れるはずだ、と思いながら目を瞑って、次に時計を見ると一時間経っている。そうして朝を迎える。


奈桜がすん、と鼻を啜った。頭がファミレスに戻される。


「だったら、そう言えば良いじゃないですか。黙って家出みたいなことしなくても……」

「奈桜が言う程、心配してないと思う」

「してます! 私の……お姉ちゃんなのに……」


お姉ちゃんという単語に、心が揺れる。

私も奈桜のことを妹だと思っている。この子の為に命を賭けられるという程ではないけれど、水くらいなら被っても良いとは思っている。掛け返してしまったけれど。

またグズグズと泣き始めた奈桜に、私は参ってしまう。他人にこんな姿を見られたらまずいとか、裕香さんになんて思われるかとか、そんなことよりも私が困る。たぶん、部活辞めるときの彼女たちの表情が脳裏に焼き付いてるからかも。


「分かった、帰る。ちゃんと帰るから」


どうしたって折り合いをつけないといけない。このまま捻ったまま進むことはできないと分かってはいた。後回しにしていただけで。

ふ、と隣で千尋が笑った気がした。


お手洗いに立った奈桜が居なくなって、息を吐く。なんだろう、どっと疲れがきた。


「……どうして連れてきたの」

「聞かれたから」

「だからって……まあ、私が千尋の立場でも連れてくるね」

「心細かったんじゃない?」


千尋はソファーに背中を預けて、こちらを見ていた。私が? と訊いてみる。


「奈桜ちゃん」

「それはこんな夜中に一人で外歩いてたら」

「じゃなくて。家で、だよ。亜季が家に居辛いなって思うのと同じで、奈桜ちゃんだってまだ慣れない暮らしの中、自分の唯一の親が違う人と楽しそうにしててさ」

「うん」

「そこで、同じ境遇の亜季が居たことにちょっとは救われてたんじゃないの。でも、亜季は急に家に近付かなくなって、寂しくなったんだよ」


それで、寂しそうな顔をしていた、と千尋は言ったのか。その洞察力の半分を分けてほしい。


「……私、逃げても良いって思ってたけど。それって、追って来てくれる人がいるときは、駄目だよね」




奈桜が戻ってきた。立ち上がって、ファミレスを出た。家に帰ったらまず裕香さんに怒られるだろうな、と予想する。眠気で思考が滞ってくる。


「ここでいいよ、ありがと」

「女子二人なんだから気を付けて」

「はーい」

「ありがとうございました、ご迷惑をおかけしました」


ぺこ、と奈桜がお辞儀をする。改札を通ってホームにおりた。思ったよりも早く濡れた部分が乾いて良かった。

バイブ音がして奈桜は電話に出た。相手は裕香さんらしくて、やはり滅茶苦茶怒られている。それを見てちょっと笑ってしまう。


「……帰ったら同じ運命ですからね」

「覚悟はしてる」

「千尋さんって、お姉ちゃんの恋人?」

「うん」

「良い人ですね」

「ラタトスクみたいだと思う」

「らたとすく?」

「北欧神話に出てくる、世界樹に住んでる栗鼠でね。ある時、鷲と蛇が喧嘩をするんだけど、その会話を中継して煽っていくの。根は良い人だし表面も良い人面するんだけど、たまに爆弾を放り込むことがあるな、とね」

「爆弾……」

「格好良いし、人気あるけど。付き合うの大変だと思うよ」


何を牽制してるのかな、と言いながら思った。電車がくる。


「じゃあ、お姉ちゃんと千尋さんが喧嘩したら、次は私がそのラタトスク? になりますね」


その風に奈桜の前髪がふわりと靡いた。

邪気の無い笑顔に私も苦笑してしまった。










『ラタトスク』END.


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ラタトスク 鯵哉 @fly_to_venus

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