第47話

 人々の歌はトラヴィアのジストフィルドの耳にも届いた。

 彼は喫いかけのパイプを口から離し、「魔女め」と吐き捨てた。火皿から立ち昇った水晶煙草の紫煙が、蜥蜴の形をした靄となって盤上を緩慢に這い回った。煙の蜥蜴が登ろうとした駒を骨張った指がつまみ上げ、盤の外へ排除した。蜘蛛のような手をした痩せぎすの男はミクリット。

「ジストフィルド、また喫いはじめたのか」

 ミクリットがそう揶揄したが、ジストフィルドは取り合わなかった。代わりに問う。

「リヴェナの部隊から報告は?」

「収穫なしだ。ソセから北に向かった一団にはどうやら鷹の目のコウロウがいると考えざるをえないな。やつら、うまくやっている。こちらの動きは筒抜けらしい……」

 ジストフィルドは〈騎兵〉の駒で〈魔術師〉の駒を小突く。倒れかけた駒をミクリットは拾い上げ、二つ離れた枡目に移動させた。

 クロッカは二人で行う盤上遊戯の一種で、きわめて戦略性が高く展開が多彩であることから神殿では人気のある遊びだ。指し手は交互に歩兵・騎兵・魔術師・船・竜・王の六種類の駒を動かして相手の駒を排除していき、王以外の手持ちの駒をすべて失うか、王の駒を失うと敗北となる。ジストフィルドが見習いを卒業したころに兵法を学ぶ手段のひとつとして師から手解きを受けて以降、彼とレイガンとは幾度となくこの盤面を挟んで向かい合ってきた。その盤上遊戯を、今ジストフィルドはミクリットと指している。

 ミクリットが集中力を欠いたようすで脚を組み替え、首を傾げてみせた。

「どうした、騎兵で魔術師の駒は取れないぞ。移動させて妨害するのが関の山……」

「もとより治安部隊の神兵どもに期待はしていない。最終的に灰の山脈の向こうに逃しさえしなければいい」

 ジストフィルドは眼の上に零れかかろうとする前髪をかきあげ、盤の隅を爪の先で叩いた。

 金粉に似た呪文の火の粉がぱっと上がり、眩い炎の幻影を生み出した。炎は変彩金緑石アレキサンドライトの輝きを帯びて二色に閃き、盤面を走って〈魔術師〉の行く手を阻む。遊戯盤を無感動に見下ろす二人の髪が熱風を孕んで膨らみ、魔術の炎は駒を完全に飲み込んだかに見えた。

 しかし、ジストフィルドがさりげない仕草で掌を返すと──既に炎は消えていた。盤上にはわずかな熱の余韻さえ残っていなかった。夢のように。ただこの魔術師がはじめから纏っていたまじない香のシダーと蝋、そしてくっきりとした水晶煙草の馨りが鮮烈に薫った。

「麓には既に隊を差し向けてある。異端討伐の使命に燃える、敬虔なカリエンの部隊だ。彼の優秀な反響魔術が鷹の目を眩ませている限り、苦労することはないだろう」

 おお怖い、とミクリットがさして怯えてもいないふうに呟いた。

「ジストフィルド、あなたはなにを考えている? 賊王が〈秋の砦〉に籠っていることまでは掴んでいるんだろう。ちょろちょろと逃げ回る鼠を追い回すよりも、さっさと彼奴を押さえるのが手取り早いのは明らかだ。魔女がひとりでいる限り、彼女にできるのは逃げることくらいなんだろうからね」

 ミクリットが身を乗り出した。

「トラヴィアで兵を腐らせておくのはもったいない。私にいくらか任せてもらえるよう上申してくれないか。それとも……ジストフィルド殿にはなにかこだわりでもあるのかな?」

 弧を描く薄い唇のあわいから、凶暴に並んだ歯が覗く。ミクリットは蛇の立てる音を思わせる声音で囁いた。

「解るとも。私もやつが嫌いだった。憎んでいたよ……ジストフィルド。今のあなたと一緒だ……」

 硝子の杯にぴしりと罅が入った。ミクリットは口角に曖昧な笑みを残したまま、ジストフィルドを慎重に観察しているようだった。ジストフィルドは表情を変えないまま、亀裂の入った杯に視線を遣った。ジストフィルドは口を開いた。

「〈秋の砦〉はそう簡単には落とせんぞ。お前の手には余るかもしれない。最後まで残ったのにはそれなりのわけがある。七年前、教会は二軍の遠征部隊に〈秋の砦〉を攻めさせた」

 ジストフィルドは盤面の外に置かれていた魔術師の駒を取り、手の中で弄んだ。

「ガットーの内乱の二年後のことだ。賊軍の残党を排除し、根強く蔓延るアルバ信仰を完全に浄化する狙いがあったが、結果として教会は失敗した。〈王〉が現れる前の出来事だが、それでもやつらを根城から追い出すことはできなかったのだ。フタル人も馬鹿ばかりではない」

「だがわれわれほど賢くはない」

「どうかな」

 ジストフィルドは笑みまじりに再びパイプをふかした。ここにははっきりと嘲弄の気配があったので、ミクリットの目は鋭さを増した。こういった性質の男は……とジストフィルドは考えていた。能力はあくまで凡庸だが、自らを侮られることに関してだけは人一倍過敏なものだ。

「どのみち、俺一人では決められん。鈍重な特級の連中に掛けあってみようじゃないか。さあ、それで満足ならラグルフとサンナをここに呼んでくれ。用があるんでね」

「まだクロッカの勝負はついてないだろうに」

「ついてるさ。分からないのか?」

 ミクリットは遊戯盤に目を落とした。その一瞬、ミクリットの目が暗い憎悪に閃めくのを、ジストフィルドは見逃さなかった。顔を上げたミクリットは阿るような表情を浮かべていた。

「なんと、二手前から詰んでいたとは。これはまいった、気付かなんだ」

「いいや、三手前からだ。為すべきことを為し、指令を待て」

 今度はミクリットは笑わなかった。蛇の封蝋印を持つ魔術師は、自らの駒をそのままにして立ち去った。

 ミクリットは望み通り〈秋の砦〉へ兵を向けることになるだろう。好きにさせておけばいい。おそらくことになるだろうが。

「包囲戦は俺の趣味じゃあないが」

 ジストフィルドが呟くように言った。

「山麓部の銀葉川沿いにトゥグルの城跡があったはずだ。うまくすれば一本の矢で二頭の狐を射られるかもしれんが、そこまで期待をかけるのは愚かかな?」

 惰性で咥えていた水晶煙草のパイプからは既に火が消えていた。ジストフィルドはパイプを手に取ると、かつての習慣通り火皿から熱い灰を掻き出そうとした。


 その瞬間、ジストフィルドは動けなくなった。

 予兆はなかった。文字通りに指一本動かせなくなり、呼吸も止まった。尋常ならざる体の働きに、心臓が激しく脈打ち、警鐘を鳴らした。

 瞳だけは動かせたので、ジストフィルドは周囲に素早く視線を走らせた。左右に誰もいないことを確認し、二回瞬きをすると、いつのまにか目の前の椅子に見たこともない男が悠然と腰掛けていることに気づいた。男の髪はくらやみで紡いだ糸を撚り合わせたような漆黒で、瞳ばかりが黄金色にぎらついていた。ジストフィルドはこの金の瞳をどこかで見たことがあるような気がした。男は物憂げに微笑していたが、それはどこか作り物めいた、左右均等な笑みだった。

「楽にしたらどうだね、ジストフィルド」

 ぞっとするほどに昏い声で男は言った。

「だが、ふむ、そういうわけにもいかないようだ。手伝ってやろう」

 男が血の気のない手を持ち上げ、二本の指で空中に一咫ひとあたほどの水平線を引くと、ジストフィルドは再び呼吸ができるようになった。ジストフィルドは荒い息をつきながらも努めて動揺を抑え、目の前の男を見据えた。この黄金の瞳を持つ男が誰なのか、ジストフィルドにはもう分かっていた。依然として手足は動かなかったが、ジストフィルドは構わずにぎこちなく尋ねた。

「イベル人がなぜ異教徒の肩を持つ」

「私とお前は敵同士ではないよ」

「世迷い言を。異端の神を信奉するもの、またこれに連なるもの、すべてルーメス教の敵」

 ジストフィルドは冷ややかな声で答えた。

「ルースは紅き印、炎による浄化を望まれるだろう。伝承の通りに」

 〈王〉、イスリオはおかしそうに低く笑った。いったいなにがおかしいのか、ジストフィルドにはわからなかった。

「おまえはおまえが思うほど敬虔だろうか。おまえの望みを知っているぞ、ジストフィルド」

「そんなことはどうでもいい。貴様はなんのつもりだ。ルースの加護篤きロシ神殿に姿を現すことのできるほどの力を持っていながら、なぜさっさと魔女を拐わない」

 喋りながら、ジストフィルドははっと気づいた。

「そうか、できないのか」

 イスリオは返事をせず、ただジストフィルドを見返した。暗雲の中に座礁しかけていたジストフィルドの思考の一部が、途端雲の切れ間に月光を得たように明瞭となった。

「おかしいと思っていた。砦の配置にはレイガンも疑念を抱いていたぞ。随分と大掛かりな結界を組んだものだ。そうか、お前はわざと血を流した、何万人分の死体を埋めたのか想像もつかないが」

 確信とともに、ジストフィルドは夢中になって続けた。

「ここも交点のひとつだったのか。お前の力は強大だが、結界の交点から離れれば離れるほど弱くなる。そして、あの娘が……」

 ジストフィルドが言えたのはそこまでだった。イスリオは指ひとつ動かさなかったが、不可視の縄がジストフィルドの首を締め上げていた。四肢の硬直が解け、ジストフィルドは苦しさに両手で喉を掻き毟った。

「その通りだ。賢いな」

 イスリオは立ち上がり、ジストフィルドを見下ろした。

「その賢さを正しく用いてもらいたいものだ。そう、お前の憎悪は素晴らしいよ。私の力を強めてくれる」

 視えない縄が僅かに緩み、ジストフィルドは喘ぐように呪詛を投げかけた。

「貴様……いったい何年生きている?」

「お前のためにここに来たのだ、ジストフィルド。私のために働いてくれ。お前が自ら門戸を開き、その一部を私に明け渡すなら、私もお前の手助けができるだろう。今、私たちは同じ方向を向いているとは思わないか。遍く大地を浄化するものが炎なら、憎しみもまた炎だ。そのふたつにさしたる違いはない。そうあるように、燃え広がるべきだ」

 その瞬間、ジストフィルドの心の裡に激烈な怒りが湧き起こった。骨の髄まで沸き立つような、凍てつく怒りだった。

──この憎悪は俺のものだ。誰にも触らせるものか。

 高い風切音とともに鋭い魔術の刃が四方から放たれ、イスリオの身体を深々と貫いた。イスリオは驚いたように目を丸くしたが、その体から鮮血が迸ることはなかった。

「穢れた結界の中と言えども、この神殿内で貴様が俺に手を下すことはできまい。呪われた逆徒、邪教に加担する亡霊め。地下深く暗闇の牢獄に堕とされるがいい」

「本当に残念だ、ジストフィルド……おまえの……」

 イスリオの輪郭が揺らぎ、声は朧になって聞き取れないほどになった。いつの間にか開いていた窓から一陣の風が吹き込み、幻影は砂像のように解けていった。

 やがて、男の姿は完全に掻き消えた。あとには禍々しい太古の呪術の、湿った黴臭いにおいだけが残った。


 ジストフィルドはしばらくの間椅子から立ち上がれず、呆然としていた。遊戯盤の上にパイプが投げ出され、灰が飛び散っていたが、それも既に冷めはじめていた。ジストフィルドは小刻みに震える自身の手を伸ばし、倒れていた駒のひとつを摘んで立ち上がらせた。それは〈魔術師〉の駒だった。ジストフィルドの脳裏にある思いつきが過ぎった、ちょうどそのとき、扉が三回叩かれた。

 息を整える時間が必要だった。ジストフィルドはのろのろと両手で顔を擦り、乱れた髪を乱暴に撫でつけると、言葉少なに「入れ」と答えた。

 厳めしい顔つきで入室したのは、ミクリットに呼びつけさせた二人の上級魔術師だった。二人とも儀礼用の杖を携え、皺ひとつない紋章入りガウンに身を包んでいた。ジストフィルドよりは若いが、若さゆえの苛烈なまでの敬虔さを備えていた。そして、今はジストフィルドにほとんど心酔してもいた。

──親しい兄弟子を邪教の悪魔に拐かされ、おぞましい裏切りに血を流しながら、清廉なる信仰の刃で彼を手ずから断罪せんとするルースの使徒。

 ジストフィルドの口元に皮肉げな笑みがのぼりかけたが、彼は努めて自制した。こうなる前はさほど好まれもしなかった自分が、今や一部のものたちからは憧憬を浴びている。彼は黙ったまま二人を眺めていたが、やがて口を開いた。

「レベレス神祇官の激励文を読んだな」

 並んだ魔術師の、男のほうが間髪入れずに諳んじた。

「ルースの息子たちよ。光の兵士たちよ。理を歪め、腐敗させ、闇に蠢く邪なものどもに向かって立て。暗がりを這いずる異端のものどもを追跡し、ひとりとして逃さず、焼き尽くすことをルースの名において爾らに命ずる。彼らをひとつ殺すごと、爾らは死後黄金の首飾りをひとつ授けられるであろう。誇りを抱き、心を引き締めよ。信仰の敵どもを根絶やしにせよ」

「その通りだ。貴兄らに命ずる。裏切り者の獣どもを追い、精鋭を率いて北へ向かえ。鷹の目に気づかれぬよう兵を分散し、トゥグルに潜み、補給のための拠点を築け」

「なぜですか」と女魔術師のサンナが尋ねた。

「麓には既にカリエンの部隊が赴いております。それに、異端者どもを追い立てるのならば各市の治安部隊で事足りましょう」

「いいや……おそらくそれでは足りないだろう」

 サンナは訝しげな顔をしたが、それ以上尋ねはしなかった。ジストフィルドは顎で扉を指し示した。

「行け」

 女は従ったが、男魔術師のラグルフのほうは立ち去りあぐねた。

 ジストフィルドは苛立ち、仕方なしに「どうした」と尋ねた。

 ラグルフは当惑したように尋ね返した。

「治癒師が御入用なのではないかと」

 彼の視線は、すべての爪に血の滲んだジストフィルドの両手に注がれていた。ジストフィルドは顔を背けて立て襟を引き上げ、もう一度魔術師に退室を命じた。

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祈りの国 識島果 @breakact

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