第46話

 ハイネとリボットが幾人かのフタル人らを連れてソセを出立すると、「我々もここを出なくてはならない」とレイガンが言った。キイラとその師は長椅子に並んで座っている。

「追放令を口実に、神兵どもがきみを捕まえに来るはずだからな。ソセは真っ先に狙われるだろう。われわれはフタル人たちを護衛しながら北へ向かう。ひとまずは、ヨルガを目指そう」

「強固な結界を張るのは?」

 キイラは尋ねたが、レイガンは首を横に振った。

「既に言った通りこの場所はもう神殿に知れているのだから、意味がない」

 レイガンは窓枠に手をかけ、外を覗くようにしながら言った。未だ幽かな馬の蹄の音さえ聞こえていない、しかし近い未来確実に訪れるであろう追手の影を、冬の澄んだ大気の向こうに捉えようとするかのように。その横顔からは感情を読み取ることができなかった。

 キイラは言葉を選びながら言った。

「あなたはパルテが逃げ出すことが分かっていた」

「ああ」

「赤銅の指環を嵌めたのは、あとで追いかけて殺すつもりだったから?」

「ああ」とレイガンがまた肯定した。

「でも、殺さなかった」

「ここを離れることができなかったからだ。それに、彼を始末したところで、遅かれ早かれこの場所は特定されると分かっていた。ルーメスの教会は無能ではない」

 そこでレイガンは口を噤み、キイラも沈黙した。レイガンは溜息を吐いた。

「いや……分からない。殺したくなかったから殺さなかったのかもしれない。殺せなかったわけじゃない。だが、多分少し前までの私なら考えるまでもなく殺していただろう」

 魔術師は無感動のベールを払い落としていた。困ったように掌で顔を擦り、一度は俯きかけたが、ふとなにかに気を取られたようにそのままの表情でキイラを見つめた。

「きみは驚きも怒りもしないんだな」

 その問いの指し示すところはすぐさま分かったが、キイラは「なにが?」と尋ねた。レイガンは顔を顰めた。

「私が公の場で提案したことに」

「怒ってほしかったの?」

 キイラが口角を上げ、やや意地悪な口調で言うと、レイガンは落ち着かなげに目を逸らした。むっとしたように答える。

「ユタみたいな言い方はよしてくれ」

「振る舞いを見習えって言ったくせに」

 キイラはレイガンの問いには答えを与えずに、長椅子から立ち上がった。取り残されたかっこうのレイガンは黙ってキイラを見上げた。会合の場での印象とは対照的に、彼は頼りなく——というよりも、ごく普通の人間のように見えた。キイラにとってはむしろ好ましい変化だったが、おそらくこれからは再び鎧を纏うことが必要になるだろう。レイガンも、キイラも。

「髪を整えたほうがいいよ、レイガン。下ろしてると若く見えすぎる。魔術を使ってるの?」

「いいや。褒めてるのか?」

「貶してる」

 レイガンは肩を竦め、相好を崩した。久々の寛いだ笑みだったが、それはすぐに拭い去られた。

「先に自分のことを心配すべきだな、キイラ。ドルムとよく話し合ったほうがいい。出来る限り早めに」

 キイラは口を開き、言葉を継ごうとして躊躇った。その通りだった。キイラは頷きも返事もせず、溜息を吐いて踵を返すと、フタルの家を出た。




 翌日にはキイラたちもソセを発った。隘路を抜けた先に続く街道の道幅は狭く、往来が頻繁でないために舗装は十分でなかった。その上フタル人の一行の中には足の悪い老人や女子どもも含まれていたため、この移動はきわめてゆっくりしたものだった。彼らは歌いながら歩いた。八弦琴の伴奏こそなかったが、ドルムがキリたちに習っていた、イベル人たちも知っているあの旋律だった。イベル人たちもそこに唱和し、異なる歌詞は一つの旋律の中に対立することなく溶けあい、悲壮感を和らげた。

 キイラが歌詞を口遊んでいると、ゼアンが興味を惹かれたように傍へ寄ってきた。

「わたしたちにとっては子守唄だったわ」とキイラは教えてやった。「『月桂樹が切られる前に』という名前なの。わたしが小さかったころ、お母さんがよく歌ってくれた。ローデンロットの子どもたちはみんなこの歌を聞きながら大きくなる、と言ってもいいくらい」

「おれの故郷でもそうだった」

 少し先を歩いていたイドが口を挟む。ゼアンは今度はイドのほうに駆け寄る。天幕で幻影魔術を見せてもらって以降、恐れ知らずのゼアンはこの顰め面をしてばかりの、お世辞にも愛想がいいとはいえない男にも懐いている。イドのほうもこの無邪気なフタルの少年を邪険にしてはいないようだった。イドもこの唄を小さく口ずさんだ。


 月桂樹が切られる前に

 拾い集めよう、黄金の葉を


 イドの声は掠れてはいたが、音程は正確だった。隣を歩くコウロウが、弾むような張りのある声で続きを受けた。


 燈虫の庭で娘は踊り

 夜と昼とを飲み込んで

 祝いの唄を口遊むなら

 白いクレマチスが咲くだろう

 

 「どういう意味なの」とゼアンが尋ねた。さあ、とイドは首を振ったが、コウロウは「讃美歌の一種だろう」と答えた。

「少なくとも、宗教的な意味合いがあることは間違いない。燈虫は神の使いとされているし、クレマチスの花は八弁だ。八はルーメス教にとって重要な数字だからね」

 コウロウは続けた。

「ルースの似姿として生み出されたリベルディアの旅路を綴る神話は全部で八篇。リベルディアに付き従った若者らは八人。彼らが進んだ道程は八イールだ」

「そういえば、フタル人の信仰する神もそうだわ」キイラはヨンが弾き語った詩を思い出していた。「琴の弦も八本」

「ルースとアルバは、もともと本当に同じものだったのかもしれない。私たちが神と呼ぶものはただひとつの理に過ぎず、それぞれが別の名前を付けただけ」

 気負いなく放たれたコウロウの言葉は、かつてフタルの〈王〉、イスリオがキイラに告げたのと同じものだった。今、キイラはそれを静かな納得とともにすんなりと受け入れることができた。キイラは心の中でカドに囁きかけた。名前は重要だけど、わたしたちは名前に仕えているわけじゃない。ルースでもアルバでも、どっちだっていいんだわ。わたしたちがそれを正しいと信じる限り。カドはほんのりと暖かい燐光でそれに応えた。


 布令に記された五日間を過ぎると、ソセの一行にもちらほらと悪い報せが舞い込んできた。各市に出した偵察が操音術を用いて語る声は、例外なく憂いに満ちていた。不吉な紫の旋風のようにそれらはキイラたちの胸中を吹き抜け、背骨のあたりで軋むような音を立てた。

 ロンドノルドからの立ち退きを拒んだフタル人の一団が広場に集められ、見せしめに虐殺されたという報せを受け取ったときには、悲嘆のあまり彼らの大部分がそれ以上足を進めることができなくなった。キイラは歯を食いしばって彼らを励まし、ひたすらに北へと歩かせ続けた。コウロウの〈鷹の目〉の魔術が、治安部隊の進路を予測するのに役立った。もし小隊のひとつにでも衝突したら最後、相手を殲滅しない限り本隊にキイラたちの居場所が知れてしまう。

 ハイネやリボットたちからは、七日目に神兵の一部隊と接触したという連絡が入った。殲滅を報告する二人の声は疲弊していたが、犠牲を出すことなく無事にナガル川以西へと南域のフタル人らを避難させることに成功したようだった。これは珍しくよい報せではあったが、十日を過ぎるころには心臓石による連絡が途切れた。距離が離れたためであると思いたかったが、最早確認する術はない。

 歩き続けるうちに、各市から北へ逃れようとするフタル人らが加わり、彼らの列はどんどん長くなった。新しく加わった人々はこの一行に神官や魔術師が入り混じっていることに初めは戸惑ったものの、湖に滴った一雫のインクのごとく、そのうちに溶け合っていった。イベル人とフタル人はパンを分け合い、魔術で灯した明かりを分け合って夜を過ごし、ときには悲嘆やささやかな喜びさえ分かち合うことができた。

 追いすがる治安部隊の手を躱しながらも、彼らは歌い続けることをやめなかった。彼らは口々に言い合った。

「われわれは自身の存在を知らしめなくてはならない。神殿でも抵抗者でもない、イベル人でもフタル人でもない、第三の民として。われわれは歌われなくてはならない。光に連なるものとして」

 そのうちに、いくつものせせらぎがやがて大きな川へと流れ込むように、どこからともなく二つの歌詞は絡み合い、撚り合わせられ、嘆きではなく祈りの色を帯びた新しいひとつの歌が織り上げられた。新しい歌が長い列の上を静かに広がっていくさまは、凪いだ湖の上に水紋が広がっていくようすを思わせた。人々が歌うたび、言葉に編まれた魔法の響きが翠玉のさざれ石のように輝き、ヴェールのように薄くキイラたちを取り巻いて闇の目から覆い隠した。それは明らかに、祝福の魔が歌であった。



 一方で、キイラはドルムとの会話の機会を得られないままでいた。ときに並んでいても、彼は黙々と歩を進めるばかりで目さえ合わなかった。彼がキイラとの直接的な対話を避けているのは明らかだった。

 その晩はひときわ暗い新月の夜だったので、魔術師たちはギンバイカの枝を折り取ってログレインの呪文を唱えると、熱を持たない白銀の灯りとした。輝きを増す青金石の天蓋の下で、ドルムは天幕にも入らず、ただ黙って焚火に小枝を焼べていた。キイラは勇気を出して彼に近づき、隣に座った。ドルムは立ち去ろうとはしなかった。キイラは木切れが爆ぜる音に紛れそうな声で囁いた。

「怒っているの」

 ドルムは答えなかった。しばらくの間彼は黙って焚火の面倒を見ていたが、やがて溜息を吐き、キイラのほうを見た。

「きみにはキリカに逃げてほしかった。僕の言っていることは身勝手か?」

 ドルムの顔の半分は炎の灯りに照らされ、橙に揺らめいていたが、鳶色の瞳は深い疲労に沈んでいた。

「身勝手なんかじゃない。わたしだって、わたしがあなただったら……」

「いいや、違う。もし反対の立場なら、きみはこんなことを言って僕を困らせるようなことはしなかっただろう。きみはレイガンと同じだ。やると言ったらやり遂げる強さがある。だが、誰もがきみたちのように強いわけじゃない」

 そうドルムに遮られ、キイラは黙りこくった。気まずい沈黙が夜の濃厚な静けさとともに二人の上に落ちかかり、息苦しくさせた。ドルムは襟元に指を入れ、喉のあたりを緩めた。そうすれば呼吸が楽になるはずだとでも言うように。ドルムは短く謝罪した。キイラは首を振ってみせたが、ドルムはこう続けた。

「きみの強さに惹かれた。でも、きみの強さは、きみを遠いところへ運び去ろうとする。誰の手も届かないところへ。一度きみを失ったかもしれないと思ったとき、僕は怖ろしかった」

 ドルムは深く俯いた。耳元で揺れるオリーブ石の耳飾りばかりが明るく煌めき、頬の傷に光を投げかけた。彼はひどく軋んだ声で絞り出した。

「きみを失いたくない。きみさえ僕の傍にいてくれるなら、フタルもイベルもどうだっていい。僕は臆病者だ」

 キイラはドルムの肩を抱擁しようとしたが、彼はそれを拒んだ。キイラは胸に氷の刃を突き立てられたかのような、鋭く冷たい痛みを覚えた。キイラは呼吸の仕方を忘れた。そして、胸の傷から流れ出す血液でこのまま窒息してしまうのではないかという妄想に囚われた。

 ドルムは立ち上がり、キイラを見下ろした。キイラよりも自分の言葉に傷ついた表情をしていた。ドルムは一旦目を瞑って喉を傷めそうな呼吸をし、そして言った。

「なにもかも間違いかもしれない。きみは聖女じゃない。そうだったらよかった」

 キイラは喘ぐような声でなんとか答えた。

「間違いだったら、わたしとあなたは出会わなかったわ」

 ドルムは返事をせず、キイラに背を向けると、自身の天幕へと入った。その場にはキイラと炎の明かりだけが残された。腰掛けたままのキイラの前で、焚火が柔らかな音を立てて爆ぜ、新しい火の粉が舞った。キイラは悲しみの涙が溢れてくるのを待ったが、それは雫となって零れ落ちる前に炎の熱が乾かしてしまうようだった。やがてキイラは溜息を吐き、炎を調整して熾火の状態にすると、その場から立ち上がった。ずっと炎にあたっていたのに、手足はひどく冷えていた。キイラは無意識のうちに胸元に手を遣り、真新しく出来たはずの傷を確かめようとしたが、そこには馴染み深い指環があるだけだった。キイラは指環を握りしめた。


 そのとき、背後から若い女がキイラに声を掛けた。見覚えのない、フタル人の女だった。

「聖女さまですね」と女は言った。

 キイラは表情から憂いを拭い落とし、「わたしになにか御用ですか」と尋ねた。キイラの返事を聞くと、女は感じ入ったように溜息を漏らして言った。

「ああ、本物なのですね。聖女さま。あなたの話を歌に聞きました。アルバに代わってどうぞわたしたちをお導きください。ああ、どうか、わたしの手を握ってくださいませんか。わたしはロンドノルドで夫と両親を失い、最早寄る辺がないのです」

 キイラが彼女の手を握ると、彼女は静かに涙を流した。そうして丁重に感謝を述べると、そこから立ち去った。

 女がいなくなると、その場に立っているのは本当にキイラだけになった。

 カドが尋ねた。

「どうやって天と地を結びつける?」

「分からないわ」とキイラは答えた。

「分からなくても、進むしかないの」

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