第45話

 朝の光の中に裸の枝がくっきりと浮かび上がり、灰色がかった空に罅を入れている。低い太陽が齎す陽射しは弱く、足元に落ちる影は淡い。キイラが悴む手を擦りあわせながら井戸に向かうと、レイガンとドルムの師弟がなにやら井戸端で話し込んでいた。白い息がドルムの口元からたなびき、痺れるような冬の大気に溶けていく。キイラが近づくと、二人はすぐに顔を向けた。

「おはよう、キイラ」

「カドも」

「なにを話してるの?」

「研究の話だよ。長らく行き詰まってたところがあったんだけど、夜明けに突然目が覚めて、いい考えが湧いてさ。誰かに話したくってうずうずしてたところに僕らの師匠せんせいが通りかかったってわけだ」

「まだ続けてたのね」

「もちろん! 僕の研究は何処でもできるからね。木の枝と地面と、この頭さえあれば……」

 ドルムが屈んで足元の枝を拾い、戯けたように振ってみせる。

「そういえば、詳細を聞いたことってなかったけど……心臓石を使った操音術だっけ?」

「いいや、貴石魔術の新しい基礎式を構築しようとしてる。既存の術式は不安定すぎるからね」

 レイガンが両手を広げてみせた。キイラは首を傾げ、ドルムのほうを見た。

「描き起こされた図面を何度か見たことがあるくらいだわ。わたしたちには必要がなかったし」

「妬けるな」とドルム。「だけど、これまでのものはどれも美しくなかった。作ったやつが無能だったんだ」

「口が過ぎるぞ、ドルム」

「あんたは直接関わってないじゃないか。かまやしないだろ?」

「そういう問題じゃない。口を慎めと言ったんだ」

「それで、どんななのだ。新しい術式というのは」

 カドが取りなすように口を挟む。ドルムが嬉しそうにした。

「よくぞ聞いてくれた。新しい貴石魔術は完全な円環のイメージだ」

 ドルムは枝で地面に線を引き、正円を形作った。

「これまで、心臓石は単なる増幅器だった。術者の手を離れて増幅された純度の高い魔術は暴走の危険性が高い。これまで、みんな借りものの馬に手綱をつけるような扱いにくさを感じていたはずだ」

 レイガンが頷いてみせるのを見て、ドルムも頷いた。

「新しい心臓石は術者の一部となる。文字通り第二の心臓のようにね」

「実際肉体に埋め込むということ?」

「そうじゃない。術者の意思の一部を輝石の中に落としこむんだ。キイラ、きみたちがそうしているように。そうして力を循環させる。双方向的な繋がりになるわけだ」

「先程聞いたときから気になっていたんだが、別の種類の危険性が生じるんじゃないのか。術者の意思を体外に切り離すんだろう」

 レイガンが指摘した。

「いいや、正確に言えば切り離すわけじゃなく、拡張するんだ。身体の外へと……」

「求心力の強さには個人差がある。一部を落とし込むつもりが、石のほうに引かれすぎる可能性もあるな。いずれにせよ、なんらかの防御機構は必要だろう」

「確かにそうかもしれない」ドルムは認めた。

「式の中に組み込めないかやってみる」

「そういう話をここでずっとしていたわけ? この寒さの中で?」

 二人が頷く。キイラは呆れ返った。

「家の中に入ったら。風邪を引きそう」

「なるほどね。それはいい考えだ……冴えてるな」

 ドルムが洟を啜った。その隣でレイガンが控えめにくしゃみをする。

「手遅れかもしれないな」とカド。

 そのとき、コウロウが薄着のままで此方へ駆けてくるのが見えた。息急き切ったその尋常ならざる様子に、キイラは顔を顰めた。コウロウは三人に駆け寄ると、弾む息を整えもせずにこう言った。

「今すぐ集まってくれ。悪い報せがある」









「フタル人の追放令が発布された」

 いつもの面々をすっかり広場に集めると、コウロウが苦々しい表情でそう告げた。

「すべてのフタル人は五日以内にイベルタ全土から退去するようにと。この日数を超えて国内に留まっていたものは、見つけ次第捕縛される」

「五日以内だと? 不可能だ」と呟いたのがイド。二人はいつも隣りあって並んでいる。

「足の悪い老人にその短期間で灰の山脈を越えろというのか?」

「捕縛されるとどうなる」カドが口を挟んだ。「その場で殺されるのではないのか」

 コウロウが答えた。

「罪に問われ、裁判にかけられるそうだ」

「まったく馬鹿げてる。裁判なぞあるものか。まとめて虐殺だ」

 キヤルクが難しい顔をした。蒼ざめてはいるが、彼は冷静だった。

「予想はしていたが、思いのほか早かったな。統合軍隊は未だ組織されるという段階には至っていないはずだ。各市の治安部隊を使うつもりなのだろうが……」

「意外ではないだろう。今のまま国軍と叛乱軍がぶつかれば国軍の勝利は必定、しかしそれは〈王〉がキイラを獲得しなければの話だ」

 人々の視線がキイラに集まる。木箱に腰掛けていたレイガンが立ち上がり、ゆっくりと歩き回った。

「国軍は表立ってキイラを狙うことができない。あの処刑の夜の一件さえ緘口令が敷かれているはずだ。不確定要素を嫌うジストフィルドとしては、なるべく早く決着をつけたいと望んでも不思議ではない。フタルの民間人を追い出すことで、キイラの協力者を排除する意味合いもあるだろう」

「その、キイラのことなんだけど」とドルムが口を挟んだ。

「はっきり言わせてもらうよ。キイラをキリカに逃がすべきだ」

「なんですって」

 思いもよらぬ言葉にキイラは思わず声を張り上げた。ドルムはキイラを見ずに言った。

「レイガン、当然あんたはそれを考えたはずだ。それが彼女を守ることでもあるし、全体の危険を防ぐことでもある。万が一キイラがイスリオの手に落ちてしまったなら、情勢は一変するだろう。命令してでも彼女を国外へ逃がすべきなんじゃないのか。どうしてそうしない?」

 ドルムの口調はあくまで淡々としている。

「もしかして、あんたはキイラを象徴にしようとしているんじゃないか。伝承の乙女として」

 レイガンは言い淀んだが、やがて溜息を吐いて頷いた。

「その考えが頭にあったことは否定しない。聖女を擁している以上、こちらに大義があると言える。うまくすれば、今は〈王〉の側に付いているフタルの民らをわれわれの側に引き込むことも可能だろう」

「それは、キイラを道具として利用することとなにが違う?」

「ああ、違わないな」

「それなら……」

「待ってくれ。聖女だけを逃がすのか?」

 背の高いフタル人の男が声を上げた。彼の名はアイネベルン。

「言いたいことは分かる。だが、みんな納得しないだろう……特にフタル人は。一度は戦いを諦めた人々が、相応の覚悟を胸に立ち上がったんだ」

「ドルムの言うことは正しいし、アイネベルンの言うことにも一理ある。キイラがどうしたいかだろう」

 レイガンが柔らかく遮った。

「彼女はもう大人なのだから。キイラ」

 そうだ、とキイラは思った。いつまでも、向こうから選択肢を提示してもらえるわけではないのだ。キイラは落ち着いた声で言った。

「この国を出て行くわけにはいかない。わたしには、この戦いにおける役割がある」

「天と地を再び結びつける?」

「伝承をどこまで信じるべきかは分からない。でも、少なくとも、多くの人々にとってはわたしは伝承の鍵なんだわ。利用できるものは利用すべきだとも思う。綺麗事だけではやっていけない」

「ジストフィルドに殺されるぞ」

 思わずというように、ドルムが押し殺したような切迫感のある声で言った。

「神殿が……」

「イスリオがそうさせないわ」

 確信があった。イスリオはキイラを見失ったわけではない。

「その、イスリオに捕らえられて利用されるかもしれない」

「そのときはおれとキイラとでお互いを破壊する。二人でそう決めた」

 カドが答えると、ドルムが口を開きかけた。返事を待たずにカドは続けた。

「誰もが覚悟を持ってこの戦いに臨む。どうしておれたちだけが例外でいられるだろう」

 ドルムはまだなにか言おうとしたようだったが、結局は口を噤んだ。納得せざるをえなかったのだろう。レイガンが頷き、「分かった」と言った。

「それならば、今後の我々の身の振り方を考えよう。神殿は動き出した。こうなると〈王〉の側も無言ではいられない。コウロウ、叛乱軍はどう出るかな?」

「追放令のために駆り出されるのはリヴェナ、ロンドノルド、ミルンの各市に駐屯している治安部隊のはず。逆に言えば、このタイミングでなにかが起きたときにはトラヴィアの本隊が対応しなければならなくなる。イスリオの狙いは最高神祇官の暗殺だろうから、本隊を都から動かしたいと考えるだろうね」

 コウロウが考えながら言った。

「しかし、本隊に全兵力をぶつけたとしても、数の上では叛乱軍のほうが圧倒的に劣勢だ。少なくとも二千の軍勢を相手にしなければならないはずだから、真正面から戦ったのでは勝ち目がない……」

 キヤルクが頷き、続きを受けた。

「戦術の基本は相手よりも多い人数で戦うこと。叛乱軍としては当然、戦力を分散させることを狙うだろうな。国軍はどう動くだろう?」

「早期に〈秋の砦〉を攻め落とそうとするんじゃないかしら。叛乱軍と言えども、イスリオを失えば烏合の衆にすぎないのだから」

 ユタが控えめに言った。

「〈秋の砦〉はどこに?」

「沈黙の森のずっと西側だ。南西の山を背にするように築いてあって、東にはシロン川の分流が流れてる。唯一攻め入れそうな北側は急な崖になっているから、四つの砦の中では一番堅牢な造りになっているという話だった」

「〈秋の砦〉に向かうなら街道を経由する必要があるが、カダン付近では道幅が狭くなる。二列縦隊にならざるをえないから、そうなるとかなり移動速度が落ちる。特に冬の行軍だ。補給の問題を考えて、おそらくは分進合撃の策を取ることになるだろう」

「イスリオは当然そこを狙うだろうな。ジストフィルドがそんな危険を冒すだろうか?」

 レイガンが考え深げに顎を摩った。

「国軍が〈秋の砦〉を積極的に攻撃しにいくことはしないんじゃないか。大隊がトラヴィアに留まり続ければ、叛乱軍はいずれ出てこざるをえない。消耗戦に耐えられるほどの兵力がないのだから、決着を急ぎたいのは〈王〉の側も同じはずだ……」

 キイラは顔を顰めた。

「じゃあ、イスリオはどうやって本隊を誘き出すの?」

「そう!」レイガンが両手を打ち合わせた。「イスリオは本隊を誘き出そうとする。有効な手段はひとつしかない。少なくとも私の考える範囲では。内乱だ……」

「内乱?」

「大規模な内乱をトラヴィアの付近で同時に起こす。少なくとも二箇所以上でだ。各市の治安部隊は手一杯だろうし、向かうのに時間がかかりすぎるから、鎮圧のために都から分隊を出さないわけにはいかない」

「叛乱軍にそんな余剰の兵力があるか?」

「背後にアルスルムがついている。それに、彼らの目的はそもそも軍事上の勝利じゃない。最高神祇官を殺せればいいんだ。分隊を各個撃破できればいいし、そうでなくても別に構わないのだろう。第一次掃討作戦のときから、彼らの動きは随分破滅的だ。正直なところ、投げやりにさえ思える……」

 それを聞いて、キイラはずっと感じていた奇妙さを再認識した。〈春の砦〉の記録もそうだ。

——われらがフタルの手に栄光を取り戻すために。

 イスリオはそう言った。しかし、イスリオはフタル人を勝利させようとしているのか?

「我々の目的は三つ。国軍にフタル人を殲滅させないこと。〈王〉に最高神祇官を殺させないこと。そして、聖女を誰にも奪わせないことだ」

 レイガンが全員の顔を見渡し、言った。

「決勝点は神殿だと考えている。それ以外はできるだけ少ない戦力で済ませるべきだ。われわれに戦力と呼べるものがあるとするならだが……」

 ここでレイガンは少し苦笑した。

「内乱が精確に予想できれば、両軍の進撃経路も予測がつく。もっと情報が要るな……各市に偵察を出そう」

 コウロウが頷いた。

「ナガル川よりも南はフタル人に寛容だ。差し当たっては、土地を追われた人々を匿うことが必要だろう。治安部隊は魔術師団ではない。われわれの中から魔術師何人かを充てるだけでも事足りる」

「私が行こう」と女魔術師のハイネが声高に言った。「リボットも来てくれ。われわれの専門は守りに向いている」

「本当に、大軍で叩かれるってことはないんだろうな」

 イドが不安げに言った。

「それに、治安部隊と戦うことが前提だ。敵方に神殿の魔術師が混じっていたら一溜まりもない」

「先ほどの予想が現実には起こらなかったとしても、国軍にそんな余力はない。彼らは疲弊しているし、そもそもこんな布令を出して、本気でフタル人らを一人残らず追い出せるとは思っていない。特に末端のほうはね。このタイミングで追放令を発布したこと自体が、神殿の余裕のなさを物語っていると言っていいだろう」

「追放されたフタルの民を守るのはいい。だが、大切なことがもうひとつある」

 それまで黙っていたキヤルクが言った。

「最高神祇官を殺させない、とあなたは言った。暗殺を防いだところでどうする? レベレスとイスリオの手を取って握手でもさせるか? 国軍と叛乱軍が潰しあったあとに残るものはなんだ……」

「もっと適した人物を最高神祇官として擁立する。言い伝えが正しいとすればそれはルースとアルバの両方に認められた人物で、実際のところその人物しか考えつかない。神殿が権力を握る時代は終わるだろう。政治的な力や魔術の実力は問題ではない、新しい時代においては、最高神祇官は単なる象徴となるべきなのだから」

「誰だ、その人物というのは」

 キヤルクが驚いて尋ねた。レイガンは笑いもせずに答えた。

「キイラだ」

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