第44話
静寂の中に、震えるような八弦琴の音色が響いた。耳をそばだてなければ聞き落とすほどの小さな音だった。民話「ロギと竜」は、静けさとともに始まる。
枝に銀の霜が降り、フタル人たちは不安げにモルフの毛で編んだケープをかき合わせた。イドが月のない空の天幕を織り上げ、コウロウが
モルフ飼いの青年ロギである。その横顔は、真剣な表情で呪文を操る造り手の顔にどこか似ているが、明らかにフタル人の特徴を有している。冬枯れの下草を踏み分ける足音。ドルムの指先が繊細な幻のヴェールを幾層にも重ね、青年は動き出した。魔術の旋律に加わったレイガンが調光を担い、彼の足元に、布の重なりのあわいに、揺れる淡い影を生み出す。視界の端で、ゼアンが息を飲むのが分かった。
カドが小さく瞬いたので、キイラははっとして、視えざる手で魔術のタピストリを広げた。凍てつくような冬の匂い。結界の準備が必要となる、大掛かりな呪文だ。
モルフ飼いの賢いロギは、妹の病を治すために竜の棲む二月の森に足を踏み入れる。竜は世界のはじまりを知る最も旧い者であり、その体には大いなる叡智の血が流れている。ロギが竜のもとを訪れると、竜はロギの肌を醜い鱗で覆ってしまう。強欲な竜はロギに渇きを癒すシムルムの雫石を持ってくるように命じ、こう言う。
『太陽の東、月の西へ』
レイガンが視えざる竪琴を爪弾くようにして、海を喚ぶ。
荒々しい海ではない。海は穏やかに満ち、水面から射し込む月の光が揺らぎながら人々を包む。
ロギはただ一人沈んでゆく。死に近づいてゆくように、光の届かない深層へと。その静けさはどこか物哀しくもある。
ロギは鱗に覆われた体でルウル海の底深くへと潜り、大魚に左手を食いちぎられながらもシムルムの雫石を掬いあげる。彼が竜のもとに戻ると、竜は今度はロギの脚を獣の蹄へと変えてしまう。竜は包み込んだものを隠すライララの布を望み、こう言う。
『月の西、太陽の東へ』
じりじりと照りつける陽光。ユタが口ずさむ詩歌の響きは異国の旋律に似て、乾き、ざらついている。熱風の中のむせ返るような砂埃の匂い。
ロギは獣の脚で砂漠を渡り、右目と引き換えに西の賢者にライララの布を織らせるが、その帰りに水晶の都を見つける。ロギは水晶の枝を折り取って剣とし、ライララの布の中に隠して持ち帰る。
ロギは竜に妹の病を治すつもりがないことに気づく。竜の森へと帰ったロギは、水晶の剣を油断していた竜の心臓に突き立てる。竜は苦しみ、怒り狂ってロギを引き裂こうとするが、ロギは素早い獣の脚で逃げ去ってしまう。醜い姿となったロギは村へは戻れず、竜の影に怯えて夜空へと隠れてしまった。竜は癒えない傷から血を流し続け、その血でできた川の水がロギの妹の病を癒やす。この川が現在のナガル川であり、ロギは今でも夜空を駆け続けているという。
ポロン、とキリの爪弾く最後の弦が鳴り響き、呪文のヴェールが一枚、また一枚と溶けるようにほどけていった。ドルムがゆっくりと腕を下ろし、詰めていた息を細く長く吐く。
フタル人たちは夢から醒めたような顔をして、ある者は怯え、ある者は名残惜しむようにあたりを見回していた。戸惑いながら、ひっそりと涙を拭うものもいた。歓声はなく、誰もが未だ緊張していたが、こちらに向けられる眼差しは、少なくともどこか今までと違った視線であるように感じられた。
あるいは、そう思いたいだけなのかも。
感傷的な余韻の残る頭でキイラは考えた。〈冬の砦〉でちょっとした魔術を見せたとき、カタリアは無邪気に喜んだ。無害で、ただ美しいだけの、ごくささやかな魔術。あの少女と同じように、この集落の人々にも魔術は恐ろしいだけのものではないのだと知ってほしかった。
そのとき、冷ややかな声がかかった。
「甘く見られたものだ」
キヤルクの弟、フラウだった。彼は首を傾げ、前に進み出た。人々を見回す。
「こういうのは、確かに若いものたちや女たちには効果覿面かもな。だが、どうだ。そうして唆され、利用され、結局傷つけられるのはそういう弱い者たちだ……」
「フラウ、平和を欲するなら戦に備えなくてはならない」控えめな咳払いをし、レイガンが静かに言った。「そして、そのために私たちは……」
「気安く俺の名前を呼ぶな」フラウが恐ろしい形相でレイガンを睨んだ。「平和を欲するなら? おまえたちがここを出て行けば済む話じゃないのか。殲滅戦だって? なぜ神兵どもがここにまで攻めよせると言える」
「パルテが逃げ出したからだ」
その返答に、キイラは息を飲んだ。神官のパルテ。脱走者。
「間違いなく、彼はこの場所を神殿に報告しただろう」
「神殿に辿り着けたかは分からんぞ。馬もなければ十分な装備もなかったはずだ。そもそも、トラヴィアに向かったかどうかも……」
「いいや、残念ながら。私は彼に赤銅の指環を嵌めた」
キイラとドルム、そしてユタを除いては、その言葉の意味するところは分からなかったはずだ。それでも、フラウは禍々しい気配を鋭敏に嗅ぎ取ったらしかった。
「なぜ」キイラが小さく呟いたはずの言葉を、フラウが口走った。「なぜ殺さなかった。あらかじめ分かっていたのなら」
レイガンは口を開き、答えようとしたが、その声はフラウの唸りに掻き消された。
「おまえたちは邪悪な竜だ」
憎しみを籠めて、指が突きつけられる。
「甘い言葉で幻惑し、安全なところから俺たちを利用する。都合のいいように使い捨てようとするだけだ」
ドルムが囁いた。
「なればこそ、僕たちの心臓に刃を突き立てるのか」
「お前たちはそうしてきた!」
フラウが弾劾するように声を張り上げた。髪を振り乱し、キイラたちに一歩近寄る。どこからか、女の小さな悲鳴が聞こえた。
「レイガン、お前が殺した同胞たちの魂の叫びがこの耳に聴こえるのだ。誰がなんと言おうと、例え兄貴が命じようとも、俺はお前を赦すことはない……」
キヤルクが弟の名を呼び、彼の前に進み出ようとした。
「キヤルク、止めるな!」
なにか禍々しいものが靄となって、フラウのこめかみのあたりから生ずるのが見えた。靄はひどく馴染み深い彗星の色を帯び、膨れ上がり、彼の周囲一帯を呑み込まんとした。キイラは目を凝らし、靄の中に憎しみとは別の、もっと弱々しい色彩を見出した。それは〈恐れ〉だった。
「赦す必要はない」レイガンがほとんど平坦にも聞こえる声音で言った。「赦されたいとも思わん。すべてが終わったら、私を断罪するといい。もとより、一度死んだはずの身だ」
ドルムが思わずといったようにレイガンの腕を掴んだが、レイガンはそっとその手を外した。
「竜の心臓を貫いたあと、ロギはどうなった。醜い姿のまま、怯えながら逃げ続けるだけだ。あくまで憎しみを武器とするのであれば、我々に待っているのはそれに応じた結末だろう」
「だが、家族を……きょうだいを救うことはできる」
「いいや、救えない……」
「わたしたちはみんな家族を救いたいだけ」
耐えきれなくなってキイラは口を開いた。
「多くのものを失ってきた。このままなら、わたしたちが救えるのはほんのひとりふたりだわ。手を引いて、走って逃げられるだけの人数。それではだめ。だめなんだ……」
「おまえのような小娘の言葉など」
聞くに値しない、とフラウが吐き捨て、群衆の中から啜り泣きが聞こえた。キイラは視えざる腕を伸ばし、〈怖れ〉の靄を抱きしめようとした。フラウが動揺し、後ずさった。
「それは殺戮の道具だ!」
「違う!」
キイラは首を振った。
「魔術が好き。だからあなたがたに見せたかった。わたしの友だちがこれを気に入ってくれたから。魔術は殺しの道具にもなる、だけど、そうじゃない世界がわたしは見てみたい。それは、イベル人だけではけっして成しえない」
「傲慢な理屈だ。おまえの言葉はどこまでも身勝手な言い分でしかない」
「そうかもしれない」
キイラは思い切ってフラウのほうにもう一歩踏み出し、彼に直接触れようとした。フラウは身を震わせ、顔を歪めてキイラを振り払おうとする。
そのとき、光が現れた。
どこからともなくふわりと舞い降りた光は、ぼんやりと瞬きながら二人の間を不安定に横切った。フラウは動きを止め、それを目で追った。光はひとりのフタル人の少年の肩にそっと留まった。それは、冬の森にいるはずもない燈虫の光だった。
光は、不思議に人々の注意を惹いた。
「レイガン」
レイガンは声の主に顔を向けた。それまでじっと口を噤んでいたキヤルクが、レイガンを見据えた。
「あなたはフタル人が殲滅されると言う。だが、それはどうか分からない。〈王〉に付き随うものたちの背後には大国アルスルムがある。この戦いは、イベル人とアルスルムの間の戦いになるのでないか」
「アルスルムが本気で手を貸すとは思えない。彼らは軍は寄越さない。アルスルムの目的はフタル人たちを勝利させることではなく、イベルタを疲弊させることだ。分かるだろう」
「そうだとすれば、あなたがたがそこまでする理由はなんだ。あなたは予言の話をした。あなたはこれまで多くを殺してきたくせに、強者としての身分を自ら捨て去り、あまりに多くの犠牲を払おうとしている。それは、ただ不確かな予言を実現させるためなのか」
キヤルクが尋ねた。
「われわれはそれぞれ別の存在だ。異なる神に仕え、異なる理に生きる。私には理解できない。あなたがたがそうまでして、われわれと手を結びたがる理由が」
レイガンは沈黙した。その場のすべての人間が、息を飲んで彼の返答を待っていた。言葉を選ぶような間のあとで、彼は掠れた声で喋りはじめた。
「異なるものを排除して歩もうとする。そうした国に待ちうけるのは滅びの運命だ。イベルがフタルを滅ぼし、アルスルムがイベルを滅ぼし、アルスルムもいずれは何者かに滅ぼされるだろう。滅びの連鎖だ」
レイガンは人々を見回した。
「私はかつて、フタル人がイベル人の王を討ち取り、この国を治めるべきだと考えていた。イベル人の王の下ではこの国はいずれ戦火の中に潰える。失われる、あるべき信仰の姿も、先人たちが織り上げた学術の美も、人々の労わりや愛も、なにもかも。正しき道のためにはときに理不尽を呑み、血を流すこともやむをえない。例え地獄に堕とされようと、誰かがそれを成し遂げなければならない……それは誤りだと今は思う。暗殺による王権の簒奪、それは真の意味での解決は齎さない。フタル人とイベル人がともに祈り、歩む国家でなければ。信じてくれ──」
信じてくれ。その言葉がかつて自分に向けられたことを、キイラは思い出していた。今フタル人たちに語りかけるレイガンの声は、しかし記憶の中の響きとは違っていた。
「私は私の国を、イベルタを守りたいだけだ。私の兄弟姉妹を。友人を。これからを生きる人々を」
そう言うと、レイガンは意を決したように手袋を脱ぎ、焼けただれた右手を差し出した。キヤルクの目の前に。
「新しい国が必要だ。あなたがたにも分かるはずだ。キヤルク、われわれが作るべきは争いの国ではない。祈りの国なのだと」
差し伸べられたレイガンの手を見つめ、キヤルクは静止した。長い間、二人は動かなかった。
キヤルク、と誰かの声が小さく掛かった。それでもキヤルクは凍りついたまま、逡巡しているようだった。キイラは彼の顔に浮かぶ苦悩を見て取った。苦悩の刻んだ翳は、彼を実際以上の年齢に見せかけていた。キイラは今、これまで思っていたよりもずっと彼が年若いことに今気づいた。
永遠にも等しい時間が流れたころ、フタル人たちの中から少年が姿を現した。ゼアンの兄のルグイだった。彼は膠着状態となった二人の大人の横をすり抜けて、ドルムの傍へと駆け寄った。そして、彼の手を取った。ドルムが驚きながらルグイの手を握り返すと、つられるようにキリが走ってきて、八弦琴を抱きかかえたままドルムを見上げた。
次いで、その他の子供たちが。困惑したように呼び止める父や母の声を意に介さず、魔術師たちの手を取りはじめた。無邪気に、小さな手で。あのイドでさえ、少女に手を握られて面食らっている。
キイラが驚いてあたりを見回していると、肩におずおずとなにものかが触れた。振り返れば、すぐ傍にラメンダが立っていた。キイラは自分から彼女の手を握りしめた。
「ラメンダ」
彼女の手は女性にしては大振りで、あかぎれだらけで、そして仄かな香辛料の匂いがした。ラメンダはなにも言わず、キイラを包み込むように抱擁した。キイラはそこに母の温もりを見いだした。彼女が涙を流しているのが分かったから、キイラは黙ったまま、その背に腕を回した。
そこかしこで、フタル人とイベル人たちが戸惑いながらも握手を交わし、ぎこちなく肩を抱き合っていた。入り混じった彼らは、今はもうほとんど見分けがつかなかった。
それと同時に、この場から立ち去っていくフタル人の姿をキイラは見た。一人、二人と、彼らは暗がりの中に消えていった。
「受け入れられるものもいれば、受け入れられないものもいる」
カドが言った。
「それでも、いつか」
キイラは呟き、離れたところで握手を交わすキヤルクとレイガンの姿を眺めた。新しい雪のちらつく中に、燈虫が舞っている。瞬きながら、彼らは夜の森の中へと向かっていく。それは、魔術師の誰かが作り出した幻かもしれなかった。それでもよかった。ここからだ、とキイラは思った。ここから、ようやく始まるのだ。
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