9.「飛ぶ蟹」(全文)
サワガニにかんしては騙された。海から一◯分ほど歩いた山のうえに父の別荘があり、海水浴のあとは水着のまま坂をのぼった。小二の夏だったと思う。父と手をつないで歩いていて、側溝に蟹がうずくまっているのを見つけた。青白い小さな蟹だ。すでに還暦を過ぎていた父の手は、血管がぼこぼこ浮いていた。透ける管は青く、押すとやわらかかった。
「知ってるか。蟹って飛ぶんだよ」
「嘘だ」
即座に否定したおれの手をぐりぐりと揉んで、本当だよと父は笑った。
「飛べなきゃ海からここまで上がってこられない。こんなちびが坂をのぼれると思うか?」
甲羅の中に羽があるのだと言った。カブトムシと同じだと。すきとおった羽がしまわれていてぱかっと開くんだよと、父はまじめに説明してみせた。
「そんなのきいたことない」
「そりゃそうだ、世の中の仕組みってそういうものだよ。誰かがひとつひとつ丁寧にお前に教えてくれるわけじゃない。いろんなひとからいろんなことを聞きかじったり、盗み聞きしたりしなけりゃならない」
飛ぶのは夜だけなんだ、明るい時間は敵が多いから。海で過ごすのは暗い間で、夜明け前に山へ帰る。昼間は日陰でじっとして過ごす。父はそう言った。
ありえないとは思いつつ、なぜか、そうかもしれないなあと納得もした。おれは海も山もない町に住んでいて、蟹のことなんて知らなかったから。
「ふつうの蟹は赤いだろ、あれは飛ばない。飛ぶ蟹は、青いんだよ」
しわの目立つ父の指につつかれ、蟹はごそごそ動いた。片側のはさみがちょっと大きい。側溝は湿って苔が這い、木漏れ日に青い背がひかった。
もちろん蟹に羽がないことも、あれがサワガニだったろうことも、今では知っている。夏休みにしか会えない父はとんでもないホラ吹きで、しかしおれとあれこれしゃべりたかったのだと、親子らしい会話をしてみたかったのだと、今ならなんとなくわかる。聞きかじりと盗み聞きの蓄積により「隠し子」は察しのいい十九歳になった。父には別な家族があり、母さんとおれはずっとふたりで暮らしている。
病院の喫煙スペースは屋外だった。駐車場の隅、黄色い日差しがのどかだが寒い。一月はもう半ばになる。父の病室を訪ねるのはためらわれた。黙って訪ねてみようというイキオイは高速道路で落っことした。250ccスクーターだからだろうか。100キロ出すの、しんどかった。
父は肺に水がたまって入院したという。以前から咳が多かったようだと母さんからきいたものの、ぴんとこない。たいしたことないらしい、八十近いとはいえすぐにどうこうってことじゃないよ、母さんは笑ってすらいた。でも、めったに会わず元からいないような父がついに死んでしまうのかと、いささかドラマチックに酔ってしまって、ヤマハ・マグザムを走らせた。何やってんだろうなと思う。サービスエリアの豚丼はうまかった。さて19本390円のラークは残り少なだ。ポケットの中で箱がへこんだ。母さんからもう一箱わけてもらっておけばよかった。おれの母親はあらゆる事象に「ばれなきゃいいよ」の呪文をかけてくれる。
「かっこいいのに乗ってんね」
ベンチに座っていたおんなに声をかけられた。
二十代後半か、三十前後くらいだ。
「野田ナンバーって、埼玉から?」
ライター貸してくんない、おんなは笑った。おれは髪をキンパツにしているためか、喫煙所で話しかけられやすい。背の高いおんなで、長い足に赤いスニーカーが目立った。ありがとね、どーいたしまして。
「野田は千葉ですよ」
「ああそうか。あっちのことはわからんね。学生?」
「最終学歴は自動車教習所です」
おんなは白い歯をみせた。
「そのわりに、というか、だからか? いいのに乗ってる」
「水没車ですけどね」
正確には多少の冠水だ。少々どこかで水に浸かったそれを、知り合いの知り合いから安く譲ってもらった。ビッグスクーターのブームは去ったが、気軽だし車検がいらないのがいい。ひからびた蟹がはりついていたときいて、買うのを決めた。という理由は誰に話しても信じてもらえないし、自分でもよくわからない。
「でもここまで走ってきたんなら大したもんやね、オートバイもあんたも」
「あれスクーターです」
「ごめんごめん、そういうの全然わかんない」
だいたい蟹云々は持ち主の冗談かもしれず、横歩きなのはおれの思考だ。おんなはスマホをいじりはじめ、会話はフェードアウトした。
……たとえばこの人がおれの「姪っ子」だったら? 妄想はすっかり癖になっている。
「ばれなきゃいいよ」の魔法によって生まれた子どもがおれで、とはいえ認知はされているから戸籍上は隠れていない。父の家族が知らないだけだ。ハッキリ言わないことは、嘘だろうか。おれは嘘の存在だろうか。
婚姻関係にない男女間の子を非嫡出子という。ひちゃくしゅつし、舌をかみそうだ。閻魔様に引っこ抜かれる前に、自分でかみ切ってしまうかもしれない。父が亡くなりいろいろの手続きをおこなうと「ひちゃくしゅつし」は明るみに出るらしいから、おれは時限爆弾であり側溝でうずくまる蟹だろう。昼のあいだはじっとしている。
インターネットで調べたが、非嫡出子も実子も相続の権利は同じらしい。金持ちの父が死んでしまったら、おれにはあの山の上の家をくれないかなと思う。金のことはうまく想像がつかない。なん百万円? ソーゾクゼイ、もよくわからん。
父の「本妻」はすでに亡くなっている。何人かいる子どもは母さんより歳上で、孫は女でひとりだけ。とっくに大人になっており美容師だときいた。おれにとっては姪っ子だ。歳上の姪っ子さんにいつか会うことがあったら、お年玉をもらえるだろうか、それともおれがあげるのだろうか。何か、話すだろうか。
「もしもし?」
おんなは電話をはじめた。
「もう着いてるよ、外の喫煙所。や、ポチ袋は買っといたよ」
おんなが言う。ポチ袋。
「時期も外しちゃったし、三千円ずつやないの。差をつけたほうがいいかね、わからん」
知らない歳上のおんなと話すと、この人こそおれの「姪っ子」ではないかと、いつも妄想してしまう。もしかしたらこの人と親戚かもしれない。たとえば正月、一緒に餅を食ったり、トランプしたりするかもしれない。山の上の家は坂道がきついから、マグザムが役に立つだろう。姪っ子さんとタンデムしたりして? それってけっこうかっこいいな。シンセキであつまる正月というのは、重箱におせちをつめるのだろうか。いつも母さんとふたりだから、したことがないな。
「じいさんは寝てたよ。そろそろ起きてるかもしらんね」
父はねむっているだろうか。肺に水がたまるのって、呼吸が苦しそうだ。父は陸でおぼれるのだろうか。水没車のように修理はできまい。サワガニのことを考える。サワガニは淡水の生きものだ。あの日父がつついた青い甲羅は海のそばで暮らしていたが、海を知ることはなかったろう。そういえば今日は火曜で、美容室は休みだなと思う。スマホを持つおんなの指は長く、ハサミが似合いそうだ。あの蟹は片側のはさみだけ大きかった。はさみは白っぽかった。つついたのは父で、おれは触らなかった。こわかったわけではない。側溝は潮のにおいがした。山を這う毛細血管のようなほそい溝にあらかじめ海が含まれているのなら、サワガニは海に縁がないこともない、気もする。
「ねえ、キンパツライダー君」
いつのまにか電話を終えていたおんなは、ふたたびおれに声をかけた。
「五百円玉を千円札に両替ってできないかな。親戚の子にお年玉用意したいんやけど、手持ちの千円札が足りなくて」
「いいですよ」
にぶい金色の硬貨2枚。おれが財布を出しているあいだ、ちゃりちゃりと手のひらで転がされていた。冬だからきっと冷えている。
「あの、こういうの知ってますか」
千円札を折ってみせる。右上の1000という数字を、ゼロと1のあいだで山折りして、左上の1000とくっつける。紙でできた谷をはさんでふれあう、1000と000。
「こうすると百万円札になるんですけど」
紙幣の数字はたやすく距離をなくす。二輪免許は不要だ。
「ハハハ、なるほどね。ゼロがみっつ増えんのね。子どもは喜ぶかも」
あるいはスナック芸、おんなは笑った。
「あげます」
「はい?」
「百万円、あげます。お年玉。おれ、あなたの叔父さんだから」
はあ、うん、どうもね。おんなは怪訝な顔をしてともかく五百円玉と交換し、足早に去った。タバコはまだ長かったが、灰皿には水がたまっていたため、すぐにおぼれた。硬貨はわずかぬくもっていた。
父はちょうどめしを食っていた。色のうすい食事で、サラダのかにかまだけが赤い。箸をうごかすたび、しろい手の甲に血管が浮いてぴくぴくふるえた。今でもあれはやわらかそうだ。……あの日手をつないだとき、ほんとはすこし緊張していたんだ。
「新幹線か」
「いや、羽で飛んで」
「は?」
おれの声はちいさくて、父はうまく聞きとれなかったらしい。
「車、車で来たんだよ」
「そうか」
中途半端な虚言だ。蟹が飛ぶくらいのことを言えたらよかった。久しぶりに会った父の髪はしろくほそくなっていて、赤んぼの産毛みたいだった。父は、元気そうにみえた。母さんにみせようと思ってスマホで写真を撮ることにした。
「どこ見ればいいんだ」
と言いつつピースは忘れない。
「ここがレンズだから」
手にはさわれなくてもこういうことはできる。
ところでライダーたちにはすれちがいざまピースサインであいさつしあう文化があるが、おれのはスクーターのため誰もしてくれなかった。だけどもオスのサワガニは片側のはさみが大きいから、いつだってピースだ。
〈了〉
短編集「飛ぶ蟹」 オカワダアキナ @Okwdznr
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