8.「海の数えかた」(サンプル)

 店主の青八木順はときおり横目でカウンターを眺め、そのたび腹の奥がじんわりとあたたかく疼く気がした。スツールに腰掛けた十三歳の姪はちいさくあくびしたり、ぼんやりとゲームしたりで、おとなしい。店が終わったらどこかへ連れていってあげなくちゃなと思う。

 喫茶ルビーはちいさなコーヒー屋だ。近くの寺が初詣客で賑わうから三が日はかきいれどきで、順は元旦から店をあけた。とはいえバイトを呼ぶには気が引けたため働くのは自分ひとりにし、メニューも絞っての〝特別営業〟だ。ふだんはナポリタンやトーストなどの軽食も出すが、正月はコーヒーといくつかのフロートのみとした。

 もうれつに混み合うことはなかった。初詣帰りらしい家族連れやカップル客が寄せては返す波のように続くものの、湾は穏やかだ、ひかえめに店をさざめかせ、ほどよいペースだった。注文をきき、コーヒーを淹れ、席へ運ぶ。なんだか自分は潮だまりを泳ぎまわるサカナのようだと思い、しかしここしばらく海岸まで出かけていないことに気づいた。歩いて一◯分ちょっと。近いのだ。近いから、わざわざ行くほどのことはなかった。順のふだんの買い物や用事は海岸の反対方面の駅前で事足りた。ついでがなければあっちへ行くことはない、そこに海があるのは確実で(おそらくこの世の何よりも)、おれが行こうが行くまいが、ちゃんとそこに海はある。だから、順はしばらく海岸へは行かなかった。

 ウインナコーヒーの注文が多かった。初詣の行列でつめたい風にさらされたあとは、あまい飲み物がほしくなるのだろう。あたたかな店のなかでたっぷりクリームをしぼるのは、なかなか幸福な仕事だと順は思う。晴れ着姿の客たちを眺め、正月らしさを味わった。店から出なくても、季節が目の前を行き過ぎるのはわかる。


「——叔父さん、山の数えかたって知ってる?」

 カップをさげてカウンターを拭いていたら、姪の葵に声をかけられた。ふとこぼれた声、のようでじっさいは慎重に間合いを読んだのだろう。もう夕方四時、客は奥にひと組だけだ。葵なりに気を使っていたらしい。ずっと、しずかに座っていた。

 葵は中学一年だが背が高い。もう165センチだという。誰に似たんだか、と葵の母親(順にとっては姉だ)は笑い、つまり死んだ夫に似ているらしかった。順の身長は170センチで、いずれ葵に抜かれてしまうのかなあと、しかしどこかうれしいことのように想像する。独り身なので、姪っ子の成長はよろこばしい。

「山?」

「うん、クイズ」

 葵はスマートフォンをいじっており、何やら雑学クイズのようなゲームをしているらしかった。やけに真剣な表情に見えたが、ナニカシラ画面に向かっているときは誰でもそうだろう。むかし自分が熱心にファミコンをやりこんだことを思い出す。そうして物書きの姉が、いつだって鬼気迫る顔つきで文章を書いていることも。

「知らないなあ。ひとつふたつじゃないの」

 母親が年末にインフルエンザにかかったため、葵は順のところへ〝隔離〟された。〆切り前で不規則な生活がつづいていたから、ウイルスに勝てなかったと本人は語った。

 喫茶ルビーは二階が順の住まいになっていて、葵は昼過ぎまでテレビの正月番組を見ていたが飽きてしまったらしく、店へ降りてきていた。とはいえ特に何をするでもなく、おとなしくカウンターに座っていた。順は葵を横目で見守りつつ、店をまわした。時おり葵に声をかけ、簡単な作業を手伝ってもらった。そのほうが葵も気が楽だろうと思ってそうしたのだが、しかしそれは自分が手を動かしているほうが落ち着く性分だからかもしれず、十三歳の姪がどういうことをよろこびかなしむのかはよくわからなかった。ベリーショートの髪はほとんど揺れない。むだなものの少ない葵はいつだって、表情も口数も最低限だと順は思う。

「いちざ、にざ、っていうんだって」

 見せてもらった画面には「正解・座」とおおきく表示されていた。一座、二座。

 日が傾いて、初詣のにぎわいもだいぶ落ち着いたようだった。波はひきつつある。営業は六時までとしていたが、五時まででもよかったかもしれない。

「へえ、座か。つまり、山は座っているんだね。そう思うと、山って体育座りしているみたいに見えてくるね」

 来年も正月営業をするなら五時までにしようと思ったが、果たしてそれを一年覚えていられるだろうかと順は心のうちで苦笑した。三六歳。働き盛りではあるが、少しずつ少しずつ、自分のピークが過ぎつつある気がした。あるいはひとりでいるからかもしれない。誰か隣にいたら、来年は五時でいいよねなんてことばを交わしていたら、ちゃんと覚えていられるだろう。あたまのなかのひとりごとは、あふれては消えていく。砂浜へ駆けてはじける波のあぶくのように、カップにとどまることはないコーヒーのように。

「……叔父さんって面白いね」

 葵はくすくす笑った。

「そうかな?」

「そうだよ」

 スマートフォンにすべらせた葵の指はすんなりと長く、そういえば爪の形はおれに似ているかもしれないなと順は思う。縦長で幅も広く、大きな爪だ。みじかく切って、なお大きい。姉の緑はもうちょっと花びらのような形だった気がした。

 すぐ手ばかり見てしまうのは、むかし自分がピアノを弾いていたためだろう。順はかつてバンドのピアノマンだった。歌をうたう女が遠くの街へ行ってしまい、バンドは宙ぶらりんになった。女は今もどこかで歌っている。女とはよく、浜辺でたばこを吸った。練習の帰りだとか、あるいは単にひまつぶしだとか。つまりつねに海に背を向けているのは、そういうことだ。

(つづく)

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